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何ごとにもとらわれない自由な世界
遍路旅では、これまでの束縛や苦労から解放されて、のんびり気ままに楽しい時間を過ごすことができる。私は、これほど自由を感じたことはなかった。「自由に考え、そして行動する」。これほどすばらしいことはないだろう。現実の生活の中でものを考えるときには、目的だとか、とらわれであるとか、無意識のうちに制約された土台の上に乗っていた。だが歩き遍路では、これが取り払われた時の快感を味わうことができた。すばらしい「命の洗濯の場所」だった。多くのお遍路さんも、「お遍路のよさは『自由』」と感じているようだ。
遍路旅は、幅広くて、しかも奥深い。人によって、時によって、色々なとらえ方、感じ方ができる。老若男女、宗派や思想、立場もかまわず、やさしく受け入れてくれる。そうした自由さと寛大さをもっている。そこが大きな魅力になっているのではないだろうか。
私のお遍路は、宗教を意識したものではなかったが、宗教が持っている、「心の平安」、「心の癒し」、「魂の救い」という要素も十分満足することができた。そして、「知性」、「感性」、「霊性(精神性)」をも満足させてくれる場でもあった。
お遍路では、特別何かの宗教を信仰するということではなく、次第に自分で自分の心の中に宗教心を養っているのではないだろうか。そういう意味で言うと、四国遍路は、やはりひとつの信仰といえると思う。
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四国歩き遍路のこころと魅力
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遍路は人生、心の旅
自分の遍路を振り返ってみた。
やはり「遍路は人生」だなあ―― 。
つくづくそう~実感させられた。
四国歩き遍路は人生を40数日に濃縮したものだと思う。
その時々に喜びあり、
悲しみ、苦しみ、失敗あり、
それを乗り越えたうれしさあり、
人との出会いやふれあいあり、
そして心の成長も……。
温暖できれいな四国の地を、鳥の声に耳を傾けたり、野に咲く花を眺めたり、大海原を見やりながら……、ある時は野の道やあぜの道、ある時は奥深い山の道、ある時は海辺や岬の道を、金剛杖をついてのんびり歩いていると、とても心が和んだ。歩きながら、ゆったりと流れる時を楽しむことができた。
遍路道には、人びとや自然とのたくさんの出会い、そしてふれあいがあった。土地の人たちからは、心温まるお接待や親切を毎日いただいた。小さな子供たちまでが元気に挨拶してくれ、励ましてもくれた。毎日が感謝と感動の連続だった。自然に涙が流れることが何度もあった。お寺の方々や地域の方々が暖かくわれわれ遍路を迎えてくれたことが、遍路道の支えになっていたのだとつくづく実感した。遍路を終わってからもこの気持ちをずっと忘れずに、他の人々に接していけたらいいと思う。
心癒してくれる自然に感謝の気持が湧き、慈しみも感じた。自然との融合も感じた。厳しい山の遍路道を越えた時には、何か自信につながり、やればできるんだという、気持ちにさせてもらった。そういうことも自然との心の交流ではあるまいか。
ひとりの歩きは、心の世界だ。思索、自問自答、瞑想、無心、ひらめきや感性が、その時々でさまざまに巡ってくる。お遍路は自分自身の「心の旅」でもあると思う。
四国歩き遍路は自然の美・人情の美・造形の美が融合した世界といえるのではないか。
町の中では、人との対話や心のふれあいがあり愉しい気持になるが、自然の中にも同じように、生きとし生けるものとの大きなふれあいがある。
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二日目、第七番十楽寺までは、のどかな田園の広がる山すその道だった。道端にはたくさんのタンポポやレンゲが咲いている。周りの畑には黄色い菜の花が一面に真黄色に咲いていてみごとだ。ところどころに桃畑があり、満開の花が咲いている。
たまに住宅街に入るが、こぶしが白い花をいっぱいつけている。花好きの私は、そうした花々を眺めながら歩いていてとても心がいやされていた。
午後、吉野川の川べりにたどり着くと、あふれんばかりに菜の花が咲き誇っている。菜の花の香りのするやわらかい風が吹いている。それがやさしく、頬をなでてくれる。
しばらく川岸を歩いていると、菜の花畑に夕日が当たり赤く次第に染まってゆく。――そういえば、故郷の川の周りにも一杯菜の花が咲いていた。夕方遊びをやめて、まだ元気を一杯残しながら、夕日で赤くなった菜の花畑の間を、我が家を目指して足早に歩いてゆく子供の頃の自分――それをふと懐かしく思い出した。菜の花に元気をもらい、宿への足取りが早まった。
常楽寺付近の民家の庭に咲いていた桜はまさに「桜花爛漫」、しばし見とれていた。
高知の竹林寺へ向けてこんもりとした木々のトンネルを歩いていくと、突然視界が広がり、鮮やかなピンクの桃の花、椿、小粒の木蓮が目に飛び込んできた。薫風がほほをなで、疲れが、すうーっと抜けていくようだった。高知から三十四番種間寺へ向かう 春野町 に広がる田園地帯では、その水路に多くのあじさいが植えられていて見事な花を咲き誇っていた。国道や町のいたるところに花壇が設けられ、道端にも花が植えられていて、目を楽しませてくれた。
花や庭との出会いも、ひとつの楽しみだった。心が和み、旅の疲れをふきとばしてくれるものだった。
山々に囲まれた細道、大海原の道、広々とした田園のあぜ道――そんな自然の中を一歩〳〵歩みを進めていくと自然に包み込まれているような気持ちになる。まるで、自分をいだいてくれるようなやさしい母の懐を感じる。とても穏やかな気持ちだ。こんなにもゆったりとした気持ちにさせてくれる自然に、いっぱいの感謝が湧いてくる。ところが不思議なことに、「いだかれている自分」が、その中を歩いているうちに知らず知らずに「いだく自分」に変わってしまっている。草の一本一本、花の一輪一輪、木の葉の一枚一枚がいとおしく感じてくる。
自然にいだかれている自分、自然をいつくしむ自分、それが渾然一体になって、自分が知らず知らずに自然の中に溶け込んでいくような気がする。こんなとき、〈自分もこの自然の中に生きる一つの生物なんだ。自分は自然に生かされているんだ〉と気づかされる。毎日々々自然の中を歩いていると、「自然は偉大だ」と思えてくるようになった。所詮人間なんて自然に比べればちっぽけな存在だ。それが実感としてわかってくる。大昔の人びとは、朝起きれば太陽に向かって祈りをささげ、自然にひれ伏し、自然の恵みに心から感謝していた。このことがよくわかっていたのだろう。
それがいつの間にか、「自然によって生かされている」ということを忘れ、「自然は利用するものだ」といった傲慢さが芽生え、破壊さえするようになった。恐ろしいことだ。だが、こうして自然の中を歩き続けていると、自分の――いや人間の傲慢さを打ち砕いてくれる。そして人間の小ささが見えてくる。
町の中では、人との対話や心のふれあいがあり愉しい気持になるが、自然の中にも同じように、生きとし生けるものとの大きなふれあいがある。
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静かな山道を、草木に囲まれながら歩を進めていると、何にもとらわれることのない、「無の状態」になるときがある。
そういうときの心は、自分でも、すなおですがすがしい。こういう心境を、「心が洗われる」というのだろうか……これを繰り返していると、心がみがかれていくのではないだろうか。
大変な思いをして、苦しみながら歩くことも「行」かも知れないが、自然を愛でたり、自然と融合したり、いろいろと思索をめぐらしたり、逆に無になったり、出会った人々と融和したり…、そうしながら歩くことも大切な行ではないだろうか。
急いで歩くと、「何も見えない、考えない、無心にもなれない、ふれ合えない…」。ただ気持があくせくしているだけになってしまうようだ。とにかく、ゆっくりと歩むことが大きな「行」を得られる秘訣のような気がする。
悟りにいたる方法として、「無」になれる座禅が最良の方法だと言われているが、ひたすら歩いている時には、これも「無」の状態だ。相通ずるものがある。この状態では、今までの自分がすっかり消えてしまって、てらいがなくなってしまう。「歩きは悟りにつながる」といえるのではないか。
八十六番札所で出会った青年が、
「八十八ヶ所を巡っても、自分をおいていくことができないのではないか…、と思います。悲しい自分を持って帰るような気がするんです」と言う。
彼の「どうしてなんでしょうかね?」という問に、私はとっさに返答ができなかった。
だが、逆にこう訊ねてみた。「あなたは、無心になれましたか?」と、
青年は、「そういえば、いつも苦しみから抜け出そうと、一生懸命もがいたり、考えていたように思います」と答えた。私は、
「『捨てる』ということは、そこから離れることだと思うのです。それには、何も考えずに無心になることが一番じゃないでしょうかね」と言った。
「お礼参りまでのあと三日間、何も考えずに歩いてみてはいかがですか。ここまで歩き通して来たのですから、意外に三日間で捨て切れるかもしれませんよ。それでも捨てきれない時は、心機一転、新たな気持でもう一度まわりなおして、捨て切れるまで歩いてみるのも一つの手かもしれませんよ」とアドバイスした。もちろん自信があっての言葉ではない。
その後、青年はどうなっただろうか…と時々気になっている。
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遍路道は「物思う道――思索の道」と言ってもいいかもしれない。「人生ってなんだろう!」。俗世間で語ったら、「なにをいまさら、いい年をして青臭いことを言っているんだ」なんて言われそうだ。神様はほんとうにいるのだろうか、生きることそして死ぬこと……そんなことを延々と考えながら歩いている時もある。遍路道では、瞑想でき、精神修養になり、無になることもでき、静寂を感じることもできる。
瞑想にふけりながら歩く静寂な山の遍路道
遍路道は「感性の泉」でもある。
自然の中を歩いていると、感性が働いて、次から次へと想いが湧いてくる。まるで心のつぶやきのような言葉が口をついてとめどなく出てくる。何ごとにもとらわれない自由気ままな自分自身の言葉が自然に出てくる。それを書き留めると、いつの間にか俳句や短歌のような、はたまた短い詩のような文が出来上がってしまう。自然を見ながら、まったく別なことが浮かび上がってくる。予想もしないことが、ポッと頭の中にひらめく時がある。そんな時は、思わずえ〜っと思う。それが展開する時もある。浮かび上がってくることの内容は、もちろんじっくりと考え抜くようなことではないが、むしろ本質的なことが多いのだ。 お遍路に来てから、どこかに置き忘れてきたような感性が自らの中に戻ってきたような感じがする
遍路旅は「自問自答」の旅でもある。
歩きながら、自分で自分に問いかけている時も多い。たまには、「お大師様どう思われますか?」なんてつぶやく時もあるが、結局、自分でそれに答えてやるしかない。自分に厳しい質問を浴びせて、真剣に考えさせる。瞑想と違ってけっこう激しいバトルが繰り返される。意識的に自分をいじめている、と思う時もある。だが、それを愉しんでいる。「考える」というのは、自分の中にいる二人の自分が、たがいに会話しあっていることではないだろうか。
こんなにも自由に物が考えられる……そんな旅は、歩き遍路以外はないだろう。まったく「ぜいたくな旅」だ、と思う。それを満喫できるのは、やはり独り歩きが一番だと思う。
お遍路は、漠然とした「期待の旅」とも言えるのではないだろうか。
私はお遍路を続けているうちに、知らず知らずにどこか自分が変われるんじゃないか、何かがつかめるのではないか……、そうすればその後の一生が有意義なものになるのではないか――という期待を持ちながら歩き続けていたように思う。私だけでなく、すべてのお遍路さんがそうではないだろうか。
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