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遍路に来ると、たちまち俗世界から別世界、言葉を変えれば「非日常世界」へ入ってしまう。本当に不思議だ。
日常のわずらわしさ、人間関係、仕事のノルマ、曜日だってまったく無関係。
世の中で何が起こっていようが、何も関係ない。
俗世界の中を歩いていても自分の周りには、目に見えないバリアーがはられていて、それが俗世界と遍路の世界を隔ててくれる。
「日常世界」では、常に何かしらのしがらみがある。すなおに自分を見つめているつもりでも、無意識の内にどこかに「とらわれ」がある。
今までの自分も、すなおに自分自身を見つめることは出来なかったと思う。
多かれ少なかれ、ほとんどの人がそうではあるまいか。
また、いつも同じ環境の中にいたのでは、それ以上は見えてこない。
人々の生活の中を歩き、人々と触れ合っていても、人々がその「お遍路世界」というバリアーの中に入ってきてくれて、お遍路世界の中で会話を交わしてくれる。
そんな気がした。まったくの別世界だ。
人通りの多い街の中や、自動車がひっきりなしに走っている国道を歩いていても、俗世界を離れた別の世界にいるように感じる。とても不思議だった。
他のお遍路さんをみても、誰もかれも自分は浮世とはまた異なった世界を歩いているといった匂いを漂わせている。
非日常の世界であるお遍路では、心がすなおになっているので、なににでも感動できる。
日常ではうずもれている感性が呼び覚まされてくるのだと思う。
すなおになれれば、感動がストレートに出てくる。
青い空を見上げただけでも喜びがこみ上げてくる――そんな世界なのだ。
私はお遍路世界に身を入れたとき、――環境も変わり家庭や社会といった俗世間から離れたとき――、利害、思惑、将来を踏まえての行動、自己抑制……、そんなことからすっかり解き放たれた。そして、またたく間にすがすがしい気分になれた。心がすごく軽くなったような気がした。まるで、心が洗われたようだ。
「見栄を捨てれば心が楽になる」。これも強く感じた。遍路中は、まったく見栄を張る必要がない。本当に気持が楽だった。
自然は人間の殻を破ってくれるような気がする。分別だとか、理屈だとか、ましてや小ざかしさだとか…、そういうものを取り去ってくれる。
取り去るというよりも知らない間に溶かしてくれる、と言ったほうがいいのかもしれない。
《自由に、すなおにものを考えることができる!》――。
これを「裸になった」というのだろうか。
いろいろな場面で、〈自分にはこんな面があったのか〉、と気づかされることも多かった。
今までにはなかったいろいろな自分を発見することがあった。
実は、お遍路で見える「今までなかった自分」は、もうひとりの自分ではなく、「本当の自分」ではなかったのか。
だだ、日常のいろいろなしがらみに忙殺され、潜在意識の中に深く閉じ込められて、気づかなかったのではないか。
どこかにしまい忘れていた大事なものが出てきた…、思いがけなく見つかった。そんな気がする。
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四国歩き遍路のこころと魅力
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毎日歩き続けていると、
「自分ひとりの力で歩いているのではない」という想いが、日増しに強くなっていく。
「われわれ遍路がこうして歩けるのは、四国の人びとの多くの支えがあるからだ。
遍路道周辺の人びとの温かい気持ちに囲まれながら歩いているのだ」と、つくづく思えてくる。
牟岐のお接待所
歩くという動作だけを考えれば、歩いているのは、確かに自分の二本の足だ。
だがそこには、足を守ってくれる靴があり、靴下がある。
それを作ってくれた人がいる。
人が作った道の上を歩いている。
山道だって自然のままではない。
その道を踏み固めたり、補修してくれる人がいる。
草を刈り、道しるべをつけてくれる人がいる。
道の周りを見れば、心を和ませてくれる花があり、木々がある。
鳥も鳴いている。
のどの渇きを癒してくれる清水もある。
鶴林寺から太龍寺へ向かう整備された遍路道
遍路道の要所要所にへんろみち保存協力会の遍路標識が立っている
34番種間寺まで向かう途中のアジサイロード
あちこちに弘法大師所縁の湧水がわたしたち遍路の乾いたのどをうるおしてくれます。
こういういくつもの ( 縁(えにし) )が私の歩みを支えてくれているのだ。
それを意識しなければ、罰が当たる……
そんな気持ちが自然にわいてくる。
そして、森羅万象すべてに感謝したい気持ちなる。
幸福感も感じる。
思わず目頭が熱くなるときもある。
「俗世界」に戻っても、この気持ちを持ち続けたい……
そう強く感じていた。
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歩いている時には、誰からも束縛されず、強制も受けず、まったく自由だ。
時間からも解放された世界だ。
お遍路に来るまでは、無意識のうちに何かのとらわれがあったが、
お遍路に来てからはそんなものはまったくなくなった。
自由な発想で物が考えられる。
空想もどんどん広がって行く。
「歩きは、物を見たり、考えたり、触れあったりする時の、
環境を変えてくれる手段」といえるかもしれない。
歩いている時に、ゆっくりと時間も場所も変わるから、
いろいろな出会いや発想のわきあがりがある。
立ち止まって、景色を見ながらぼんやりと物思いにふけるときもあれば、 真剣に考えるときもある。
何も考えずに、ただゆったり歩いているときもある。
そうかと思えば、黙々とただひたすら歩いているときもある。
どうしようとまったく自由なのだ。
色々なことを考えながら歩く旅もすてきだなあ…。
歩くって、こんなにも楽しいものか――実にこのような旅なのだ。
私は、早寝早起きして、俗世間のことなどを忘れて歩き続け、
すっかり健康を取り戻した。
はだかの自分と出会うこともできた。
遍路道の歩きは最高の心のぜいたくだった。
遍路をしながら、自分の人生を再吟味してみる。
今の自分でない自分を見つめなおしてみる。
そのためには歩くことが最適だし、
歩くためには四国の遍路道以上の場所はないだろう。
歩くということは、人間に何かを与えてくれる。
逆に言えば、人間は歩くことによってなにかを生み出している。
そういうことではないだろうか。
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「自分は真言宗でないが、八十八ヶ所巡りをしても良いのか」と、たまに訊かれることがある。お遍路は宗教を超えたもので、一種の修業の旅である。宗派はおろか仏教という枠さえ取り払った寛大さが、四国遍路の四国遍路たる由縁である。誰でも巡礼できるところが、四国遍路の大きな魅力だ。
私の遍路中にも、外国人の歩き遍路を数多く見かけた。四国の人たちは、外国人だろうが日本人だろうが何の意識も区別もせず、平等に「お遍路さん」として、暖かくお接待してくれる。もちろん、札所でも、差別の目で見る気配はさらさらない。
四十六番浄瑠璃寺へ向かう三坂峠を下る途中で、アイルランド人女性に追いついた。京都の大学で仏教を学びながら、短大で英語教師をしているそうだ。四国の半分を回ろうと思い、前日四十四番大宝寺をスタートしたとのことだ。少し一緒に歩いた所で、後ろから「お遍路さーん!」と呼ぶ、女性の声がした。振り返ると「お接待」らしい。私がそちらの方へ向かおうとすると、アイルランド女性はきょとんとしている。私が促してそちらへ連れて行くと、怪訝 (けげん )そうについて来た。缶コーヒーとパンを指し出されたが、受け取るのをためらっている様子だった。どうやら、「お接待」の意味がまだわからないらしい。日本語がほどほどにわかるので説明してあげると、やっと半分納得した感じで受け取った。理由のない贈り物は受け取らない、という欧米の習慣にしたがっていたらしい。それまで三度ほど声をかけられたが、何か不安だったので無視して通りすぎたという。わざわざ追いかけてきて、お接待しようとしてくれた人もいたが、断ったとのことだった。歩きながら詳しく話してやると、十分理解した様子だった。そして、「今までの人に、本当にごめんなさいでした」と、たどたどしい日本語で、心からすまなそうに私に謝った。浄瑠璃寺近くでのお接待には、「ありがとうございます」と、少しぎこちない日本語で、喜んで応じていた。
アイルランド人の女性遍路
焼山寺などの「遍路ころがし」と呼ばれる厳しい山の遍路道には、人生の励ましとなる教訓を書いた札が木に下げられている。この中に、キリスト教の訓えもいくつか混じっていた。
私は、遍路を終えて約二ヵ月後に、中国の西安を出発してトルコのイスタンブールまで、8カ国に渡る「シルクロード旅行」をした。その時のイランの現地ガイドは、日本に4年余り滞在していた人だった。私が、お遍路の話をすると、「自分も四国遍路をやりました」と言って、すっかり話が盛り上がってしまった。「四国遍路では、日本の文化や風土や人情にたくさん触れることが出来ると思って、出かけました」と流暢な日本語で言った。そして、「一番印象に残っているのは、お接待や心温まる親切だったです」と言っていた。四国の人々の人情は、国際親善にも役立っているようだ。「唯一神」であるアラーのみを信じなければならないイスラム教徒が遍路をしたことに、すっかり驚いてしまった。「やはり、お遍路はグローバルだなあ」と改めて感じさせられた。
円明寺の本堂には、四国最古の銅製の納経札があった。慶安三年(一六五〇年)と記されている。アメリカから来日して四国遍路をしていたスタール博士が、この札に深い関心を持ち、すばらしい価値を持つと紀行文に書いて紹介した。
平成17年12月20日付の朝日新聞「ひと」のコラムに、「お遍路さんで『日本の心』を知る新駐日カナダ大使」という題目で、新大使ジョセフ・キャロンさんが紹介されていた。
――カメラを持っての寺社巡りが好きで、四国遍路の88札所のうち59までたずねた。今回の滞在中に、残りすべてを礼拝するという。――
まるで弘法大師が時間や国を越えて存在しているようだ。時代が変わり、国が変わっても、聖なる遍路空間を旅する人の心は変わらない。まさに、「四国遍路はグローバル」だ。
夏らしい景色をどうぞ
雄大な太平洋 (高知県)
四万十川の清流 |
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私は、――四国の歩き遍路は、「生き方と向き合う道場」なのだ、と思う。
四国歩き遍路八十八ヶ所の旅は、人の暮らしの中を巡ってゆく。「人の暮らしを見ながら、自分の暮らしを振り返ってみる」。これが遍路の旅の一つの意義ではないだろうか。
お遍路の旅のように、いつもの生活から離れて遠くへ来て旅することは、非常にすばらしいことだと実感している。だが、長く巡っていて不思議に思ったことがある。――毎日お日さまが昇って、沈んで、そして、同じように朝が来て夜がくる。それが次の日も繰り返しまた次の日も繰り返してゆく…。こういうような当たり前のことが、どこか新鮮に見えてきたことだ。
足摺岬の夕暮れ
「草もち」をお接待してくれた、八坂寺の近所のおばちゃんは、毎日百個の草もちを何十年も淡々と作り続けている。遍路宿の老齢の女将さんは、これまた何十年と遍路の世話を続けている。遍路道を歩いていて、〈この空間が1200年以上もずうっと同じように呼吸してきたのだなあ〉としみじみ感じることがある。そして、「ささやかな日々の営みをていねいに行うことが大切なのではないか」と思わされた。
それにひきかえ我々は、もっともっと短い時間の中であくせく生きている…。その中で起こったことはいったいなんだろう、と考えさられてしまう。家に戻ったら「ていねいに暮らしてみようかな」などと思う。
われわれの生活を考えてみると、なにか特別のことがないとつまらないとか、わくわくするものがないといやだとか、生き生きしなければ生活じゃないとか…、こういう雰囲気に取り囲まれていて、ふつうのことを続けていくことのすばらしさや大切さを、見失っているのではないだろうか。私をはじめ多くの人びとが、そのありがたさをわからずに生きているのではないだろうか。思えば私などは、妻のほんとうのありがたさに目を向ける心の余裕もなく、あたり前のようにして、――せいぜいちょっぴり感謝する程度で、生きてきた。
「実はこういうあたり前のことがとても大切なのだ」と、お遍路に来てわからせてもらった。思わずお遍路に感謝の気持が沸いてくるのである。
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