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四国遍路道近くに住むブロ友さんのおばあちゃん(99才で五年前にお亡くなりました)が、生前次のようなことを話していたそうです。とても心に残る内容なので紹介させていただきます。
「人間はなぁ、自分が元気で働けることを、ありがたいと思わにゃいかん。働くということは、お線香のようにするのが一番じゃ」と言っていました。
お線香というものは、まっすぐなもので、人が亡くなって、お葬式のときは、「亡くなった人が少しでも早く成仏できますように」と、お線香を一本だけたて、そしてご法事のときや仏壇の前では、「本尊様、ご先祖と、自分と家族のために・・・」と祈って三本立てるのです。
「人は線香の様に働け」って言います、
一つは、線香がまっすぐ立っているように、人も、体はいつも姿勢良く、心はいつも正直に働くこと。
二つは、線香がいつも良い香りを出しているように、人も、いつも気持ちよく働くこと。
三つは、線香は、いったん火をつけたら、燃え尽きるまで、休みなく燃えるように、人も、一旦仕事を始めたら、陰日なたなく働くこと。
四つは、線香が燃え尽きるまで熱を持ち続けるように、人も、情熱を持って働き続けること。
五つは、線香が燃え尽きてしまうと、全部が灰になって、形も残らないように、人も、自分の働きを「恩に着せないこと」です。
これを「線香の五徳」といいます。
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四国歩き遍路のこころと魅力
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「お遍路さんそっちじゃないよ、こっちだよ!」
道を教えてくれることも立派なお接待だと思う。
歩いていると、「お遍路さん、そっちじゃないよ。こっちだよ」などと、声がかかる時がある。農作業をしている人や、町を歩いている人、商店の人などさまざまだ。地図の方向を見違えていた時など、この声で何度か助けられた。まさに、救いの神と思ったこともある。延光寺へ向かう時には、念のため確認しようと思った程度だったのに、50メートルくらい離れて農作業をしていた人が、わざわざ走ってきて道をおしえてくれた。そんな時、強い感謝の気持ちが湧いてくる。
だが、逆に、声をかけられてとまどうこともあった。六十五番三角寺へ向かう山際の集落で、例の呼び声がかかった。自分は地図どおり自信を持って歩いているつもりだったのだ。その時は地図を見せて「ここを行こうとしているのですが…」と言って確認すると、「なるほど、そうかね。じゃが、地図にはないが、この道のほうが近くていいよ」と言って、わざわざその小道の入り口まで案内してくれた。
この山道へ入ると伊予三島の街が見えてきた
たまには、相手の教えてくれる道と、自分が地図上で歩こうとしている道が食い違っていることがあった。教えてくれた道をそのまま歩いたら、地図に書いてある目印がさっぱり出てこなくて、不安になったこともある。 徳島市 街で、地図を見て遍路道でない最短距離を歩いていた時や、 高知市 内で郵便局へ行こうとして遍路道から外れた時に、やはり声をかけられた。地図を見せて説明したら、納得してくれた。
道後温泉で、その日泊る公務員宿泊施設に行くのに歓楽街を通った。〈ここは、山頭火が「をなごまちのどかなつきあたりは山門」と詠んだ例の花街だな…〉、と思いながら歩いていた。すると、中年男性が怪訝な顔をして「お遍路さん、どこへ行くんかね」と声をかけて来た。自分でも、〈場違いな道を歩いて、ちょっとはずかしいな〉という想いで歩いていたので、あわてて、「宿です」と、少しそっけない返事をしてしまった。
道後温泉
道後温泉の歓楽街 とにかく、――こうして声をかけてもらったり、聞けば親切に教えてくれるのは、われわれが「お遍路さん」という恵まれた立場にあるからだ――このことを謙虚に受け止めて、感謝することが大切ではないだろうか。
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初めての千円札のお接待
太山寺山門を出て円明寺に向かう。
暑い昼下がり、五十二番太山寺から五十三番円明寺へ向かって広い通りを歩いて行くと、60過ぎくらいの女性が自転車でやってきた。私の少し手前で自転車を止め、ていねいに頭を下げた。「どちらからいらっしゃったんですか?」との問いかけに始まり、立ち話になった。
そのうち、財布から千円を取り出して手渡そうとした。私にとっては高額だったので、思わず、「そんなにたくさんは申し訳ないです…」と、いただくのを躊躇した。すると、「私も定年になってから6回巡りましたが、その時にたくさんの人に親切にしていただいたので…」と言うので、「それでは、せっかくですのでちょうだいいたします」とありがたく受け取った。
「帰りましたら、礼状でも出しますので、住所を教えてください」と頼むと、「太山寺のそばで会った者とでも記憶していただければ…」と言う。「ありがとうございました」と言って、納め札を差し上げた。この千円は、恐れ多くて使えず、しまいこんでおいた。
白峯寺での粋なお接待
八十一番白峯寺山門
本堂
八十一番白峯寺で、巡拝をおえると、突然スコールのような大雨に見舞われた。
―― この時、讃岐に配流され非業の死を遂げた崇徳院の悲しみと怒りのように思われた。崇徳院の亡骸は山腹の白峯御陵に葬られている―― 。
雨宿りしながら、納経所でご住職と話をした。
その折に、お接待の千円のことを相談すると、「せっかくのご好意なので、相手への感謝の気持をこめた使い方をなさればいいと思いますよ」とアドバイスしてくれた。
「それでは、気持をこめてこのお寺に寄進させていただきます。このような有益なご助言をいただきましたし、個人的なことですが、この寺縁 (ゆかり)の『崇(す)徳 (とく)院(すとくいん)』と私の息子『崇 ( たか )徳 ( のり )』の名前が同じということも何かのご縁かと思いますので…」と言うと、「そういうことであれば、ありがたく頂戴いたします」と言って、ご住職はその千円札を押し頂いた。そして「その代わり、殊勝なお心に対して、ここの納経料はお接待させていただきます」と言って、私が納経料として納めた千円札を返してくれた。〈なかなか味な計らいをしてくれるものだ〉と、厚くお礼を述べて納経所を出ると、それはそれは見事な紅葉の紅葉であった。
崇徳院の歌碑
崇徳院の墓
なんともさびしい想いがした
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愛媛県大洲市は、1962年のNHK朝のドラマ「おはなはん」で一躍有名になった街である。撮影に使われた町並みが「おはなはん通り」と名づけられて観光スポットになっている。昼下がり、はは〜んここが「おはなはん通り」かと、うなずきながらのんびりと街の様子を眺めながら歩いていると、道路の反対側の前方から、乳母車にすがって歩いてくるおばあちゃんが目に入った。よちよち歩きで、ほんとうにやっと歩いている感じだった。とても気の毒というか、痛々しいというか……。〈おんぶしてあげたい〉と思うほどだった。
今までたくさんの人から恩を受けたので、このおばあちゃんに少しでも親切をしてお返しをしたいと思った。「こんにちは。たいへんそうですね」と声をかけた。そして「お手伝いさせてください」と言おうとしたら、おばあちゃんが、「お遍路さん!」と言って私を手招きした。近寄っていくと、しわだらけの手で少ししなびたみかんを黙って差し出してくれた。その瞬間、胸がしめつけられるように熱くなった。受取る私の手は、感動で震えていた。思わず涙がすうーっと流れ出て、右の頬を伝った。
〈本当は、私が助けてあげなければならないのに……〉、そんな思いだった。
「どうぞ乳母車に乗ってください。私に押させてくれませんか? 家まで送らせてください」と声をつまらせて言うと、
「ありがとう、ほんとうにありがとう」と、両手で私の手をきつく握りながら、
「私はまだお大師様から生かされているけん、この命を精一杯生きていかなければいけんのよ…」と言った。この言葉に思わずぐっと来た。これに対して、とっさになんと言って応えればいいのかわからず、「ありがとうございました。気をつけて行ってください」と言って、深々と頭を下げるしかなかった。よけいな親切だったのか…、でも声をかけてよかったのだと、自分に言い聞かせながら、複雑な気持で別れた。
「お大師様に生かされている」という言葉は、この時だけでなく、しばしば耳にした。弘法大師が、いかに多くの四国の人びとの、「生きる支え」、「心のよるべ」、そして「考え方のよりどころ」になっているか……、いろいろな場面で思い知らされた。
「おはなはん通り」
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岩本寺の弘法大師像
西予市 宇和町 の「まつちや旅館」の女将・黒田美穂さんは、客に頼まれたことは快く引き受けてやってくれる。宿泊者が自由に書き記す「遍路鈴」には、「…『お大師様のおっしゃることですから』と言って、大概の無理は聞いてくれる…」とか、「お大師様のお言葉と思って…」と言う内容がいくつか見られた。他にも多くの人が、「女将さんの人柄や心のこもったお接待ぶり」に対して、感謝や感動の気持を書き綴っていた。 私が、遍路に対する思いや、宿を続けている中で思い出深かったことなどについて書いてほしいとお願いすると、「書くのはご遠慮させていただいて、その代わりお話しするということでいかがでしょう」と言って、忙しい時間を割いていろいろな話をしてくれた。とても感動的で印象に残る話が多かった。三つ紹介する。
〔その1〕お寺の息子で20代の若い僧が、修業のためになんどもお遍路にきて、その都度宿泊し、自分といろいろと話をした。その若い僧は、「四国の風の音、水の音を聞くのが好きだ」と言っていた。人を寄せ付けない鋭さを持っていた。その後しばらく訪れなかったが、次に姿を見せた時には、タートルネックにズボン姿だった。
「実は、好きな人と結婚するために僧籍を離れ、一年半ほど暮らして子供もできたが、妻が理由もわからないまま突然いなくなった。その後自暴自棄の生活を送っていたが、また、四国へでも行ってみようかと思いやって来た」と話した。そして、「いったん挫折すると、それまでの修行が完全に崩れてしまった……」と言って泣いた。再びの修行を勧めると、「山や川での修行よりも里の修行がずっと困難…」と言っていた。その言葉が印象深い。その後どうなったかわからないが、現在40歳くらいではないだろうか。
〔その2〕高知の若い女性で、歩いて訪問した。始めは印象がなかった。ところが翌日、出かけるのを渋っているので、わけを聞くと、「自分は死出の旅をしている。死に場所を探す旅をしている。心身ともにぼろぼろです」、「自分は臭うでしょう? 周囲からくさいと言われています。高校時代からくさいといわれ続けています」というような話しをした。これに対し、「自分の周囲にも腋臭 ( わきが )が強い人がいるが、しっかりと生きている。臭いくらいで親からもらった大切な命を粗末にしてはいけない」など、いろいろと励ましを与えて、電車に乗せて自宅へ帰らせた。その後年賀状に「生きています」と書いてよこした。さらに一年後「専門学校に入った」、二年度「福祉関係に入った」、三年後「人間関係で悩んでいる」というような内容の年賀状をくれた。
〔その3〕松井さんという30歳代の検査技師の女性
大雨の日ずぶぬれになって自転車でやってきた。「母が末期がんで、いても立ってもいられずに、母のために何かしようと思い、母の死の時に着せる死装束を求めて遍路にやってきた」とのこと。私は「無理に自分をいじめても何のご利益にもならない。それよりもお母さんのそばにいてあげたほうがよい」と諭した。
私も母の末期がんを経験して結局は亡くしたこと、そして、妹も末期がんであることを話すと、松井さんは「自分は判着(ご朱印をいただいた白衣)を二枚持っているので、妹さんに上げてください」と言ってくれた。
女将さんのいろいろな話の中で、――生きるということは形だけのことだから、死んで思い出されることは生きていること――という言葉が強く心に残った。
そして、「遍路は人生。得ようとして歩く人。捨てて行こうとする人……、いろいろいる。よくばって重い荷物を背負って、何も得られない人もいる。本当に必要なものは何か……それを見極めることが大切ではないでしょうか」という話も深く心に残った。
また、次のような文章に自作の俳句を添えて寄せてくれた。
女将さんは、俳句をたしなみ、「NHK俳壇」にも掲載された経験をもつ腕前である。
――幼い娘三人と祖母を残して父が亡くなったのは、長女の私が十歳、母が三十歳のことでした。それからの母は小さな宿を営みながら私たちを育ててくれました。
母の大きな愛情に包まれ、伸びのびと成長できたことを感謝しています。
「苦労をかけた母へ親孝行を」と思ったとき、五十九歳の若さで還らぬ人となりました。
亡くなる五年前、念願だった四国遍路に兄夫婦に連れられて行くことができました。亡くなるまで、折に触れて遍路旅の思い出を嬉しそうに話していました。
「まつちや」へお泊りいただく皆様一人ひとりの心にも、生涯の思い出として、いきいきと残ってゆくものと思われます。
まさに「一期一会」の機会である出会いに感謝し、私にできる〝心の接待〟をさせていただきたいと思いつつ三代目としての日々をすごしています。
すべては父母への供養……この一言に尽きると思います。
母の日や亡母より継ぎし宿を守る
汗の顔直し女将となる夕べ
霊棚を解き商ひの灯をともす
翌朝、出発前に一緒に写真に納まってもらい、お礼を述べて出発した。一〇〇メートルほどの角を曲がるまで立って見送ってくれた。
まつちや旅館から次の44番大宝寺へは二日掛かりです。 |
にほ





