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娘さん?のお出迎え
民宿「久百々」に到着したのは、5時ちょっと前だった。玄関で、「ごめんください!」と叫ぶと、奥から急ぎ足で女性が現れ、はずむような声で「いらっしゃいませ〜」とあいさつした。「今日お世話になるSと申します」と挨拶すると、「お伺いしておりました」と、笑顔で応じた。とっさに、〈この家の娘さんかな? それとも、知り合いの若い人かな?〉と思った。
見た目が若いし、「お伺いしておりました」という言葉から、そう思ったのだ。
「娘さんですか?」と訊くと、
「いいえ女将です」と意外な答えが返ってきた。
「あまり若いので、てっきりそう思ったんです」
「あーら、うれしいわ。これでも五十を過ぎてるんですよ」
と、笑顔がますますはちきれそうだった。
笑顔がなんともすばらしいハチキン(土佐弁で明るくしっかり者の女性を言う)の美人女将だ。〈この宿の人気の秘密は、この明るさにもあるな、きっと…〉。
彼女は、朝日新聞「天声人語」の筆筆を長く務めた辰濃和男氏の『四国遍路』に紹介された有名女将、神原ルミ子さんである。私は、てっきり七十歳過ぎの女性が現れると想像していた。まったく、うれしい予想はずれだった。
米や野菜は自作で有機栽培しているそうだ。こうしたところもお遍路さんに対する心配りなんだよね。お接待のお弁当もおいしかったよ。
その晩は、今なお遍路仲間としてメール交換している東京の金子忠司さんたちと、女将さんを交えて楽しい宴会になった。
金子さんのキハダ焼酎は絶品だよ。遍路中もいつも持ち歩いているんだよね。
翌朝の、日の出はすばらしかった。たこの頭のような太陽を始めて見た。女将さんは、「私は、毎日見ていますが。こんなすばらしい日の出はめったに見られないですよ」と言っていた。今まで無事歩いて来られたことを、太陽に心から感謝した。
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四国歩き遍路のこころと魅力
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おいしかった海の幸
足摺岬の手前にある「民宿旅路」は、元船長の坂下達雄さんと美穂子さんご夫妻で営む民宿です。ここでもご主人が迎えてくれました。そう言えば、これまでも夫婦で営んでいる民宿では、ほとんどご主人が迎えに出てきたような気がします。
到着早々に、女将さんが「洗濯物があったらやりますよ」と声をかけてくれました。パンツを出すのをためらって遅れて出すと、「なに? なに? そんな心配は……」と言って、一瞬受け取るのを渋るしぐさをしました。ビニール袋に入れて出したので、ひょっとして、手土産か何かと思ったのかもしれません。でもパンツとわかると、「遠慮しなくてもいいのよ」と、笑って受け取りました。女将さんはとてもしっかり者で、いろいろなことにこまやかな心遣いをしてくれました。ご主人はとても話好きの人です。船長時代のことをよく話してくれました。とても家族的です。こうしたところが昔ながらの遍路宿の良さだと思います。
夕食の「海の幸」は豪華でした。海岸育ちの私も初めて味わえるものもありました。ご主人が家の裏手の海岸で取ってきたばかりの小エビのてんぷら、豪華なえび、アジの姿寿司、あわび、さざえ、手のような形をした小さな貝、3種類のさしみ、焼き鳥、こころづくしの巻き寿司、昆布の巻物、トマトなど…。海鮮好きの私は、こうしたお接待の心に感謝と感激で、時々手を合わせながら食べていました。お陰でビールもはかどって2本空けてしまいました。
翌朝、女将さんとツーショットで写真を撮ろうとしたましたが、朝の仕事で手が空かないので、「金剛福寺を巡拝して戻ったら撮りましょう」と頼んで、出発しました。途中まで、ご主人がバイクで道案内をしてくれました。
感激のメモ
金剛福寺から2時半ごろ戻りましたが、残念ながら女将さんは不在でした。預かってもらった荷物を取りに部屋へ入ると、テーブルの上にお茶とお菓子が用意してありました。そして、「お疲れ様でした。すみませんが、急に用事ができて出かけなければならなくなりました。召し上がってください。お気をつけて旅してください。結願をお祈りします」という、心のこもったメモまで添えてありました。ちょっとうるっとしましたね。おまけに、その夜、次の宿の民宿「久百々」まで、わざわざ謝りの電話をくれたのです。すっかり感激しました。
豪華な海の幸の夕食
民宿「旅路」のご主人 このバイクで道案内してくれた
民宿旅路から足摺岬へ向かう遍路道 「にほんブログ村」 に参加しています。
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大病からの奇跡の回復
3回目の遍路17日目の宿、「民宿あわ」へ到着すると、典型的な「土佐のいごっそう」といった感じのごついおやじさんが出迎えてくれた。一見すると、どうみても民宿のおやじさんという感じではない。ところが、ちょっと話してみると、いたって純朴で、心根がやさしい。話し方や態度は朴訥としているが、接しているうちに、だんだん内に秘めた人柄がにじみ出てきた。
奥さんは、左足が不自由でヨチヨチ歩きだ。話によると、平成11年に脳内出血を患い、引き続き平成14年には甲状腺も患って現在リハビリ中とのことだった。一時は、生命も危ぶまれたそうで、医者に言わせると「奇跡的な回復」だそうだ。根が明るい人で、病後でも変わらぬ快活さを保っている。けなげな働き振りが印象的だった。ご主人は船乗りで、奥さんが病気して以来、手伝っているのだそうだ。
翌日、「次に来るときには、元気なお姿にお目にかかれるといいですね」と言って、その日の難関「焼坂峠」へ向けて出発した。
焼坂峠 現在は焼坂トンネルを通る人が多くなった。 「にほんブログ村」旅行ブログ
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伊達博物館での心温まる歓迎
宇和島の街に入ったのは4時過ぎでした。小高いところに宇和島城が見えます。この城の藩祖は、伊達政宗の長男秀宗です。従って、私が住む仙台とは親戚筋のような市なのです。2度目の遍路では訪れた経験があるので、今回は立ち寄らず、一目散に博物館へ向いました。
2度目の遍路のときに訪れた宇和島城
当地の伊達博物館をぜひ見たいと思って、今日は朝五時半に愛南町の宿を出発してきたました。すでに40キロ近くも歩いています。街に入ってから、高校生に何度か場所を聞いたのですが、意外にわかりませんでした。やっと探し当てて到着したのは4時20分ごろでした。どうにか入場時間に間に合いました。
係の女性に、「宮城県から来た者です。ぜひ伊達家の親戚の博物館を見たいと思って、やってきました」と言うと、わざわざ館長さんはじめ多くの館員の方が出迎えてくれました。荷物も預かり、冷たい飲み物もお接待してくれました。わざわざいらっしゃったのだからと言って、見学時間も配慮してくれたのです感謝!感謝! お陰でゆっくり見学できました。
帰りは、全員が玄関で見送ってくれました。
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大正の女性遍路 高群逸枝を偲ぶ
宇和島の夕方、伊達博物館を出て、その日の宿の在り場所を探していると、薄暗くなってきた。だいぶ疲れているし、白衣も汗で汚れている。そんな時、以前読んだ高群逸枝の『娘巡礼記』の宇和島での場面が思い浮かんだ。「つかれはてて宇和島に入る。・・・」という部分だけは記憶していた。彼女の姿を見て哀れに思ったのか、呼び止めて一夜の宿を貸してくれた、という内容が書かれていた。自分には今夜泊まる宿はあるが、疲れ果てていたことは似通っている、と共通性をこじつけていた。
もっとも、彼女の旅は私と違い、お接待の善根宿なしでは続けることができなかったであろう。大多分が野宿で、道端の小屋、古い寺の境内、あげくのはてには小川のほとりでも寝たという。ずいぶん虫に刺されながら寝たという記述も多い。こういう遍路こそ、本物の遍路だ。
道なき道を歩き、日数の半分は親切な方のお宅に泊めていただいた20歳の時の遍路は少しこれに似ているかもしれない。
それにひきかえ、すべて宿に泊まろうとしている今の自分は恵まれている。そう思う反面、今回の遍路は、自分に対するご褒美の旅だし、目的も違うのだから・・・・・・、と妙に開き直っている自分がおかしかった。
高群逸枝は、大正7年、二十四歳の若さで四国遍路へ旅立った。恋を捨て、職を捨て、家を捨て、自己の再生を図るために、あえて苦しみの旅へ踏み込んだ。だが、苦しさの中で彼女が見たのは、四国の伸びやかな風物だった。そして、四国の人々の人情だった。
四国遍路を始めてから、『娘巡礼記』を知った。タイトルからしてお涙頂戴的であり、以前であったら本屋でも手に取ることはなかっただろう。そんな本をインターネット古書店で手に入れた。戦前の遍路の雰囲気が感じられること以上に、「普通の娘」が巡礼に出ることが、当時の一般社会やマスコミにとって、きわめて興味本位な対象であったことがわかった。
高群自身はむしろそれを利用して台風の目のように進み、その巻き起こす嵐の中心で戸惑いながらも、精神的な超越した境地に達する。その心の叫びが、わたしに不思議な感動をもたらした。
堀場清子校訂
朝日選書128 1979年1月第1刷 「にほんブログ村」旅行ブログに参加しています。
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