東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

4河西回廊(蘭州〜武威〜酒泉~)

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  うず高く積んだ荷物の上に大勢の人が乗ったトラック  2000年当初は、新疆ウイグル自治区の田舎でよく見かける光景であったが、2007年では大勢の人が乗る姿はあまり見かけなくなった。

2009年8月7日(金)
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 ,海離轡襯ロードブログは旅の流れ沿ってリアルタイム的に紹介してしております。ひとつの記事はそれぞれ独立していますが、初めて訪問される方は、「すべて表示」や各書庫で初めの方の記事からご覧いただければ、より楽んでいただけると思います。  書庫の番号はほぼ旅の日程順に並んでいます。
「シルクロードを詩う」をご覧いただくと、これからの旅(中国篇)のおおよそをご覧いただけると思います。(題目をクリック)

現代シルクロードのアクロバット走行

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イメージ 2 蘭州から河西回廊を600キロほど走って来た。祁連山脈は常にその残雪の雄姿を見せてくれる。踏み切りを何度か越える。道路が曲がりくねっているのか、鉄道がそうなのか、見当がつかない。蘭州方向へ行く貨物列車に出会った。すさまじく長い。数えたら、貨車は123両あった。
 小型車やマイクロバスを積んだ貨車が多い。積み込まれた車の運転席には人が必ずいる。陸路を行くフェリーボートの感がある。解放軍の兵士を満載した貨車、人馬同居の貨車もある。この貨車はどうやら軍隊用らしい。踏切での列車との出会いは、いつも興味が尽きなかった。
 
 
 現代シルクロードに目をやると、たまに、馬車やトラクターが走っているが、ほとんどがトラックだ。そのトラックといえば、ものすごい。どれもこれも荷物をうず高く積んでいる。カーブで膨らんだり、風を受ければけばひとたまりもないだろう――。それを目の前で見てしまった。私たちの直前を走っていたトラックのうずたかい荷物が、片側によっていてはなはだ危なっかしい。そう思いながら後ろをついていくと、左カーブで突然左方向から風を受けた。とたんにバランスを崩して右側に1回転して完全に逆さになってしまった。あっという間のことだった。こちらは危険を感じて車間距離を取っていたので、幸いに巻き込まれることはなかったが、とにかく驚いた。運転手は大怪我だった。

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 ほとんどのトラックがが、超積載オーバーだ。道端で横転しているトラックは毎日のように見た。
バイクもすごい。
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 こうした無謀とも、法律遵守の精神に欠けるとも思える走行を、単に中国人の倫理観が欠如しているとは見られない背景があるように思う。この旅行中何度か運送トラックに便乗させてもらったが、運転手が好んで大量の荷物を積んでいるわけではないと言う。運送屋会社の経営者からの要請なのでやむを得ずやっているとのことだ。運送会社とて、運送料が安いので過積載をやらざるを得ないのが実態のようだ。
 運転する彼らからは、「生きるひたすらさ」が伝わってきた。

 現代シルクロードはロマンの道ばかりではないが……、やっぱりシルクロードはきれいだった。
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 唐代の華麗なる宮廷舞踊を彷彿とさせる胡旋舞(西安・唐楽宮にて)

2009年8月6日(木)
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西域商人ソグドのふるさと

 黒水国城堡遺址を後にして酒泉に向かう。Tさんは格好の歴史の先生だ。車の中でとても興味のある話をしてくれた。
 「実はこの辺はシルクロードをになった西域の商人たちの故郷なのです。陶磁器や唐三彩によく描かれていますよね。あの人たちは一般に、胡商、あるいは商胡といわれています」
「はい、知っています。ソグド人のことですね」と言うと、彼はちょっと怪訝な顔をした。
イメージ 7 私は英語で書いてみた。すると彼は
「是是(そうです。そうです)」と言って、詳しく話し始めた。会話の内容をかいつまんで再現してみる。
なるほどこの辺がソグド人の故郷なのですか」
「このあたりは昭武といわれ、少数民族がいたところです。民族的素性ははっきりしませんが、彼らは九つの苗字によって区別され、それぞれ分かれて集落を作っていました。その苗字は、康・安・石・史・何・曹・米…などです」
「そういえば、唐代の「安史の乱」の首謀者禄山と思明は西域の出身でしたよね。曹という苗字も時々聞きますね」
「この人たちは昭武九姓胡といわれています。彼らは匈奴によってこの地から西域に追いやられ、現在のサマルカンド、ブハラ、カシュガルなどに住んだのです。そして後に生後とに、九つの小国を建設しました」                                                                            安禄山

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「ちょうどシルクロードの中ほどですね」
「そうです。東西の中継地点ですね」
「彼らが商いにたけていたことは有名です。男の子が生まれると蜂蜜の塊を口の中に入れ、にかわを手に置いたという言い伝えがあります」
「その話はわたしも聞いたことがあります」
「そうですか…、つまり、甘い言葉が話せるように、そして一度お金を握ったら放すことがないようにという願いを書けた習慣なのです」  今で言う口八丁、手八丁の商人だったのだ。

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 ウズベキスタンのサマルカンド歴史博物館にあるソグド人の壁画1(後の記事でも類似の壁画を紹介予定)

「そうすると彼らは、シルクロードが開けると、商人として戻ってきたわけですね」
「唐代の長安にも昭武九姓胡の人たちがいたといわれています。史書によると、昭武九姓国から、唐の朝廷に胡旋舞の舞姫が献上されたという記述が見られます」

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 西安唐楽宮で繰り広げられた唐代を彷彿とさせる華麗な胡旋舞


 そういえば、シルクロードから出土した焼き物開遠門のシルクロードの隊商群像の御者たちの多くは、鼻が高く、彫りの深い顔立ち出あった。

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 唐三彩(陝西省歴史博物館
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 唐三彩(陝西省歴史博物館)
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 シルクロードの隊商群像の御者たち(唐代のシルクロードの出発点開遠門)


「ところで、今でも昭武九姓胡の子孫でこの辺に住んでいる人はいるのですか」と尋ねると、
「わずかですが、いますよ」と言う。
 頼んで、10キロほど祁連山脈側に入ったところに住む家族の写真を撮らせてもらった。詳細は、長くなるので省略する。
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                      昭武九姓胡(ソグド)の子孫の家族

 Tさんは最後まで「ソグド人」という言葉を使わず中国語古来のの「昭武九姓胡人」で通していた。さすが誇り高き中国人だ。 彼らのルーツはもともと現在の中国なんだ。「ソグド」なんて言うかものか、という気概が感じられた。
 

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  左手に雪をたたえた祁連山脈、右手には見え隠れする長城を眺めつつ、漢代の遺跡「黒水国漢墓・黒水国城堡遺址」へ向かう。

2009年8月4日(火)
 後半の文の内容を変えました。また、漢の時代に政略結婚で匈奴の王に嫁した「中国四大美人の王昭君」を演じた女優と、銅像の写真も追加しましたのでご覧ください。

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漢代匈奴の謎の城 〜黒水国城堡遺址〜

 幻の漢代故城の探検は失敗に終わった。
 漢代の城を見てみたい……その想いは強かった。それを察してかTさんは、
「幻の故城とまではいきませんが、張掖の郊外に土の城壁で囲まれた漢代の城市の跡があります」
 とTさんは言う。
 さっそくガイドブックを開くと、「黒水国漢墓・黒水国城堡遺址」というものが見つかった。
 幸い、今日の目的地酒泉まで行く途中である。
 
イメージ 3 河西回廊(国道312号線)に出て、酒泉側に10キロほど向かった地点だ。祁連山脈から流れ出る黒水河を越えると右手に遺跡への入口の誘導看板があった。Tさんは熟知しているので、こちらは大船に乗った気持だ。国道から細々と伸びる側道へ入り、畑に囲まれた凸凹道を揺られること数分。

 民家のような家の前に遺跡の石碑が立っている。ここが目的地だ。民家の後ろには、隠れるようにして立つ土色の壁が見える。
 
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 石碑には重要文化財となっているが、周囲がまったく整備されておらず、「えっここが?」という感じだ。

イメージ 7  どうやら管理小屋となっているその家を抜けると、そこから左右に伸びる盛り土のようなものが視界をさえぎっていた。
 これが城市の城壁だ。黄土を固めて作られた城壁は、200〜240メートルの方形である。
 「街」というには多少小さいながらも、城砦といってよいだろう。

 城門らしきところから、今はすっかり廃墟となったかつての最前線に入ってみた。内部にあったはずの建物などはすべて姿を消していた。

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 城門から中へ入ってみると建物らしきものはすっかり姿を消していた。


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イメージ 9 城の北東角に辛うじて残っているのは高さ10mほどの烽火台のみだった。それも大分朽ち果てかけている。力を入れるとそのまま手の形に壊れてしまいそうなので、慎重に気を遣いながら烽火台に登ってみた。
 見渡せるのは一面の畑と…、なんと、狼煙を上げるための炉の中に捨てられた 21世紀のゴミである。ほとんど誰も手を入れていないので致し方ない面はあるにせよ、早く保護しないとこの遺跡は風や雨にやられる前に、我々現代人の手で砂や土に戻ってしまうかもしれない。

 
 この遺跡は史書に詳しい記述はなく、歴史的背景も長らくはっきりしなかったために、あまりその価値を知られる事も注目されることもなく、半ば捨て置かれていたそうである。私のうがった考えかも知れないが、ここが異民族の匈奴の歴史遺産であるらしいこともそれを助長していたのかもしれない。

 確かに、特別な保護や修復といった形跡は一切なく、時と風の過ぎ行くままに朽ち果てていこうとしているのが誰の目にも明らかである。これが、あの歴史に名を残す匈奴の数少ない遺跡というにはあまりに寂しい。

 城内には土の上に大量の瓦や磁器のかけらが簡単に拾える状態で散乱している。〈古代の貴重な生活の証だ!)と、思わず色めき立った。だがTさんは、
「残念ながら漢代の匈奴のものばかりではないのです…」と、悲しそうに、恥じ入るように言った。
 確かに、どう好意的に考えても現代の人間が捨てたゴミだと考えざるを得ないものも混じっている。この保存状態ではやむをえないなあ、と思えた。
 同時に、Tさんが気の毒になった。プライドの高い中国人は、中国の未発達の部分や恥部を見られることを非常に嫌がるのを、何度も見てきたからである。20年ほどの話になるが、北京の公衆トイレにひとりで入っていた時こっそり写真を撮っていたら、あとから入ってきた中国人にフィルムを取られそうになったこともある。
 
 
 2000年以上の時を経て残っている城址――積み重ねて来た時間、特に誰にも気に留められることなく眠っていた時間の長さを思うと身震いが止まらない。だがそれ以上に、破壊につながる現代人の行為によって失われる、遺産としての価値を考えると、さらに背筋が寒くなってくる。
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 だが、遺跡の保護行政を云々する前に、私はどこへ行っても中国の歴史のスケールの大きさにいつも驚かされるのである。張掖で見た大涅槃仏模も、この故城も、今までの管理が行き届かなかったからこそ、千年、二千年という時間の重さと、古代の迫力を漂わせていた。

 遠くに目をやり風の音だけを聴くと、特に意識しなくても2000年前が思い起こされるような場所ではある。だが、今まで見てきた遺跡に比べて、多分に人的な理由ではかなさを感じてしまうことに、悲しさがこみ上げてくる。

イメージ 13 佇んだ時間はわずか30分ほど…、砂に半分埋もれた城壁、朽ちかけた烽火台……滅んだものへの儚さを感じさせずにはいられなかった。いろいろと考えさせられた遺跡であった。もうわざわざ立ち寄ることもないであろう……そう思って遺跡の姿をしっかりと目に焼き付けた。
 車が側道に出ると、そこには2000年前の痕跡などは無縁であるかのような、のどかな畑の風景が広がっていた。
 2007年当時、年中無休、入場随時、入場料無料であった。この遺跡を訪れるには、張掖でタクシーをチャーター(往復50元程度)すると便利である。
 ちなみに、この遺跡は私が訪れてからほどなく、整備・保護対策がが進められ、現在は日本からの観光客もぼちぼち訪れているとのことだ。

ふと、匈奴を懐柔するために、匈奴の王に嫁した王昭君のことが頭に浮かんだので、西安で観た演劇の女優と、内モンゴル自治区のフフホトで撮影しで王昭君の像を紹介します。

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王昭君の逸話を見たい方はクリックしてください。


[コラム] [黒水国漢墓群]  
 漢代の古墓群。黒水鍋漢墓群ともいい(国と鍋は同じ発音)、張掖市の市街西北15劼砲△襦9水河のほとり。東西2キロ、南北2.5キロの規模に墓が密集している。墓室は煉瓦造りで、塚は風蝕によってみな50センチ以下に削られている。地表に漢代の灰色陶片や縄文陶片が露出している。発掘調査をし、大量の陶壺や五銖銭が出土している
 この古墓群なかに故城がある。黒水国城堡遺趾という。シルクロードの駅站であったとされる。ふたつの城塁が南北に2キロ隔てて相対し、その間を蘭新自動車道路が通っている。それぞれ、東西約250メートル南北約220メートルの方形で、城壁は黄土をつき固めて築かれている。<BR> 城内は全くの廃嘘であり、建築物や通りの配置も風化と流砂の堆積で見分けが付かない。地表に瓦や磁器の断片が露わになっている。
「黒水国」という名は史書にはみえず、誰が住んだのか、何時のものなのか、詳細は分かっていない
 遺跡は国道からも外れており、訪れる人も少ないが、綺麗に整備された遺跡とは異なる「風化にまかせた古代の城址」の姿が見所である。

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 延々と続くゴビ砂漠の中を、「幻の城」を目指して車を走らせる。

2009年8月2日(日)
[コメント]  このシルクロードブログは旅の流れ沿ってリアルタイム的に紹介してしております。ひとつの記事はそれぞれ独立していますが、初めて訪問される方は、「すべて表示」や各書庫で初めの方の記事からご覧いただければ、より楽んでいただけると思います。 書庫の番号はほぼ旅の日程順に並んでいます。
また、「シルクロードを詩う」をご覧いただくと、これからの旅(中国篇)の雰囲気をご覧いただけると思います。(題目をクリック)

幻の漢の故城をめざして

再びTさんの車で回廊を西へ向かう。
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張掖を出発してまもなく、祁連山方面に入った。雪をたたえた祁連山脈は相変わらず雄姿を誇っている。
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 私たちはいくつもの川床を渡った。川幅の大きなものは100メートルを越えた。その多くは砂利川で、水の流れは消えうせている。

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                車はこの川床を右から左へと横切ってゆく。
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 車の左奥手、祁連山方向はゴビの砂漠が延々と続く。砂漠は車の移動につれて刻々と姿を変えてゆく。

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 舗装道路が突然切れたかと思うと、突然広大な川床にぶつかった。橋は架かっていない。川床は遙か下に見えた。私たちが立っている場所は、土手の上というより断崖の上だ。
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 そこから道が曲がりくねって下におりて、川床を横切って続いている。向こう岸まで200メートルはあるだろう。張掖河の最も大きな川床である。ゆっくりと慎重に降りて行く。
Tさんは、「昨日、山丹軍馬場上流付近でちょっと雨が降ったので、水量が増えている可能性があります」という。さすがの楽観主義者もちょっと不安を感じた。
 案の定Tさんの車は、まもなく立ち往生した。かなりの幅で水が流れている。にごりで深さが分からない。
 Tさんは「ここまで来て…、くやしいですねえ」と、気の毒そうな顔を私にむけた。
 彼は流れに向かって何度か石を投げ込んだ。水音で深さを測っているのだ。それから、やおらズボンをまくりあげて水の中へ。水はすぐさま膝頭まで来た。そこからまた石を投げ込んでみる。Tさんはゆっくりと首を横に振った。
 
 実は、私たちの目指す目的地は、ゴビの中に位置する漢代の故城「樂得(らくとく)故城」(樂の左に「角」がつく)だった。NHKシルクロードで観て、この故城へ行けるものなら、ぜひ行ってみたいと思っていた。だが残念ながら断念となった。悔しい! 悔しい!

 あまり悔しがるので、歴史学者で、考古学者でもあるTさんは、自分が訪れた2度の経験を私に詳しく話してくれた。
 帰国後、さらにNHKシルクロードをビデオを観たり、歴史の本も読んだ。彼の話と本などを基にして、自分が「ラク得故城」を訪れたシーンをイメージしてみた。
 ――悪戦苦闘の末、Tさんの車はどうにか張掖河の川床を渡りきった。すると、荒れ果てた灰色のゴビに変わって、砂地の砂漠が見え始めてきた。大きな吹きだまりのように砂丘が形作られている。そして、ゴビによく見られる岩山のようなヤルダンが頭を出している。

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 車はこれ以上進めないようだ。ここからは歩いて砂丘の中に入った。遠くに城郭が見えて来た。まるで、砂に埋もれかかっている風化した巨大な粘土のの塊のようだ。砂なつめの林の中を通りすぎると、城郭はその全容を現した。前漢時代、今からおよそ2千年前に立てられた城であり、河西回廊では唯一の漢代の城である.
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                幻の城はこのような城だったのだろうか?(写真は、漢代の城郭 河倉城)

イメージ 17  風に吹き寄せられた砂は、城壁の上まで届いている。砂山を上ると城壁に立つことが出来た。城内はおよそ正方形。その1辺はおよそ3百メートルはあろうか。野球場の広さとほぼ同じだ。西南の一角に城楼があった。見張り代である。城内から城楼に登る道があった。城楼の上は、土レンガの塀が取り巻いていた。
 遠くに目をやると、私たちが走ってきた甘新公路が見える。砂漠のあちこちに砂なつめの林があり、池も見える。小さな自然のオアシスの楊だ。どこかで人の声と鞭の音が聞こえる。砂なつめの林の向こうだ。やがて羊の群れがそこから姿を現して、また林の中へ消えた。

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 城門は、くの字形に折れ曲がっている。つまり敵がまっすぐに攻め込まないようになっているのだ。
  前漢時代にチベットが一度攻め込んだという記録がある以外、この城の歴史は謎」に包まれているという。この城がいつの時代まで続いたのか、そしていつ滅んだのび去ったのかはっきりしたことはいまだ不明である。張掖河の洪水で滅び去ったという拙もあれば、ジンギス汗葬り去られたとも言われている。
 
 城門に入った。城内は無数の瓦礫でうずまっている。Tさんは足元を指差して言った。
「ここを掘り起こせば、まだ、何が出てくるか分かりません。ひとつの街がここにあったはずですから」
「えっ、街が……」
 一瞬意外な気がしたが…、古代中国の城は、日本の城とちがって、城下町をその城内に抱え込んでいたのだから、しごく当然である。
 埋もれているものはほとんどがレンガのかけらである。漢代の瓦は、非常に硬く焼かれているのですばらしい硯になるという。 瓦礫の中には、レンガだけでなく、古代の生活の破片がいくつもあった。つぼのほかの部分、皿のかけら、石臼など、もしも日本で発見されればあれば大騒ぎになるであろう陶片が散らばっていた。
「この下に街がある」といったTさんの言葉が真実味を帯びてきた。
レンガは1対になっていて、一方が凸の形に、一方は凹の形になっている。1対のレンガをはめ込んで組み合わせて住居を造ったのだと言う。
 この住居から漢代の美少女がふと私の前に現れ、にこやかな笑みなげかけたかと思うと、すうっとどこへともなく消え去った。
  
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 絶景を超えた美 丹霞地形  沈みゆく太陽の光と上り始めた月光が絶妙なシルエットを描いていた。

2009年7月31日(金)
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絶景を超えた美  張掖・丹霞地形

 Tさんが突然言った。「宿に向かう前にぜひお勧めしたい場所があります」
「張掖から約50キロのところに、張掖丹霞地貌(地形)と言われるきれいな地層が見えるところがあります。丹というのは、中国語で朱色とか赤の色のことで、霞は夕焼け等で空が紅色に染まる現象や、それでできる彩雲をさすらしいです。とにかくきれいなのです」と、切り込むように言う。
 中国人はオーバーに言うことが多いので、たいしたところではなかろうと思った。しかしあんまり勧めるし、生来の「なんでもみたい」の好奇心も手伝って行って見ることにした。
「夕方が特にきれいなんです。見学コースにない、地元の人だって行かないすばらしいところへもご案内します」と、馬鹿に自信満々だ。
 
 ここは、近年新しく発見され、見学ルートが整備されたばかりとのことだ。
 「急げば一番いいところを撮れますよ」と言って、舗装された道を祁連山脈の方に向って、猛スピードで走る。 50キロ近く走ると、左側に「張掖丹霞地貌」の看板が出てきた。そこを左に曲がって更に2キロ位行くと、張掖丹霞地貌が見渡せる見晴らし台の上に出た。そこで車を停めた。私がカメラの準備をしていると、
 「こんなところで時間をつぶしていたら、よい場所へ間に合わなくなります。ここは帰りに寄りましょう」と言って、促すようにどんどん上ってゆく。たどり着いた先はなんと驚くような場所だった。
“思わず絶句した”なんて生やさしい物ではない。一瞬体が動かなかった。写真を撮るのが怖いくらいだった。こんなに緊張してシャッターを押していたのは初めてだ。刻一刻変化するのだから、一回一回が真剣勝負だ、
 とにかく、驚くべき写真をご覧ください。

 山肌が、太陽の光の変化でめまぐるしく姿を変えてゆく。

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 日が傾くに連れて、山並が夕日で赤く染まりはじめ…次第に色が増してくる。
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日が沈みかけ、やがて山肌は月の光でみごとな陰影を描き始めた。

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 シルクロードは来てからは信じられないほどの絶景を数多く目にしてきたが、今までのものは見る側の心の変化で変る静的な景色だった。だがここで目にしたものは、風景自体が刻一刻変化する「動くパノラマ」だった。


 ――ここのほかに丹霞地形はありますか?
 中国には丹霞地形は65あるそうですが、それらは「国家地質公園」という名が付けられています。 ――丹霞地形は何故このように七色に輝くのでしょう?
 この地域の地質には様々な鉱物(硫黄、鉄、銅など)が大量に含まれています。その大地がシルクロード独特の強い日差しを浴びると、このようなすばらしい地層の縞を描き出すのです。
 赤い堆積岩の地層が『丹霞地形』で、 張掖のそれは『中国で最も美しい七大丹霞』にも選ばれております。

 Tさんによると、張掖の丹霞地形は秋の青空の下で見るのが最高条件なのだそうだ。
 私は春先の「丹霞がさほど美しく見えない」と言われる時期に見ているのだが、それでも地層の織り成すグラデーションに圧倒され続けだった。
「日本人でここまで入ってきたのは恐らくあなたが初めてでしょう」とTさんは言った。
 まさにそのとおりだと思う。ここまで入るには、自分の足で歩いて、なおかつ、地元の人の案内が不可欠である――そう断言できる。
 そういう意味で、大変貴重なシャッターチャンスを与えてくれたTさんには、心から感謝申し上げたい。
 太謝謝了!


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