東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

4河西回廊(蘭州〜武威〜酒泉~)

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かなたの祁連山脈から湧き出るようにして生まれた雲は、風で千切れ、次第に薄く引き延ばされた真綿のようになってこちらへ迫ってくる。草原のゆったりとした光景とまことに対照的でスピーディーだ。草原のかなたから突如姿を現した騎馬民族が広がりを見せながら敵に迫り来るような迫力を感じる。

2009年7月17日(金)
[コメント]  このシルクロードブログは旅の流れ沿ってリアルタイム的に紹介してしております。ひとつの記事はそれぞれ独立していますが、初めて訪問される方は、「すべて表示」や各書庫で初めの方の記事からご覧いただければ、より楽んでいただけると思います。 書庫の番号はほぼ旅の日程順に並んでいます。
また、「シルクロードを詩う」をご覧いただくと、これからの旅(中国篇)の雰囲気をご覧いただけると思います。(題目をクリック) 

天馬のふるさと祁連2  草原と山と雲と

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 中国の六大美草原のひとつ 
 祁連草原はすばらしい
 空は高くすみ
 緑の大草原を風が渡る
 すず風に吹かれて草や花が
 波のように揺らぐ
 イメージ 12草のそよぎの波はとどまることを知らない
 ひとつの波が草のロールを押すと
 次から次へと波が伝わってゆく
 水平線のかなたまでそれが続く
 ふと空を見上げると
 風に身を任せて雲が動く
 イメージ 13そして姿を変えてゆく
 山のかなたから糸のように生まれ出る雲
 それが風に押されてこちらに向かってくる
 やがてスジのように迫力を増し、
 まるで精鋭部隊がせめて来るようだ
 綿菓子の細い糸が集まって千切れ雲になり
 イメージ 14さらに寄り集まって大な雲になる
 青い空と白い雲
 鏡のようなさわやかな緑の草原には、山並がとても映える。
 真っ白な雪をかぶった山々から溶け出した水が
 やがて川になり 湖になって 草原を潤をす
 広がる草原には
 羊や牛が白や黒の点のように散らばっている
 そんな自然の原点のような景色を見ていると
 自然の摂理を感じる。
 だが、かえって不思議な世界を感じてしまう。
 ここはまさしく天国のような世界だ。
  

祁連草原の雲
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  丘を上り詰めると、そこにはかつて見たことのない風景が遙かかなたまで広がっていた。これが匈奴がこよなく愛した祁連の大草原か……と、長いこと息を呑んでいた。見渡す限り黄色と緑と赤の絨毯が鮮やかに織りなされていた。まるでモザイク芸術の世界だ。天国の丘を見るようだった。彼らはここを「天の山」と呼んで崇めた。

2009年7月15日(水) 16日(写真と文を変更しました)
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天馬のふるさと祁連1 〜まるでモザイクの世界・祁連草原の菜の花畑〜 

 漢の時代、ここ祁連草原では漢と匈奴との間で幾度となく激しい戦闘が繰り返されていた。、
 祁連山は水豊かにして緑濃い理想の放牧地であった。その一角の焉支山は、ほお紅を作るベニバナの生えている場でもあった。匈奴はこの地をこよなく愛していた。
祁連山を「天の山」と呼んで崇めていた。
 
 私は、匈奴の愛したこの二つの山のふもとまでぜひ行きたいと、以前から強く願っていたが、前回はひとり旅でなかったので割愛せざるを得なかった。今回はこそは必ずゆこうと決めていた。だが、不安要素があった。これから向かう張掖から観光バスが出ているが、人が集まらないと実施しないからだ。
 山丹長城で万里の長城の調査員たちにそのことを話すと、隊長が「自分の弟がが山丹軍馬場近くに住んでいるので、トラックでもよかったら案内させましょう。それから、今日は弟の家にとまってください」と、まことにありがたい申し出をしてくれた。日本社会のように遠慮して一応断ったりすると、かえって礼を欠くので、ありがたくお受けした。

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 弟のTさんがが山丹長城まで迎に来てくれて、天馬の故郷といわれる祁連山脈のふもとへ出発した。河西回廊を10キロほどして左折して地元民だけが走るという未舗装道路へ入ると、車は砂塵を巻き上げて走る。砂は締め切ったトラックの中にも容赦なく入り込んできた。私はあわててカメラをバッグにしまいこんだ。このシルクロード旅行では砂は大敵である。
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 いったいどこまで走れば草原お目にかかれるのだ、と思うほど埃の道が続く。産みの苦しみだと言い聞かせつつ、口をマスクで覆って耐えていた。砂埃の道を1時間ほど走り、砂漠の山を越えた。すると、
 ――そこにはすさまじいばかりの景色が待っていた。まるで地獄から急に天国へ入り込んだかのような感覚をおぼえた。黄色い菜の花と濃い緑の麦畑、そして耕された鮮やかな赤土がモザイク芸術の世界を創りあげていた。そこにはすがすがしい風が吹き渡り、川辺、高山が緑に満ち、菜の花の香りが漂っている。真っ青な空にはこれ見よがし、筋ような雲が鋭い広がりを見せていた。

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 ところどころに日干しレンガの家もみえる。これもひとつのポイントになっている。

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 お世話してくれたTさん

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 次第に麦や菜の花の畑が減り、しばらく続いたモザイクの世界もいったん単調になったが、
やがて一面、緑の濃いみごとな草原に変った。それがはてしなく広がっていた。緑と水と羊の白い点、そしてゆったりと広がる青い空とが壮大なコンビネーションを描き出していた。

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 よかったら、右下の傑作をクリックしていただけるとうれしいです。
   
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 長城とロバ車 いにしえの人々も、長城に守られながらロバ車の乗ってゆったりと放牧地や畑に出かけていったのだろうか。

2009年7月14日(火)
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山丹で万里の長城にふれる

 ミニバスを降りて明代の烽火台を見やっていると、大型観光バスが1台やってきて停まった。期待通り日本人だった。長旅では、ちょっぴり日本人が恋しくなる時がある。
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 道路を横切るところがちょうど烽火台になっていて、かたわらには博物館があり、出土品や明代の貴族のミイラが展示されていた。                       

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 博物館前でスイカが売られている。1個は多いので誰かにご馳走しようか…なんて躊躇していると、私より先に日本人観光客がが買った。「大きすぎるので、よかったら半分ずつたべませんか?」かと提案すると、「どうぞ」と言って、ご馳走してくれた。ここのスイカも美味しかった。シルクロードでは、瓜もスイカも日本のものより格段においしい。

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 長城は遠くから見ると1〜2mに見えるが、明代の長城の高さは4〜5m、烽火台の高さは約8mもある。人間と比較すると、明代の長城の高さがお分かりでしょう。(ご協力ありがとうございます)

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 山丹長城はもともと放牧の羊が通れるれるように切り取られていた。

 写真を撮っていると、大勢の人がミニバスでやってきて中国語で打ち合わせのようなものを始めた。
 話を聞いてみると、世界文化遺産である「万里の長城」の保護をめざし、その現状を把握する調査とのことだ。
 この調査には、甘粛省文物考古研究所の調査員の他、甘粛省と同じように長城が見られる陜西省、山西省、内モンゴル自治区、寧夏回族自治区などの調査員や研究者の方々も研修を兼ね参加しており、その中に日本人も2名参加していた。総勢17名の調査隊である。
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イメージ 8 漢代の長城や烽火台も所々に存在するが、今回の調査は、主に明の時代の長城を対象として行われるとのことだった。
 今回の調査は、実質調査日数8日間、踏査距離は30km以上になり、長城の残存状況の他、烽火台17基、付属施設5基などを調査するとのことだった。
 調査は、烽火台や長城などの現状を把握することが目的であるため、実際に長城沿いに歩いて観察し、大きさや位置などを計測し、その記録を取るそうだ。
 
 私も日本人の隊員に頼んで1時間ほど調査を見学させてもらった。
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            明代の烽火台                   烽火台の調査  
 
イメージ 9 そして自己責任ということで、長城や烽火台の上に上らせてもらった。こういう点は、日本と違って鷹揚である。
 北方の龍首山脈を眺めながら、その谷間からモンゴルの騎馬隊が現れ、殆ど障害物のない緩斜面を一気に駆け下り、長城に迫る姿を想像し、これを守る当時の明の兵士に思いを馳せてみた。

 今回、幸運にも調査を見学させてもらい、万里の長城に直接触れることが出来、さらには、長城や烽火台に上ることまで出来たことは、実に貴重な体験となった。

[コラム]
 河西回廊は、中国と西域を結ぶ重要な交通路で、シルクロードの中国側の玄関口ともいえる要衝であった。このため古くから漢民族と少数民族の間には、ここを巡り幾多の攻防が繰り返されてきた。約2000年前の漢の時代には、主に北方の匈奴(きょうど)の騎馬隊の侵入を防ぐために、この河西回廊にも長城が築かれ、約600年前の明の時代にも北方のモンゴル族に備え新たに長城が築かれた。特に山丹付近には、北京付近の煉瓦製の長城とは異なる、主に黄土を突き固めて築いた素朴な造りの明代の長城が、草原や砂漠の中に延々と続く風景が現在も広がっている。

 
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  武威から張掖へ向かう途中の山丹県には、漢と明の長城が各々100kmほどあり、専門家たちに「露天博物館」と言われている。現在中国で一番完全な形として保存されている古長城であり、国家 重点保護文物(日本でいう重要文化財)でもある。
 写真は明代の長城と祁連山  羊を通すため一部が切り取られている。

2009年7月13日(月)
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山丹長城へ向かう

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 山丹長城までは張掖行きのミニバスで向かうことにした。出発時間よりかなり前に乗車して、右側の最前席を確保。発車当初は客は5人。ゆとりの旅行が出来ると思ったのは甘かった。案の定、市内をあちこち回って客集めをする。30分ほど回って、結局、値引きして立ちん坊の客まで集めてしまった。中国ではよくあることである。お陰で30分遅れでほスタートしたことになる。時間よりも客集めの方が大切なのだろう。
 私の隣なりには、客集めの段階で乗車してた客が座った。きちっとした身なりの、50代くらいの男性だ。話してみると、この人は高校の社会科の教師で、共産党主催の教育講習会に参加するために張掖へ行くとのことだった。日本語を勉強しているとのことで私に興味深々だった。逆に私は、社会科の教師と聞いてラッキーだと内心ほくそ笑んだ。  写真は運転手

 バスは武威の街からほどなく河西回廊へと入る。空はあくまで青く、窓外に流れるポプラ並木の青さが目にしみる。

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 武威を出てもう10キロ。人家は姿を消し、ゴビの荒野が再び広がり始めた。隣の先生に「これはそろそろゴビ砂漠ですか?」と訊くと、「これはいわゆるゴビの砂漠ではありません。石とも土ともいえないいえないようなこの瓦礫を掘ると、木が育つ土が出てくるんです」と言う。
 中国人はこれを“にせゴビ”と呼んでいるそうだ。このにせゴビが続く遙かかなたに、本当のゴビが広がっているという。

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 先ず漢代の「長城」が見え、続いて明代のものが見えるはずだ。土くれのようなような存在にもシャッターをきり続け、目を皿のようにして、「長城」が見えるのを今か今かと待つ…


 ところどころに土くれた遺跡のようなもの者が点在している。そのたびに、私は先生に聞いてみる。歴史上重要な位置を占めた遺跡もさることながら、朽ち果ててゆく無名の小さな遺跡もカメラに収めてたいと欲張っているからだ。しかし返ってくる答えは「あれは最近まで人が住んでいた住居跡ですよ」、「レンガを焼いたかまどの跡にすぎません」など、苦笑交じりの答えだった。そしてそれが過去の遺跡であったとしても、「あれは明代のものですよ。歴史的価値はありません」とひとことで片付けられる場合が多かった。どうも中国人の彼にとって、明代は我々の明治・大正といった感覚であった。7世紀の唐以前を昔というらしい。時間の観念の違いについて思い知らされるのである。

 武威を出発して25kmほどで再び長城が見え隠れして来た。ここから100km以上にもわたって併走していくことになる。

 
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 朽ち果てた土の壁のように見えるのが、漢代の万里の「長城」の、2,000余年の時を経た姿だ…

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 明の長城も朽ち果てた土くれのように見える

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 ところどころに烽火台も姿を現す。

 こうした景色がしばらく続いた後、遠くに形を保った長城が見えてきた。
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「あれが、山丹長城です」と先生は、指差していろいろ説明してくれた。

 ――世界的な文化遺産として有名な万里の長城が、山丹県内は100km程あり、山丹長城は漢代と明代の2種類がある。
 一つは,今から2千年前の前漢元鼎六年(紀元前111年)に造られた漢代の長城である。東西に全長98.5kmで、堀溝、自然の河、のろし、城壁で構成されている。堀溝の壁垣の代わりに造られ、ずいぶん古くなっているが、いまだにその姿をとどめている。
 もう一種類は、今から4百年前の明の隆慶六年(紀元1572年)に造られた明代長城である。明代長城は土で造られた壁、小山、城塞で構成されたものである。明代長城の長さは漢代長城と同様で漢代長城の南側にある。漢代・明代長城の間隔は10m〜80mあり、平行に伸びている。このように違う時期に造られ、平行して、しかも比較的保存状態 の良い長城は中国国内では非常に珍しいものである。

 武威から170kmの地点で、保存状態のいい長城と道路とが交差した。ここが山丹長城である。私は先生にお礼を述べて、ここで、バスを降りた。
  
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 匈奴との戦いにゆく兵士たちは、来る日も来る日も、祁連山脈を眺めながら歩いたに違いない。今私が明媚な風景としてとらえている山並を、彼らはどんな思いで眺めたのであろうか。偉大な存在にわが身を託すような気持ちで、祈りながら仰ぎ見たかもしれない。  日本でも、万葉の時代、国の守りのため多くの人々が防人として駆りだされた。はるかみちのくの地からまで九州へ赴いた。妻子を残して悲嘆の思いで九州まで歩く防人を歌った短歌も少なくない。防人と匈奴との戦いに征く兵士とをつい重ね合わせてしまうのは私ひとりでだけではあるまい。

2009年7月10日(金) 7月11日(土)(祁連山脈の写真を9枚追加)
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涼州詞 〜いにしえの武威と祁連山脈を想う〜

 実は私は、シルクロードに関する気に入った漢詩をコピーして持参してきている。
 時には、ホテルでその土地に関する詩を読んでいる。
 訪れる前に読むこともあれば、後のこともある。
 すると古の人びとの想いが伝わってくるような気がする。
 それから、その土地を後にする前夜、いつも回想にふける。
 武威の3日間は今日で終わる。
 夜のしじまの中でふと いにしえの武威――涼州を想った。

 
 西のローマと東の漢
 西の ペルシアと東の唐
 この二つの世界をつないで細い道が通じていた
 シルクロードと呼ばれた道だ。
 絹はシルクロードを通ってはるか西へ西へと運ばれて行った。
 
 その道は シルクロードという名がかきたてるロマンと優雅さからは
 まったくかけはなれた過酷なものであった。

 イメージ 2法顕は『仏国記』でこう語る。
 沙河中に多くの悪鬼・熱風あり。
 遭えば即ち皆死して、一として生き者なし。
 上に飛鳥なく、下に走獣なし。 
 遍望極目、度る(わたる)処を求めんと欲すれば、
 即ち擬する所を知らず、
 唯、死人の枯骨を以って、標識と為すのみ。
 玄奘三蔵は、『大唐西域記』に、
「往来には遺骨を聚め(あつめ)て以ってこれを記す」
 と書き、
 マルコ・ポーロは
 砂漠には悪霊の声が聞こえる。
 旅行者たちは、
 その声につられて道に迷い、
 死んでゆく。
 と、『東方見聞録』で記すのであった。

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 河西回廊は中国のシルクロードにとって
 とてつもなく大切な命の道だ。
 漢民族と遊牧民族は長い歴史の中でつねに回廊を奪い合った。
 多くの民が兵士として駆りだされ
 河西回廊の東端 涼州を軍事拠点に 
 過酷な戦を強いられて 
 西域に向けて進んで行った。


 このように生きて帰れないかも知れない出征兵士の嘆きをうたったのが、
「葡萄の美酒 夜光の杯」 で始まるかの有名な「涼州詞」なのである。

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    涼 州 詞   王 翰

 葡萄の美酒 夜光の杯
  飲まんと欲すれば 琵琶馬上に催す
  酔うて沙場に臥ふす 君笑うこと莫なかれ
  古来 征戦 幾人か回る


[通 釈]
葡萄のうま酒を,夜光杯で飲もうとしていると,誰かが馬上で
琵琶をかなで 美しい音色を響かせている。
酒に酔いつぶれ 砂漠の上に倒れ伏してしまったが こんな
ぶざまな姿を見て 笑わないでくれ。昔から 戦に行って いったい
何人帰って来ただろうか。
私も、明日の命がわからないのだから。

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                       唐詩撰画より

 この詩を読んでいると、とても胸が締め付けられる。 それでいて格調の高い詩だ。
 哀愁溢れる感情を暗いイメージでなく、美しい響きをもって歌っていると思う。
 特に、 起句の 「葡萄美酒 夜光杯 」の詩句が、この詩全体を いやがうえにも
美しく輝かせている。
 そして、転句で「笑」の文字はひときわ重みがあり、結句に於いて、押さえた悲しみを強烈に表現している。
「笑」の後に、押さえた悲しみ「古来…」で結んでいるだけに、一層強い印象が余韻として残る。
正に、傑作中の傑作だと思う。
もちろん好きな漢詩のひとつであることはいうまでもない。


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 河西回廊の南には千キロにもわたって祁連山脈が連なっている。武威を出た兵士たちは来る日も来る日も左手に祁連の山並を目にしながら歩き続けたはずである。彼らは、この祁連の山々をどのような想いで眺め、また、見上げ、時には越えたのであろうか。
 
 「祁連山」の名の由来は古代の匈奴まで遡る。匈奴語で「祁連」は即ち「天」の意であり、祁連山は「天山」と名付けられたのである。
 匈奴にとっては、恵みをあたえてくれるまさに「天の山」であったに違いない――しかし、この匈奴との戦いに赴く漢の兵士たちにとって、匈奴が天の山として崇めた祁連山は複雑な存在であったかも知れない。
 日々、時には刻々と姿を変える山々に対して彼らの心も揺れ動いたにちがいない。――彼らは長い間眺め続けるうちに次第に心を寄せ、雪をたたえた広大な姿に尊厳の気持をいだくようになって、戦いの勝利やわが身の無事を祈ったかも知れない。しかし、黒く姿を変えて激しく風を葺きつけ、雪や冷たい雨を降らせようものなら、とたんに、敵に味方して我に仇する存在として、強い恐れや恨みをいだいたにちがいない。

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 今日は近づき、明日は次第に遠のいてゆく。

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 たまにこんな風景に出会ったときには、兵士たちもしばし重い心から解きはなされ、いっとき心が和ませたかもしれない。そして、ある者は気持を高揚させ、わが心を鼓舞させた蚊かも知れない。そう思うと自分の気持も楽になった
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