東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

4河西回廊(蘭州〜武威〜酒泉~)

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

大雲寺の古鐘楼・羅什塔・海蔵寺

古鐘楼
 文廟見学の後、すぐ近くにある古鐘楼へ向かった。
 鐘楼は、大雲寺の所有であり 市街の北東に位置している。

イメージ 1 文廟から大雲寺までは、日干し煉瓦と土壁の家が続く旧市街の中を通っていく。大雲寺が土壁の民家の向こうに見えて来た。この道筋でも、取り壊しの決まった家に付けられる≪折≫の字が並んでいるので、もうすぐ違う街並みになってしまうのだろう。

イメージ 2 雲寺前の乾いた埃っぽい道を通る人々。武威に限らず西域ではこのように乾いて埃っぽい場所が多いので、私は喉を痛めないようにうがいとマスクで用心している。

イメージ 4 大雲寺に到着。周囲にビルなどの高い建物がないせいか高く感じる。

イメージ 3 大雲寺の山門。 大雲寺はもともと宏藏寺と言ったが、武則天(623-705、在位684-705)が皇帝となり、全国に大雲経を供奉させた際に、この寺も名を大雲寺と改称した。大雲経というのは女帝の出現を予言した経典とされ、武則天はこれを大いに喧伝したが、実際には、武則天におもねた者の偽作であった。

イメージ 5 その高い鐘楼を外側から見上げた。この鐘楼は明代に建てられたものである。西安の鐘楼と違って木製なので古めかしいが、むしろ趣と威厳が感じられる。

イメージ 6 鐘は銅の合金による鋳造で、淡い黄色をしており、上が細くて下が太く腹部にふくらみがある。高さ2.4メートル、口径1.45mメートル、厚さ10センチ。鐘の外側の図案は三層に分かれ、上から順に、飛天、天王と鬼、竜と天王が描かれている。

イメージ 7 ささやかな鐘撞き  一回一元で鐘を撞かせてくれる。何せ唐代の貴重な鐘なので木槌で優しく叩く。


 私がカメラを持って鐘の周りをうろついていると、
「私たちは武威のテレビ局のスタッフだけど、あなたは外国人でしょう? 外国人も地元の人に混じって鐘を突く様子を撮りたいのですが…」
と声をかけてきた。
 <ひゃ〜!! こんなの初めて> とばかり、驚いた。
中国のテレビに出るなんて、またとないチャンスだ。
二つ返事で「当然可以(もちろんいいですよ)」と応じた。

イメージ 8 まず、このおじさん(この人もやらせかな?)が撞く。画像右奥にちょっとだけ頭が見えているのがテレビ局のスタッフの一人。

 私が鐘を突いた時には、とっさのことなので写真撮影を頼めず…、残念。
 
イメージ 9 私の次には家族連れの番(これも撮影用?)

 鐘を突き終わったところで、「どちらから武威に? どこの国の出身?…」
などなど簡単な質問を受けた。
 数日中にニュースに出す、と言っていたが、翌朝にはもう次の目的地の張掖に出発てしまったので確認できなかった。ちょっと残念だった。
 

羅什塔(らじゅうとう)
 羅什塔は市街の北大街にある。
 後秦代(384-417年)の亀茲(キジ)国の高僧鳩摩羅什(344〜413)が経典を講じたところとされるので、羅什塔という。かつては羅什寺があったが、1927年の地震で倒壊した。羅什塔も半分だけが残った。1934年に修復したが、そのときに塔の下から発見された石碑から唐代の建立か再建と判明した。
 八角12層、高さ32メートル。

イメージ 10


 鳩摩羅什は、中国への仏教伝来に最も貢献のあった僧のうちのひとりである。
 インド人を父、亀茲国王の妹を母として亀茲に生まれた。その高名は遠く中国にもおよび、前秦の符堅は将軍呂光を西域に派遣しその地の討伐と鳩摩羅什を連れ帰ることを命じた。ところが、呂光は帰路、前秦の滅亡を知ったため涼州(現、武威)に留まり後涼国を建てた。そのため、鳩摩羅什は401年に長安に行くまでの16年間をこの地で暮らした。長安では、草堂寺に拠り、三千人の僧が参加させ、97部427巻の仏典を漢訳することにすることになるのである。

インドという外国の血が流れ、しかもあまりにも優秀すぎるがゆえに、権力にもてあそばれた鳩摩羅什――彼ににどこか人間みを感じて、親しみを持っている。それゆえに、ほとんど塔だけしか残っていないこにへやってきたのである。

 以前、直木賞作家宮本輝の作『ひとたびはポプラに臥す』(講談社文庫)という、シルクロードの紀行文を読んだことがあった。
 その書の中で鳩摩羅什について読みやすい記述をしている。その一部を、[コラム]に引用させていただく。
 
[コラム]
 世紀350年に現在の新疆ウイグル自治区であるクチャという広大なオアシスの町で鳩摩羅什は生まれました。当時は亀じ国とよばれ、羅什はその国の王の妹とインド人とのあいだに生を受けたのです。羅什が没したのは西紀409年。59年の生涯でした。羅什は7歳で母とともに出家しました。そして、9歳の時、ガンダーラのケイヒン国へと留学の旅に出るのです。タクラマカン砂漠の西を進み、カラコルム山脈を越える険難な旅でした。9歳でケイヒン国に到着した羅什は、バン頭達多に師事し、小乗仏教を深く学んだあと、3年後に疏ロク国に立ち寄り、そこで須利耶蘇摩と出会って大乗仏教の深義に目覚めます。疏ロク国は現在のカシュガルであるとする説が有力でしたが、そうではなく、カシュガルから南へ約200キロのところにある現在のヤルカンドだという説のほうが正しいようです。363年、羅什は母とともに亀じ国に帰国し、持ち帰った膨大な大乗仏教を研鑚する日々をつづけ、たちまちのうちに、その名を中国の都にまで知られる存在となっていくのです。384年、羅什の頭脳と仏教知識を得ようとした前秦の王・フ堅は、将軍・呂光に命じて亀じ国に攻め入ります。そのときの兵は7万人。まだ35歳の、たったひとりの人間の頭脳を得るために。7万の兵をおこし、都から遠く離れた亀じ国を滅ぼそうしたことには、ただ茫然とするばかりです。亀じ国は簡単に敗れ、国王は殺され、羅什は捕らわれの身となって長安へと向かうのですが、その途中、涼州のコゾウ、現在の武威に入った時点で、前秦の王・フ堅は殺され、代わってヨウチョウが政権を握り、後秦国を建ててしまいます。帰る地を失った呂光は涼州でみずからの国を作って後涼国の支配者となります。羅什もまた捕らわれの身のまま、涼州で16年間も留め置かれるはめになるのです。けれども、401年、ヨウチョウの跡を継いだ後秦の王・ヨウコウは後涼国に兵を送り、これを滅ぼし、51歳になっていた羅什を長安に招聘し、サンスクリット語の大乗仏典を漢語に翻訳する作業に没頭させます。

海蔵寺
イメージ 11
                  武威海蔵寺 山門

 武威市の市街西北2キロにある晋代創建の古寺で、規模の大きさは武威随一。
 周囲が池と林で囲まれていて、その環境から、「まるで海中にかくれている」かのようなので海蔵寺の名がついたとのことだ。


武威の砂漠公園
イメージ 12
イメージ 13
 
武威の砂漠公園  武威市から東北へ22KMの砂漠の中に、1973年に築かれた公園。 烽火台や砦なども人工的に作られており、いにしへのシルクロード気分が味わえる趣向になっている。また、公園内にはプールや競馬場などもあり、中国人はもっぱらレジャーを楽しんでいた。

  
イメージ 10
 チンギスハーンが率いるモンゴルの猛攻を受け、西夏はここカラホトを最後の拠点として滅び去った。

2009年7月8日(水)
'''[コメント]  このブログは旅の流れ沿ってリアルタイム的に紹介してしております。ひとつの記事はそれぞれ独立していますが、初めて訪問される方は、「すべて表示」や各書庫で初めの方の記事からご覧いただければ、より楽んでいただけると思います。 書庫の番号はほぼ旅の日程順に並んでいます。
また、「シルクロードを詩う」をご覧いただくと、これからの旅(中国篇)の雰囲気をご覧いただけると思います。(題目をクリック)''' 

幻の西夏文字 〜西夏博物館西夏文碑〜

 文廟からすぐ隣の西夏博物館に向かう。
イメージ 1
 文廟と西夏博物館の参観券(絵葉書)

イメージ 3 ここには幻の文字といわれた西夏文字の石碑が展示されている。私が西夏文字に関心を持つようになったのは、高校生の頃に読んだ小説『敦煌』だった。

イメージ 2 ――官吏登用試験に失敗した趙行徳は、開封の街で裸にされて売られている西夏の女に出会う。その女の死をも恐れぬ態度に行徳は、官吏万能の社会にはまりこんでいた自分とは違う世界があることに驚く。女から託された一片の布には「西夏の文字」が書かれていたが、読める人はいなかった。行徳は西夏という国が見たくなる。西夏は当時、ゴビ砂漠の入口に興慶という中心地をもち、河西回廊の漢民族の支配地を次々と襲っていた。
それ以後、何年か経って映画で敦煌が放映された。その時の布切れの文字にすごく興味を引かれてわざわざパンフレットまで買いこんでしまった。今なお、私の手元で健在である。


イメージ 4
 博物館前までゆくと中国人に呼び止められ、一緒に記念撮影をしてくれと頼まれた。その人は、西夏語を初めて解読したのが日本の西田 龍雄氏であることを知っていて、ぜひ日本人と一緒に写真を撮りたいということだった。

 建物の中に入ると大きなホールのような部屋の中央に石碑が、でんと立っている。これが、この博物館の目玉の「西夏碑(西夏文碑)」」(正式には「重修護国寺感応塔碑」)である。高さ250cm、幅90cmである。
 この碑は、西夏天祐民安5年(紀元1094年)に鐫られた。涼州(今の武威市)の感通仏塔の霊験と西夏の国王が仏事を重んずる功徳を讃えたものである。
 一つの面に西夏文を刻み、 もう一面には漢文が刻まれている。文の内容は大体同じであるが、その内容は非常に豊富で重要なものといえる。この碑は11世紀から13世紀にかけてこの地を支配した西夏の消息を伝える。残念ながら撮影禁止なので、博物館の売店で購入した拓本を撮影した写真をご覧ください。

イメージ 6
           西夏碑(博物館のパンフレットより)

イメージ 7
               拓本を撮影したもの

                  イメージ 8     イメージ 9 
                     西夏碑の文字を拡大したもの(パンフレットより)



 西夏は遊牧民族であるタングート族(チベット系)が建てた国で、現在の寧夏回族自治区と甘粛省の全域を支配してシルクロードにも少なからず影響を及ぼした。『大夏』と号した。中原の宋の人々は西夏と呼んだ。1038年に建国し、1227年にチンギスーハンによって滅ぼされ、そのまま歴史上から忽然と消え去った。私はこの滅亡の最後の拠点となった幻の城カラホト(黒水城)を数日後訪ねる予定だが、非常に楽しみだ。

イメージ 5

イメージ 8

イメージ 3
 文廟は孔子の霊を祀った廟のことで、 武威の文廟は甘粛省最大の孔子廟 

 
2009年7月7日(火)
[コメント]  このブログは旅の流れ沿ってリアルタイム的に紹介してしております。ひとつの記事はそれぞれ独立していますが、初めて訪問される方は、「すべて表示」や各書庫で初めの方の記事からご覧いただければ、より楽んでいただけると思います。 書庫の番号はほぼ旅の日程順に並んでいます。
また、「シルクロードを詩う」をご覧いただくと、これからの旅(中国篇)の雰囲気をご覧いただけると思います。(題目をクリック) 

孔子を祀った文廟

 例によって、自転車で市内めぐりです。まず訪れたのが、孔子の霊を祀った文廟である。
ここは、明代の1439年に建造されたもので、東西135m、南北187mの敷地内に、建物が東西に2列に並んでいる。現在は市博物館を兼ねており、いくつかの建物が陳列室となっている。
高昌王世勲碑、前漢時代のミイラなど、さまざまな展示がある。
 本来の文廟としては、左(西)側に状元橋、大成殿、尊経閣、右(東)側に山門、文昌祠、崇聖祠がある。明代の特徴である朱と緑を使った色彩の建築群だ。

イメージ 1
 

イメージ 2
 門をくぐると、正面に孔子像が建っている。

イメージ 4
 孔子像の前に立って対面した途端に、井上靖作の『孔子』が思い出され、偉大さが自然に伝わってきて、思わず合掌して頭を下げていた。
 今回のシルクロードの旅で孔子と出会ったのはこれで2度目だ。最初は、西安の西安碑林博物館だ。
「朋の遠方より来るあり。また楽しからずや… 」の碑を目の当たりにしたとき、心が震えたのをおぼえている

 状元橋 状元とは科挙試験で最も成績の良い人を指し、その人だけが状元橋を渡り、大成殿へ詣でることが許されたと伝えられている。 馬鹿の高上がり的に丸橋の頂上まで上ったが気が引けて渡り切らずにそこで記念撮影。

イメージ 5
 ここ文廟にも「馬踏飛燕」の象が立っていた。

イメージ 6
 お堂の天上にはいろいろな言葉が書かれている。

イメージ 7
 境内の丸いくぐり門はいかにも中国的だ。

[コメント] 孔子について
 
(紀元前551ころ〜前479)中国,春秋時代の思想家。儒教を始めた人として,のち日本にも大きな影響を与えた。生まれた国の魯(ろ)(山東省))で政治をとって失望し,自分の政治理想を実現しようと,弟子とともに14年間諸国をめぐった。結局は故国にもどり,教育や古典の整理に専念した。彼は,社会には礼とよぶ秩序が必要であり,それには人を思いやる仁とよぶ心が大事だと説いている。これが儒教の基本理念になっている。
 孔子と弟子たちとの問答をまとめた本が『論語』である。
                             





 
イメージ 6
                        幻想の夕暮れ

2009年7月3日(金)

私のセミバックパッキング宿探し事情

 昨日泊まった経貿賓館は最近出来た宿で、主に中国人対象のビジネスホテルで38元という、私にとっては格安ホテルだった。しかし、1日しか空いていないということで、今日はどこか宿を見つけなければならない。

経貿賓館の正面 
イメージ 1
 
値段の割合には、きれいな部屋だった。
イメージ 2
 

 駅から宿には戻らずに、さっそく次の宿探しに向かった。
 武威は今日だけの滞在である。宿探しにあまり時間はかけたくない。そこで、ガイドブックで探すことにした。だが、三つ星ホテルが二つ載っているだけである。何とか200元(約3,000円)以下で泊まりたいのだが…。
イメージ 3 先ずは「リーズナブル」と書いてある涼州賓館へ行ってみた。大きな門構えの立派なホテルだった。
 フロントの若い女性はニコニコしたかわいい子だったが、英語はまったく通じない。そこで「今天有空房?」と紙に書いて示すと、申し訳なさそうに「メイヨー(ありません)」と言う。満室のようである。「他にどこか安いホテルはありませんか」と聞くと、「天馬賓館へ行ってみてください」と言った。やはりそうかと思った。

イメージ 4
 
 天馬賓館は、この街一番のホテルである。宿泊費は高そうであるが仕方がないか…という気持で訪れてみた。さすが立派なホテルである。
 フロントはチェックアウトの客で混雑していて15分も待たされ、ちょっといらいらした。おまけに、フロントの女性はニコリともせずあまり感じがよくない。英語も通じない。値段を訊くと最低350元だという。ダメでもともと、「請便宜(おまけしてください)」というと、何と、旧館ならば160元でよいとの答え。おまけに、朝食付きだという。嬉しくなった。部屋を見せてもらうと、備品もすべて揃っていてバスタブまである。大喜びで前金を60元払って予約した。

 今まで旅をした東南アジア諸国や南アジア諸国にはバックパッカー用の宿泊施設として「ゲストハウス」と呼ばれる安宿がある。ここに行けば旅の必要な情報が得られ、また、世界中から来た同じような旅人に出会える。高級ホテルよりよほど居心地が良い?のが普通である。私はもっぱらゲストハウスを泊まり歩いてきた。

 しかし、中国には、外国人バックパッカーが少ないためか、ゲストハウスなるものがない。「招待所」と呼ばれる安宿は多々あるのだが、ここは中国人向けの木賃宿であり、時には売春宿である。法律的にも原則外国人は泊まれない。

 最近「青年旅舎」すなわちユースホステルがあちこちに現れだした。私は若かりし頃、もっぱらユースホステルを利用した旅だった。ユースホステルと聞くと、たいていの人は、その名前から来るイメージとして、おじさんが一人でのこのこ行くには抵抗があるだろう。ところが私が京都や四国遍路など泊まってみると、けっこう中高年の利用者がいる。

 今回のシルクロード旅行でも、適当な安宿がないこともあり、西安と蘭州でユースホステルに泊まってみた。西安のものはまともなユースで値段も55元とまずまずだった。
 しかし、蘭州のR青年旅舎はユースホステルの名前からは掛け離れた、何ともあやしげな宿だった。

 そんなこととも知らず、変な雰囲気を感じながらも門を潜った。大きな二階建ての建物が二棟あり、その間が屋根付きの中庭になっている。中庭には小さな人工の川が流れ、木々の植え込みがある。その木陰に幾つものテーブルと椅子が並んでいる。
 
 未だ早朝だったためか人影はない。大声で呼ぶと女性が出てきた。泊まりたい旨伝えると、まったく口をきかず、必要事項を中国語で紙に書き示した。私はどちらかと言うと筆談の方が得意なので、むしろ好都合だった。
 
 案内された部屋は広く、ホットシャワーと洋式トイレがあり満足である。ただし、石鹸はおろか、トイレットペーパーもない。このことは中国では何度か経験があるので別に驚かない。
 1泊120元(約1,800円)で、中国のユースホステルとしては高めだったが、まだ蘭州初日で様子がわからないので、とりあえずその日はそこに荷物を下ろした。

 追々わかったことだが、ここはもともと「若い女性をはべらせながら博打を行う場所」のようでで、娼館も兼ねていると思える施設だった。ユースホステルとしての設備は何もない。英語もまったく通じない。営業実態を隠すためにユースホステルの看板を掲げているとしか思えない所だった。

イメージ 5 観光から帰って食堂へ下りて行くと、人が集まって、各々のテーブルでカードや麻雀が行われていた。そして、真っ赤を始め色とりどりのなセクシーなチャイナドレスを着た若い女性が10数人控えていて、各テーブルにはべる。ちょっと遠慮がちに写真を頼むと私の席の近くの女性が喜んで応じてくれた。だが、なんとなく下心あり…と見えたので、1枚で断念。

 もちろん、酒や料理も提供されている。夜遅くまで、興奮した大声が二階に響き渡って来る。建物の二階は宿泊施設である。私の泊まった棟の二階はまともな部屋であったが、もう1棟の二階は何が行われているのか…。他に旅行者が泊まっている気配はなかった。くわばら、くわばら、翌朝早々に退散した。 だが、何事も体験である。
イメージ 2
 駅前にもシンボルの銅奔馬――まだ明けやらぬ朝の天上をいななきながら駆け巡っているかののごと見えた。 駅に降り立った人々はこれを見て、驚きの声を上げるだろう。そして、「馬踏飛燕」がここ武威で発掘されたことを改めて意識するだろう

2009年7月2日(木)
[コメント]  このブログは旅の流れ沿って紹介してしております。ひとつの記事はそれぞれ独立していますが、初めて訪問される方は、「すべて表示」や各書庫で初めの方の記事からご覧いただければ、より楽んでいただけると思います。 書庫の番号はほぼ旅の日程順に並んでいます。
また、「シルクロードを詩う」をご覧いただくと、これからの旅(中国篇)の雰囲気をご覧いただけると思います。(題目をクリック) 

武威駅にて

 私は今回のシルクロードでは、まだ列車を利用していないが、宿泊地では時間があれば最寄の駅へ立ち寄ってみることにしている。駅はバザールとともに、そこに住む人々の様子が違った角度から見えてくるからだ。

イメージ 1
               6時40分 武威駅到着。まだ薄暗い。外には人はまばらだ。

 だが、待合室にはたくさんの人々があふれている。イスに座れなくてコンクリートに新聞紙を敷いてごろ寝している人もかなりいる。何せ中国の列車は時刻表どおり動かないのが常識だ。長距離列車は1日遅れなんていうこともそう珍しくはない。

イメージ 8


イメージ 3
          待合室に掲示されている案内表示板。西安や蘭州などの大都市では電光掲示板だった。
 
 プラットホームへ入るため入場券を買おうとしたら、話が通じない。根っから乗車券の購入と思い込んでいるらしい。盛んに「どこへ行くのですか?」質問してくる。身分証明書を見せて、プラットホームや列車の写真を撮りたいので入れてほしいと言ったら、「入場許可証」○○○と、自分の氏名を書いた紙を渡してくれた。 親切に感謝!

イメージ 4
                        プラットホームにもあふれる人

イメージ 11
ウルムチ発蘭州行きの電車 最近は大分電化が進んでいるのでSLはあまり見られなくなった。

イメージ 9
 列車は待ち合わせやダイア調整のためにかなりの時間停車していることも多い。
客はその間プラットホームへ降りて買い物をする。
イメージ 5
                        プラットホームで物を売るおばさん

イメージ 13イメージ 14 別のプラットホームに入線してきた2階建て寝台列車とその服務員(右)

 服務員に許可証を見せて、停車中の列車に入ってちょっと撮影…

イメージ 12


イメージ 15


     イメージ 18   イメージ 19


        イメージ 16     イメージ 17

 

駅を出る頃、夜が明け始めた。

イメージ 7
                    大分明るくなってきたので、駅を去る前に「馬踏飛燕」をもう1枚

イメージ 10
  帰りに駅前を歩いていたら、こんな店がありました。初めは古物屋かと思ったら、前を通りながら中をのぞくと、食堂だった。大勢の人が朝食をとっている。


 中心街へ戻る途中で朝日が昇ってきた。河西回廊を行き来したいにしえの人々は、戦いの勝利や旅の無事を祈ったに違いない。

イメージ 6


.
moriizumi arao
moriizumi arao
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(76)
  • 赤い彗星
  • ただし
  • 一休さん 御朱印帳
  • 藤山雄一
  • 真砂女
  • 悲歌慷慨
友だち一覧
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

知人

おなじみ

おなじみ2

おなじみ3

四国遍路

東日本大震災

登録されていません

絵画

仙台関係

仏教

意見

癒し系

旅と趣味

旅 シルクロード関係

旅 中国旅行と情報

イスラム諸国

登録されていません

旅 世界一周・世界各地

旅 (アジア・アフリカ)

歴史

文学・研究

趣味

標準グループ

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事