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私がカメラを持って鐘の周りをうろついていると、 「私たちは武威のテレビ局のスタッフだけど、あなたは外国人でしょう? 外国人も地元の人に混じって鐘を突く様子を撮りたいのですが…」 と声をかけてきた。 <ひゃ〜!! こんなの初めて> とばかり、驚いた。 中国のテレビに出るなんて、またとないチャンスだ。 二つ返事で「当然可以(もちろんいいですよ)」と応じた。 私が鐘を突いた時には、とっさのことなので写真撮影を頼めず…、残念。 鐘を突き終わったところで、「どちらから武威に? どこの国の出身?…」 などなど簡単な質問を受けた。 数日中にニュースに出す、と言っていたが、翌朝にはもう次の目的地の張掖に出発てしまったので確認できなかった。ちょっと残念だった。 羅什塔(らじゅうとう)羅什塔は市街の北大街にある。後秦代(384-417年)の亀茲(キジ)国の高僧鳩摩羅什(344〜413)が経典を講じたところとされるので、羅什塔という。かつては羅什寺があったが、1927年の地震で倒壊した。羅什塔も半分だけが残った。1934年に修復したが、そのときに塔の下から発見された石碑から唐代の建立か再建と判明した。 八角12層、高さ32メートル。 インド人を父、亀茲国王の妹を母として亀茲に生まれた。その高名は遠く中国にもおよび、前秦の符堅は将軍呂光を西域に派遣しその地の討伐と鳩摩羅什を連れ帰ることを命じた。ところが、呂光は帰路、前秦の滅亡を知ったため涼州(現、武威)に留まり後涼国を建てた。そのため、鳩摩羅什は401年に長安に行くまでの16年間をこの地で暮らした。長安では、草堂寺に拠り、三千人の僧が参加させ、97部427巻の仏典を漢訳することにすることになるのである。
インドという外国の血が流れ、しかもあまりにも優秀すぎるがゆえに、権力にもてあそばれた鳩摩羅什――彼ににどこか人間みを感じて、親しみを持っている。それゆえに、ほとんど塔だけしか残っていないこにへやってきたのである。
以前、直木賞作家宮本輝の作『ひとたびはポプラに臥す』(講談社文庫)という、シルクロードの紀行文を読んだことがあった。その書の中で鳩摩羅什について読みやすい記述をしている。その一部を、[コラム]に引用させていただく。 [コラム] 世紀350年に現在の新疆ウイグル自治区であるクチャという広大なオアシスの町で鳩摩羅什は生まれました。当時は亀じ国とよばれ、羅什はその国の王の妹とインド人とのあいだに生を受けたのです。羅什が没したのは西紀409年。59年の生涯でした。羅什は7歳で母とともに出家しました。そして、9歳の時、ガンダーラのケイヒン国へと留学の旅に出るのです。タクラマカン砂漠の西を進み、カラコルム山脈を越える険難な旅でした。9歳でケイヒン国に到着した羅什は、バン頭達多に師事し、小乗仏教を深く学んだあと、3年後に疏ロク国に立ち寄り、そこで須利耶蘇摩と出会って大乗仏教の深義に目覚めます。疏ロク国は現在のカシュガルであるとする説が有力でしたが、そうではなく、カシュガルから南へ約200キロのところにある現在のヤルカンドだという説のほうが正しいようです。363年、羅什は母とともに亀じ国に帰国し、持ち帰った膨大な大乗仏教を研鑚する日々をつづけ、たちまちのうちに、その名を中国の都にまで知られる存在となっていくのです。384年、羅什の頭脳と仏教知識を得ようとした前秦の王・フ堅は、将軍・呂光に命じて亀じ国に攻め入ります。そのときの兵は7万人。まだ35歳の、たったひとりの人間の頭脳を得るために。7万の兵をおこし、都から遠く離れた亀じ国を滅ぼそうしたことには、ただ茫然とするばかりです。亀じ国は簡単に敗れ、国王は殺され、羅什は捕らわれの身となって長安へと向かうのですが、その途中、涼州のコゾウ、現在の武威に入った時点で、前秦の王・フ堅は殺され、代わってヨウチョウが政権を握り、後秦国を建ててしまいます。帰る地を失った呂光は涼州でみずからの国を作って後涼国の支配者となります。羅什もまた捕らわれの身のまま、涼州で16年間も留め置かれるはめになるのです。けれども、401年、ヨウチョウの跡を継いだ後秦の王・ヨウコウは後涼国に兵を送り、これを滅ぼし、51歳になっていた羅什を長安に招聘し、サンスクリット語の大乗仏典を漢語に翻訳する作業に没頭させます。 武威市の市街西北2キロにある晋代創建の古寺で、規模の大きさは武威随一。 周囲が池と林で囲まれていて、その環境から、「まるで海中にかくれている」かのようなので海蔵寺の名がついたとのことだ。 武威の砂漠公園武威の砂漠公園 武威市から東北へ22KMの砂漠の中に、1973年に築かれた公園。 烽火台や砦なども人工的に作られており、いにしへのシルクロード気分が味わえる趣向になっている。また、公園内にはプールや競馬場などもあり、中国人はもっぱらレジャーを楽しんでいた。 |
4河西回廊(蘭州〜武威〜酒泉~)
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2009年7月7日(火) [コメント] このブログは旅の流れ沿ってリアルタイム的に紹介してしております。ひとつの記事はそれぞれ独立していますが、初めて訪問される方は、「すべて表示」や各書庫で初めの方の記事からご覧いただければ、より楽んでいただけると思います。 書庫の番号はほぼ旅の日程順に並んでいます。 また、「シルクロードを詩う」をご覧いただくと、これからの旅(中国篇)の雰囲気をご覧いただけると思います。(題目をクリック) 孔子を祀った文廟例によって、自転車で市内めぐりです。まず訪れたのが、孔子の霊を祀った文廟である。ここは、明代の1439年に建造されたもので、東西135m、南北187mの敷地内に、建物が東西に2列に並んでいる。現在は市博物館を兼ねており、いくつかの建物が陳列室となっている。 高昌王世勲碑、前漢時代のミイラなど、さまざまな展示がある。 本来の文廟としては、左(西)側に状元橋、大成殿、尊経閣、右(東)側に山門、文昌祠、崇聖祠がある。明代の特徴である朱と緑を使った色彩の建築群だ。 今回のシルクロードの旅で孔子と出会ったのはこれで2度目だ。最初は、西安の西安碑林博物館だ。 「朋の遠方より来るあり。また楽しからずや… 」の碑を目の当たりにしたとき、心が震えたのをおぼえている 状元橋 状元とは科挙試験で最も成績の良い人を指し、その人だけが状元橋を渡り、大成殿へ詣でることが許されたと伝えられている。 馬鹿の高上がり的に丸橋の頂上まで上ったが気が引けて渡り切らずにそこで記念撮影。 [コメント] 孔子について (紀元前551ころ〜前479)中国,春秋時代の思想家。儒教を始めた人として,のち日本にも大きな影響を与えた。生まれた国の魯(ろ)(山東省))で政治をとって失望し,自分の政治理想を実現しようと,弟子とともに14年間諸国をめぐった。結局は故国にもどり,教育や古典の整理に専念した。彼は,社会には礼とよぶ秩序が必要であり,それには人を思いやる仁とよぶ心が大事だと説いている。これが儒教の基本理念になっている。 孔子と弟子たちとの問答をまとめた本が『論語』である。 。 |





