東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

4河西回廊(蘭州〜武威〜酒泉~)

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       河西回廊を西に進むと…、絹を積み、鈴を首につけたラクダが行き交った砂漠の道に連なる。

2009年6月30日(火) 

[コメント]  このブログは旅の流れ沿って紹介してしております。ひとつの記事はそれぞれ独立していますが、初めて訪問される方は、「すべて表示」や各書庫で初めの方の記事からご覧いただければ、より楽んでいただけると思います。 書庫の番号はほぼ旅の日程順に並んでいます。
また、「シルクロードを詩う」をご覧いただくと、これからの旅(中国篇)の雰囲気をご覧いただけると思います。(題目をクリック) 

河西回廊を歩き 匈奴を想う

 河西回廊は古来、
 数多くの歴史上有名な人々が
 夢やロマン
 はたまた野望を持って行き来した道である。イメージ 1
 天馬を求めて張騫が進み、
 仏教の経典を求めて玄奘三蔵が旅し、
 霍去病や多くの武将が匈奴との戦いのために軍を率いて遠征した道なのである。
  
 そしてこの道は 
 絹を積み、鈴を首につけたラクダが行き交った砂漠の道に連なる。
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 西安からここ武威にくるまで
 ここかしこで
 玄奘三蔵、チンギス・ハン、フビライ、マルコ・ポーロ……
 子どもの頃におとぎ話のようにして知った人物が実在したことを
 身をもって教えられ、
 その足跡をたどってきた。
イメージ 2イメージ 3イメージ 4 (左)チンギス・ハーン、 (中)フビライ・ハーン  (右)マルコ・ポーロ
 シルクロードの街々を訪ねていることが、
 まるで走馬燈の絵の中へ迷い込んでしまったようだった。
 夢のようなことであった。
 
 今この道はアスファルトで舗装され、現代河西回廊に姿を変えてしまったが、
 人気のない朝の道ならば、まだその息吹を感じることが出来るのではないか…。
 そんな思いで、まだ真っ暗な中、6時前にホテルを出た。
 西安はこの時間には薄っすら明るかったが、それより西の武威の夜明けは遅い。 
 4月下旬だが、武威の標高は2000メートルほどあるので薄手のジャンパーでは小寒いくらいだ。
 そんな中、踏みしめるようにして歩みを進める。

 ふと耳を澄ませると遠くから「ピッピィ〜ィ、ピッ!」という笛に合わせて、
 兵士たちの早朝ランニンの声が聞こえてくる。
 ここは、中華人民共和国最強の陸軍がいると噂される軍管区のある西域なのである。
 匈奴と漢のしのぎ合いから2000年ほど経っても、
 河西回廊をめぐる攻防戦が完全に過去のものになったわけではなさそうだ。


イメージ 5  歴史的に見ると河西回廊は、匈奴と呼ばれる強大な遊牧騎馬民族の支配下にあった。彼らは毛氈のテントに住み、夏季と冬季に水、草を求めて移住し、その栄勝形態や風俗習慣は、漢民族とはまったく異なっていた。
『史記』の「匈奴列伝」には、
「子どもでも羊を乗りまわし、弓を引いて鳥やねずみを射る。少し成長すると、狐や兎を射って食べる。
戦時には得意の武力を発揮して侵略攻撃を行い、戦況が有利な場合には進み、不利と見ると退き、逃走
も恥としなかった。
 壮者は肥えた上等のものを食い、老者はその余りものを食べた。父が死ぬと、未亡人は実母でなければ自分の妻とし、兄弟が死ねば残ったものがその嫁を妻とした」
と記されている。

イメージ 6 匈奴と漢民族は回廊を舞台とした宿敵のライバルであった。
 秦の始皇帝の中国統一により、匈奴の勢力も一時衰退するが、冒頓単于によって部族が統一されると
勢力を盛り返し、しばしば中国の辺境一帯に侵入する。
 漢の統一王朝を建てた高祖劉邦は、余勢をかって匈奴遠征を計ったが、逆に包囲され、かろうじて脱出してからは、匈奴に対する戦意は完全に喪失してしまう。朝廷は匈奴に対して玉帛を送り、皇族の女を単于に与え、ひたすらその進入の緩和を計るほかなかったのである。

イメージ 7 高祖の時代から半世紀たち、武帝の頃になり、初めて漢は匈奴に対して優位に立つことができた。武帝は9回にわたって匈奴遠征に明け暮れる。一進一退の中で紀元前121年の遠征は、匈奴に致命傷を与えた。
 そして、その勝利により、漢軍は河西回廊を確保し得たのである。それは西方に通じるシルクロードの開通史上、大きな意義を持つものであった。
イメージ 8 この遠征で官軍の主将として、最も名をはせたのが、青年将校霍去病であった。 
 
 

 
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         「武威夜市」   派手な看板や飾りが通りの賑わいを引き立てている。両側には小さな食堂がいっぱい並んでいてどの店も客であふれている。

夜更けまでさんざめく武威夜市

 雷台から武威の街へ戻り、明日の下見を兼ねて散策する。
物売りの人だろうか…、仕事の途中、街路樹の下に置かれたベンチで憩っている。その近くでは、女性たちが編み物をしている。中国の人たちは外が好きのようだ。
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 孔子を祀った文廟と西夏博物館の間に広場があったので、ベンチに腰を下ろして休んでいると、文廟の隣にある幼稚園から、子どもたちが手をつないで散歩にやって来た。歌を歌ったり、遊戯をしたりと、ひと時優雅な時間を過ごしていた。それが一通り終わると、歌を歌いながら整列をして帰っていった。
引率の教員に聞くと、中国でも日本同様共稼ぎ家庭が多いので、必要に応じて夕方6時まで子どもを預かっているとのことだった。

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 夕方6時になると、ミユージックサイレンが国家「東方紅」を流し始めた。横一列に並んで手を組んだり、肩を組んだ5人子どもたちが、サイレンに合わせて口ずさみながら歩いている。

イメージ 3 中心街の東大街は歩行街(歩行者天国)になっていて、夜更けになっても人通りが絶えない。、夜の街を老若男女が楽しそうに語り合ったり、ふざけ合いながら歩いている。みんな幸せそうだ。治安がよいのだろう。
 この東大街に面したあたりは、「涼州市場」「小吃(シャオチー)市場」という名前だが、地元の人は「武威夜市」と呼んでいる。

 夕食は、屋台のような食堂がぎっしり並んでいるこの夜市に潜り込むことにした。人と人とがぶつかり合う中を、ガラス越しに店の様子を見ながら奥へ奥へと進み「迎春」という店に入った。もう夜の10時だ。

イメージ 6 小碗(水餃子12個入り)と大碗(20個入り)があるが、迷わず大碗を注文した。子どもまで一人で大碗を食べている。それから武威名物の砂鍋も頼んだ。

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           厨房の娘たちは手より口の方が忙しそうだ。

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 砂鍋の調理中

イメージ 5 砂鍋といっても、鉄鍋を使ったミニ土鍋のようなもので、辛いスープに麺、ゆで卵、春雨、羊の肉、野菜が入ったものである。卓上こんろに火を点けて、フーフー言いつつ、ビールを飲みながら食べるのは、楽しいものだ。

イメージ 7 ビールのラベルには「西涼啤酒」とある。ここが五胡十六国時代(304年〜439年)には「西涼」と呼ばれていたからだろう。ふと見ると珍しいビールがある。「苦瓜啤酒」となっている。ご当地名産苦瓜を苦味の原料にしたものだ。中国のビールの中では苦い方だが、キリンラガーよりは苦味は少ないようだった。

 向かいのテーブルからは、「戯拳(ぎけん)」とよばれるじゃんけん遊びのようなことをしている男たちの声が響いてくる。お互いが出した指の数の合計がいくつになるなるかを言い当て、負けたら、杯の酒を
飲み干さなければならないという遊びだ。そういえば、奄美大島に行ったとき「なんこ」という、同じ遊びが行われていた。

 『迎春」での食事代は、こんなに飲み食いしても8元(約110円)だった。これだから、ホテルなんかでは食べられない。食あたりを心配する人がいるが、私の胃袋は人見知りしないらしい。いままでいろいろな国でいろいろなものを食べたが、どの食べ物ともケンカにになったことがない。ただ、生ものだけはしっかりした店でしか食べないようにしている。

 その後、サンザシ餅の店や玩具店や小物の店をのぞき、人ごみに洗われながらゆらゆら歩いていると、
またまた大好物のシシカバブのたまらない匂い。たまらず店へ吸い込まれてしまう。シシカバブはウイグル語では「カワプ」という。

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 伝統的なサンザシ餅を竹串に指して売っている。

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 シシカバブを焼く匂いには勝てない。

 そのあと、珍しいものを見た。羊のいろいろな焼肉だ。羊が、各部分に分けられて、いろいろな調理を施されて、売られている。「羊はすべての部分を食べてやるのが、大切な羊に対する礼儀なのです」と、店の主人は言う。
 
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「羊はすべて使います。それが羊に対する礼です」と語る主人。

 
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 「羊の足と腸

遊牧民は羊を単なる生活の糧としてではなく、家族のように大切に扱っている。

 講釈はさておき、明日も早い、いやもう明日ではない。午前零時を回っていた。
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  雷台漢墓から発掘された銅奔馬のレプリカ  漢の時代の儀仗兵の隊列を彷彿とさせる。

2009年6月26日(金)

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 「飛燕をしのぐ馬」が発掘された雷台


 夕方だったが閉館時間の7時までまだ時間があるので、「飛燕をしのぐ馬」銅奔馬が発掘された雷台漢墓へ向かった。急ぎでもあるし取り会えずタクシーに飛び乗った。往復で5元で交渉成立。
 街の中心部は、北京や蘭州で見た光景と指して変わりないが、郊外に出ると、土で塗り固められた土塀が立ち、レンガの家が軒を並べている。
 路地には、座り込んで膝の上で子どもをあやしている老人の姿があった。その近くでは子どもが中国将棋を指している。黒いマントのおばあさんが路地に水をまくと、まどろんでいた犬がびっくりして走り去っていった。そんなのどかな風景が続く。

 雷台は、中ソ冷戦時代の1969年防空壕を掘った際に発見された。2002年に周辺を整備し、大きな観光地に変身した。発掘の目玉商品の銅奔走馬(馬踏飛燕)は、前の記事にも書いたように、実物は甘粛省博物館に収納されている。銅奔馬、「飛燕をしのぐ馬」参照

イメージ 1 到着して入場券を買うとすぐに、かわいい案内嬢が現れた。夕方なので見学者は私一人。ラッキーにも独占だ。彼女は、中国語しか話さないが、かえって中国語の勉強になってよい。分からなければ何度でも聞き返す。彼女は裕固族とのことだった。彼女が言うには。
――張掖には「粛南裕固族自治県」があり、そこには約1万2000人の祐固族が住んでいるそうだ。1つの民族で自治県《以前は「人民公社」)を持ってとは驚きだ。この裕固族はキルギスに攻撃されて逃げ回った回鶻(ウイグル族)の末裔ではないかといわれている。昔は仏教徒だったが、今は回教徒になっているそうだ。
 
                             

                             雷台でにこやかに案内してくれた、おしゃれな裕固族の娘さん。

 入館して、本物よりも大きく実際の馬の大きさに近い数十頭のレプリカが館内の石畳に並んでいる。
漢代の壮麗な軍列を思い起こさせる。
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 雷台の入館券 

 案内嬢について防空壕に入り、30メートルほど進むと、墓道に抜けた。レンガの縁取りがしてある。ドーム型の墓は、3つの墓室と3つの側室でできたいた。ドーム型の天井には、金色の花びらを中心にした模様替描かれている。
 「飛燕をしのぐ馬」は、ここに安置されていた棺の中で2千年の眠りからさめて、巴里、ニューヨークなど世界に駆け出していったのである。

 現在、墓の中はがらんとして何も残されていない。私は古代の墓の暗闇の中に、あの天を飛んでいるかのような馬を重ね合わせてみた。口をあけた顔はほえるがごとく、そして後足の一本は羽を広げたる燕を踏みつけている。空を飛ぶ燕よりも早く書ける馬――。「飛燕をしのぐ馬」は、時の権力者がいかに優秀な軍馬を欲していたかを私に語りかけてくる。

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  雷台の漢墓で発見された青銅製の「馬踏飛燕」と「銅車馬儀仗隊」(騎馬出行軍)の像のレプリカ。現在、本物は蘭州の甘粛省博物館にあり、墓には複製が展示されている。 
「馬踏飛燕」が先頭に立ち、他の馬を鼓舞しているようであった。

[コラム]    
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  武威のシンボルはなんと言っても「銅奔馬」――街のあちらこちらで雄姿を誇示している。

2009年6月25日(木)
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いにしえの武威は文武両道

 夕方、武威の街へ入った。街に入って、最初に目を引いたのは、土色の家並みの上に突き出た巨大な城壁だった。高さ15メートルはあろうか、昔の武威の城の入口、南大門跡であった。西へ向かう旅人たちは、この門をくぐって城内に入った。現在残っているものは、西安と同じく明代のものである。

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 私は、ここでトラックから下ろしてもらってお礼に十元渡すと、彼は「今日の日当が倍になりました」と言って、これ以上ないような笑顔で喜んだ。彼は社長に言いつけられて私を乗せただけだが、私は大いに助かったのである。堅い握手で別れた。彼はこれからさらに200キロほどある張掖まで向かうという。
 私の初のトラック便乗旅は、このように形で大成功に終わった。運送屋に交渉してくれた宿の主人、引き受けてくれた運送会社の社長、そして一番肝心の運転手さんありがとう――。
 私は旅行中、常にその土地の人々に感謝の気持を持つよう心がけている。われわれよそ者が旅させてもらって楽しんでいるのである。この気持が相手にも伝わって、みんなによくしてもらっているのだと思う。
 会うは別れの始め――親しくなったと思うと、センチメンタルな別れが待っている。まさに一期一会だ。これからも、私の旅は一期一会が続くのだろう。出会いを大切にしながら旅を続けていきたい――そう強く思った。

 武威の南城門  門の表には「涼州・銀武威」、裏には「神馳天馬」の文字が刻まれていた。「銀武威」とは、「金張掖」に対比して昔からそう呼ばれるほど、素晴らしい豊かな土地という意味で、また「神馳天馬」というのは、この地で出土した、武威のシンボルとも言うべき銅奔馬のことを指している。

 さっそく城壁の上に登った。西日に赤く染まった街の前景が見える。城壁は街のところどころに、今では壁と言うよりは、まさに小高い土の塊として残っているだけだ。その上で遊ぶ子どもたちの姿。テレビのアンテナが1本だけぽつんと立っていた。かつて見張りの兵士が立っていたであろう場所に、今はテレビのアンテナ。その奇妙な取り合わせがなんとも印象的であった。

イメージ 6 武威の街は、「金の張掖・銀の武威」と昔から称されるように、緑豊かで栄えたオアシスだった。現在人口約200万人。観光客は、同じ甘粛省でも、西安から飛行機で直接敦煌を目指すため、訪れる人は少ない。それだけに、昔の風景が残っている。
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 見上げるほど高い旧家の塀

 土で作られた平屋の家も数多く見られるが、最近の西部大開発の影響でどんどん取り壊しが進んでいる。壁に(折)の印が書かれると、3ヶ月以内に立ち退きをしなければならない。日本のように、立ち退き、土地買収で何年もかかることはない。だから発展は早く、1年で街の姿が変わる。

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 旧い家並みが次第に近代的な高層アパート群へ姿を変えてゆく。旧住宅街に行ってみると、かなりの平屋は人のすまない空き家になっていた。

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 道路建設のために切断されている城壁。残った部分はは公園に姿を変えて保存が図られている。

 
 いにしえの武威は文武両道
 「武威」、いかにも軍事色の強い名前である。この古都は、漢の時代、河西四郡のうちもっとも早い時期につくられた都市のひとつであったとされている。戦乱に明け暮れた時代、時の権力者は、内地から漢民族を入植させて都市をつくり、周辺の人々は戦乱を逃れてこの街に逃げ込んできた。当時、武威は河西回廊の政治・文化の中心であったという。最盛期には13の仏教寺院があった。日本では三蔵法師として知られる高僧玄奘も、天竺(インド)へ旅する途中、武威に立ち寄り、お経を講じている。そして玄奘の名声を伝え聞いて多くの人々がこの街にやって来たと伝えられている。また、4世紀には西域の高層鳩摩羅什が15年間滞在した。

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(左) 玄奘三蔵の旅姿《東京国立博物館蔵)  (右)キジル石窟洞の前に立っている鳩摩羅什像(後の記事で紹介します)

玄奘三蔵と鳩摩羅什の詳細は、クリックして次の記事を見てください。
命を懸けて天竺へ
大雁塔からの眺め  
仏教の伝来 〜鳩摩羅什と玄奘三蔵のゆかりの寺〜

 武威では、当時の文化を物語る文物が発掘されている。その中で最も貴重な文物とされているのが、私がすでに蘭州の博物館見た漢の時代に作られたという 銅奔馬、「飛燕をしのぐ馬」と呼ばれている作品である。(クリックしてみてください)

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 甘粛省博物館に展示されている銅奔馬「馬踏飛燕」

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[コメント]  このブログは旅の流れ沿って紹介してしております。ひとつの記事はそれぞれ独立していますが、初めて訪問される方は、時間のある折にでも、初めの方からご覧いただければ、より楽んでいただけると思います。
'''また、「シルクロードを詩う」をご覧いただくと、これからの旅(中国篇)の雰囲気をご覧いただけると思います。(題目をクリック)

1オアシスの人びと  武威への道4

 地平線に見え始めた黒い点がだんだんと横に広がり、やがてそれが林であることが分かってくると、道の両側にポプラ並木が現れた。オアシスだ。荷物を積んだロバ車がオアシスの方へ向かってゆっくりと進んでいる。さっそく頼んでオアシス経由で走ってもらった。
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イメージ 14 オアシスの中心に向かうにしたがって、道路を行き交う人の姿が増えてくる。収穫した麦の束を積んだ荷車の人たち、1台の荷馬車に大勢で乗っている人々、荷馬車の引き手はロバだ。ロバ車はさしずめオアシスのトラックだあり、乗用車だ。
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 荷馬車の間を縫うようにして走る自転車。そんな中を小型トラックが、そこのけ、そこのけといわんばかりにクラクションを鳴らして追い抜いてゆく。武威郊外のオアシスのちょっとした夕方のラッシュといったところだ。 
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 オアシスのメインストリート?


 メインストリートをすぎると、再びのんびりとした情景が戻る。トラックを下ろしてもらって数百メートル歩く。すると生活がちょっぴり見えてくる。おばちゃんたちが、井戸端ならぬ、ポプラの木陰会議で盛り上がっていたり、家の前でのんびり腰を下ろすおじさんがいたりする。みな陽気に手を振ってくる。
そして、シルクロードではどこへ行っても子どもたちがカメラの前に集まってくる。

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近郊の町では沿道で青空市が開かれ大勢の人ダかりだ。運んできたた商品はもさっそく路上で売りに出された。
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この町をすぎてまもなく、武威に到着した。


 

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