4河西回廊(蘭州〜武威〜酒泉~)
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2009年6月26日(金) [コメント] このブログは旅の流れ沿って紹介してしております。ひとつの記事はそれぞれ独立していますが、初めて訪問される方は、「すべて表示」や各書庫で初めの方からご覧いただければ、より楽んでいただけると思います。 また、「シルクロードを詩う」をご覧いただくと、これからの旅(中国篇)の雰囲気をご覧いただけると思います。(題目をクリック) 「飛燕をしのぐ馬」が発掘された雷台 夕方だったが閉館時間の7時までまだ時間があるので、「飛燕をしのぐ馬」銅奔馬が発掘された雷台漢墓へ向かった。急ぎでもあるし取り会えずタクシーに飛び乗った。往復で5元で交渉成立。 街の中心部は、北京や蘭州で見た光景と指して変わりないが、郊外に出ると、土で塗り固められた土塀が立ち、レンガの家が軒を並べている。 路地には、座り込んで膝の上で子どもをあやしている老人の姿があった。その近くでは子どもが中国将棋を指している。黒いマントのおばあさんが路地に水をまくと、まどろんでいた犬がびっくりして走り去っていった。そんなのどかな風景が続く。 雷台は、中ソ冷戦時代の1969年防空壕を掘った際に発見された。2002年に周辺を整備し、大きな観光地に変身した。発掘の目玉商品の銅奔走馬(馬踏飛燕)は、前の記事にも書いたように、実物は甘粛省博物館に収納されている。銅奔馬、「飛燕をしのぐ馬」参照 ――張掖には「粛南裕固族自治県」があり、そこには約1万2000人の祐固族が住んでいるそうだ。1つの民族で自治県《以前は「人民公社」)を持ってとは驚きだ。この裕固族はキルギスに攻撃されて逃げ回った回鶻(ウイグル族)の末裔ではないかといわれている。昔は仏教徒だったが、今は回教徒になっているそうだ。 雷台でにこやかに案内してくれた、おしゃれな裕固族の娘さん。 入館して、本物よりも大きく実際の馬の大きさに近い数十頭のレプリカが館内の石畳に並んでいる。 漢代の壮麗な軍列を思い起こさせる。 案内嬢について防空壕に入り、30メートルほど進むと、墓道に抜けた。レンガの縁取りがしてある。ドーム型の墓は、3つの墓室と3つの側室でできたいた。ドーム型の天井には、金色の花びらを中心にした模様替描かれている。 「飛燕をしのぐ馬」は、ここに安置されていた棺の中で2千年の眠りからさめて、巴里、ニューヨークなど世界に駆け出していったのである。 現在、墓の中はがらんとして何も残されていない。私は古代の墓の暗闇の中に、あの天を飛んでいるかのような馬を重ね合わせてみた。口をあけた顔はほえるがごとく、そして後足の一本は羽を広げたる燕を踏みつけている。空を飛ぶ燕よりも早く書ける馬――。「飛燕をしのぐ馬」は、時の権力者がいかに優秀な軍馬を欲していたかを私に語りかけてくる。
「馬踏飛燕」が先頭に立ち、他の馬を鼓舞しているようであった。
[コラム] |
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2009年6月25日(木) [コメント] このブログは旅の流れ沿って紹介してしております。ひとつの記事はそれぞれ独立していますが、初めて訪問される方は、時間のある折にでも、初めの方からご覧いただければ、より楽んでいただけると思います。 また、「シルクロードを詩う」をご覧いただくと、これからの旅(中国篇)の雰囲気をご覧いただけると思います。(題目をクリック) いにしえの武威は文武両道夕方、武威の街へ入った。街に入って、最初に目を引いたのは、土色の家並みの上に突き出た巨大な城壁だった。高さ15メートルはあろうか、昔の武威の城の入口、南大門跡であった。西へ向かう旅人たちは、この門をくぐって城内に入った。現在残っているものは、西安と同じく明代のものである。 私は、ここでトラックから下ろしてもらってお礼に十元渡すと、彼は「今日の日当が倍になりました」と言って、これ以上ないような笑顔で喜んだ。彼は社長に言いつけられて私を乗せただけだが、私は大いに助かったのである。堅い握手で別れた。彼はこれからさらに200キロほどある張掖まで向かうという。 私の初のトラック便乗旅は、このように形で大成功に終わった。運送屋に交渉してくれた宿の主人、引き受けてくれた運送会社の社長、そして一番肝心の運転手さんありがとう――。 私は旅行中、常にその土地の人々に感謝の気持を持つよう心がけている。われわれよそ者が旅させてもらって楽しんでいるのである。この気持が相手にも伝わって、みんなによくしてもらっているのだと思う。 会うは別れの始め――親しくなったと思うと、センチメンタルな別れが待っている。まさに一期一会だ。これからも、私の旅は一期一会が続くのだろう。出会いを大切にしながら旅を続けていきたい――そう強く思った。 武威の南城門 門の表には「涼州・銀武威」、裏には「神馳天馬」の文字が刻まれていた。「銀武威」とは、「金張掖」に対比して昔からそう呼ばれるほど、素晴らしい豊かな土地という意味で、また「神馳天馬」というのは、この地で出土した、武威のシンボルとも言うべき銅奔馬のことを指している。 土で作られた平屋の家も数多く見られるが、最近の西部大開発の影響でどんどん取り壊しが進んでいる。壁に(折)の印が書かれると、3ヶ月以内に立ち退きをしなければならない。日本のように、立ち退き、土地買収で何年もかかることはない。だから発展は早く、1年で街の姿が変わる。 いにしえの武威は文武両道 「武威」、いかにも軍事色の強い名前である。この古都は、漢の時代、河西四郡のうちもっとも早い時期につくられた都市のひとつであったとされている。戦乱に明け暮れた時代、時の権力者は、内地から漢民族を入植させて都市をつくり、周辺の人々は戦乱を逃れてこの街に逃げ込んできた。当時、武威は河西回廊の政治・文化の中心であったという。最盛期には13の仏教寺院があった。日本では三蔵法師として知られる高僧玄奘も、天竺(インド)へ旅する途中、武威に立ち寄り、お経を講じている。そして玄奘の名声を伝え聞いて多くの人々がこの街にやって来たと伝えられている。また、4世紀には西域の高層鳩摩羅什が15年間滞在した。 (左) 玄奘三蔵の旅姿《東京国立博物館蔵) (右)キジル石窟洞の前に立っている鳩摩羅什像(後の記事で紹介します) 武威では、当時の文化を物語る文物が発掘されている。その中で最も貴重な文物とされているのが、私がすでに蘭州の博物館見た漢の時代に作られたという 銅奔馬、「飛燕をしのぐ馬」と呼ばれている作品である。(クリックしてみてください) |
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[コメント] このブログは旅の流れ沿って紹介してしております。ひとつの記事はそれぞれ独立していますが、初めて訪問される方は、時間のある折にでも、初めの方からご覧いただければ、より楽んでいただけると思います。 '''また、「シルクロードを詩う」をご覧いただくと、これからの旅(中国篇)の雰囲気をご覧いただけると思います。(題目をクリック) 1オアシスの人びと 武威への道4地平線に見え始めた黒い点がだんだんと横に広がり、やがてそれが林であることが分かってくると、道の両側にポプラ並木が現れた。オアシスだ。荷物を積んだロバ車がオアシスの方へ向かってゆっくりと進んでいる。さっそく頼んでオアシス経由で走ってもらった。 荷馬車の間を縫うようにして走る自転車。そんな中を小型トラックが、そこのけ、そこのけといわんばかりにクラクションを鳴らして追い抜いてゆく。武威郊外のオアシスのちょっとした夕方のラッシュといったところだ。 メインストリートをすぎると、再びのんびりとした情景が戻る。トラックを下ろしてもらって数百メートル歩く。すると生活がちょっぴり見えてくる。おばちゃんたちが、井戸端ならぬ、ポプラの木陰会議で盛り上がっていたり、家の前でのんびり腰を下ろすおじさんがいたりする。みな陽気に手を振ってくる。 そして、シルクロードではどこへ行っても子どもたちがカメラの前に集まってくる。 近郊の町では沿道で青空市が開かれ大勢の人ダかりだ。運んできたた商品はもさっそく路上で売りに出された。 この町をすぎてまもなく、武威に到着した。 |




