東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

1西安とその周辺(遙かなり長安)

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2009年4月14日(火)

杜泉新生シルクロード2万キロをゆく8

[コメント]
旅は西安周辺から咸陽を経過しさらに西へ向かいます。

中国1 西安〜西安近郊〜咸陽

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[西安]

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西安近郊

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[咸陽]

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咸陽博物館 楊家湾(ようかわん)漢墓の兵馬俑


咸陽の町の様子
 その日の宿泊地咸陽へ向かってバスは走る。茂陵を出てまだ10キロほどしか走らないのに交通事故車を二度見かけた。交通量が少なくて見通しが良いので無謀な運転をするためだろう。隣に乗り合わせた客が「国境のカシュガルまではきっと30件は見かけますよ」と言う。それから、西安から離れるに従いオート三輪の数が多くなってきた。田舎に行くほど増えてくるようだ。
咸陽に近づいた頃、現地ガイドの閔さんが、咸陽の命名の謂れを話してくれた。
――中国では古くから山の南側、川の北側を”陽”と指します。たとえば瀋陽は瀋川の北に位置し、洛陽は洛河の北に位置します。日本でも、中国山地の南側を山陽、北側を山陰と呼んでいるでしょう。咸陽の咸は「全て」という意味があり、これは渭河の北で、岐山の南にあった土地に都市を築いたので、全てが”陽”であることから咸陽としたものです。古来、長安(西安)の都からしても渭水の北岸の陽のあたりやすい河岸段丘(南向斜面となる)は、咸陽(陽の当たる場所)と言う名に由来するように風水のいい場所であり、歴代の皇帝達の永遠の住居として陵墓が築かれました。
いろいろな話を聞きながら、16時40分ごろ、 咸陽のホテル秦宝賓館に到着した。ホテルには赤いアドバルーンが10数個打ち上げられている。それぞれのバルーンにはスローガンや歓迎の文字が書かれた垂れ幕がつけられていてなかなか見事な眺めである。その日は共産党の幹部がこのホテルで会議を開いており、そのための歓迎バルーンだとのこと。ホテルのすぐ隣には渭水が流れている。
夕方、男性3人で咸陽市街へ買い物と散策へでかける。かなりの人だかりだった。翌朝ホテル近くを散歩したが、道路は細かい砂でいっぱいになっている。何人かの女性たちが大きなほうきで通りを掃除していた。その後、シルクロード沿いのどの都市でも、この朝の掃除の光景は見受けられた。シルクローだの朝の風物詩になっている。

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杜泉新生シルクロード2万キロをゆく7

下線付きの項目名をクリックすると詳しい記事にリンクします

2009年4月13日(月)
[コメント]
私のシルクロード2万キロの旅を、まず写真とコメントで足早に紹介します。
これが終了してから,人びとや自然との出会い、歴史も交えて、それぞれを詳しく紹介します。既に公開した詳しい亀茲は、「はるかなり長安」や「麗しきペルシア」などをご覧ください。

長安名所・旧跡巡り ワンポイント写真集(西安周辺2)唐代のシルクロード出発点から西安古寺巡礼へ

この記事では、西の城門で潘おじいさんと偉華さんに見送られて唐代のシルクロード出発点「開遠門」へ向かいます。その後、地図の中の青のマル印の4つの古刹を巡ります。
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 壁が途切れると道の両側にはビルが立ち、とてもシルクロードのロマンを駆り立てられるような風景ではない。、だが、〈この道は確実にイスタンブールへと繋がっているのだ――〉という思いで眺めていると、気持が浮き立った。まもなく、家の前に「折」と書いた看板が目に入った。質問すると、この家は規定より30センチほど道路側に近いため「3ヶ月以内に立ち退かなければならない」というお達しなのだという。さすが、社会主義国中国だなあと思って改めて、感服?させられてしまった。そういえば、16年前にも始皇帝陵付近で、建てたばかりの家が5軒ほど取り壊されていて、「この家は法律に違反しているので取り壊しを受けた」という意味のことが書いてあったことを思い出した。
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 繁華街を過ぎると、道の両側には郊外特有の小さな商店や民家が雑然と並んでいる。この辺は、16年前の光景と余り変らない



唐代のシルクロード出発点「開遠門

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シルクロード出発点群像
                               
 城門を出てから3km程走ると、駱駝の隊商達の石像が左手に見えてきた。ここは唐の時代の城壁の跡で、唐代の西の城門・開遠門――唐代のシルクロードの出発点である。シルクロードを旅する人々が必ず通った門があった所だ。
 我々がイメージするシルクロードの出発点の本家本元は、西の城門ではなく実はここなのでである。現在は、「絲綢之路起点群像」という、シルクロードをテーマにした石造群が設けられていて、シルクロードの出発点を示す公園になっている。観光客の格好の写真スポットにもなっている。
 石造には西域の商人やラクダ隊が彫られていて、当時のシルクロードの情景をいくぶん思い浮かべることが出来る。
 先頭の駱駝を引っ張って歩く老人像の後ろに、駱駝にまたがった様々な国の人々の像がある。商才に長けたソグド人を初め、漢民族、アラビア人、ヨーロッパ人…などなど。古代のシルクロードの隊商も、このように多国籍だったのだろう。これは、古代シルクロードを舞台に様々な民族の交流があったことを物語っている。
 よく見ると、群像は東に向いており、商隊が西安に到着しようとする姿を現したものである。多くの国の人びとが世界の中心都市長安に集まってくる――というイメージを示したかったのだろう。「世界に冠たる国・中国」のプライドが読み取れる。

イメージ 7イメージ 8 少し走ると次第に埃っぽくなってきた。周辺はどんどん開発が進んでいる。何もない黄土台地に突然に街が出現するといった具合だ。出来上がったばかりの道路の縁石に小さなハケで塗料を塗っている人がいる。人件費の安い中国ならではだ。雇用対策もあるのかもしれない。日本ならば、塗装スプレーであっという間に作業が終了してしまうだろう。                   みんなで家造り→
 一面のとうもろこし畑の中に何本ものポプラの木が生えている。防風の役割で植えられているものだ。センターラインが消えていて、中央を走っている車も少なくない。道路わきに立って子どもがなにやらチラシを配っている。こうした情景がが見れるのは、自転車のお陰だ。

 市街南郊には、中国仏教史に欠かすことが出来ない僧侶ゆかりの古刹が点在する。今日の宿泊地咸陽とほぼ同じ方向なので、多少遠回りでも後に悔いを残さないようにすべて回ろうと思う。市内の喧騒を離れて、のどかな風景の中に佇む塔や堂宇を1日かけて訪ねたことは思い出に深く残った。

興教寺

[興教寺](クリックすると詳しい記事へリンクします)
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興教寺は山間に静かに佇んでいる。

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興教寺の山門

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興教寺の唐三蔵塔 
入口を見上げると「興教」と書かれた額が掲げられている。この中には玄奘三蔵の遺骨が収められてるが、もちろん目にすることは出来なかった。塑像が祀られていた。玄奘三蔵院の旅姿の玄奘のレリーフに見られる悲壮感にあふれる強い意志の顔に比べてなんとm穏やかな顔だろうか。そこには一大事業を成し遂げた満足感にみちた穏やかなふんいきがただよっていた。。
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玄奘三蔵の塑像

浄土宗の聖地 [香積寺]

 私の郷里に近いところにも香積寺という名の寺があり、また、四国には四國曼荼羅札所というものがあり、一六番札所が瑠璃山 香積寺であり、名前になじみがあった。
 興教寺から十数キロ西へ向かう。車のほとんど 通らない一本道を自転車一人旅を楽しむことができた。 香積寺付近をはじめ、集落はどこも桐の花が満開で、 遠くからみるとまるで桜花の春霞のようだ。
 かなり手前から香積寺の塔が見えてきた。なんだか四国遍路で次の札所が見えてくるのと同じ気持だ。何かほっとしたものを感じる。ところが、道を聞きながら行ったにもかかわらず、お寺の付近で迷ってしまった。訛りのある中国語でよけいに聞き取りづらい静もあったのかもしれない。結局、とうもろこし畑を突き進んでやっと寺を見つけた。

 真っ赤な柱と鎧戸の山門が迎えてくれた。到着した時には、訪問者が私ひとりだけだったので、修行僧に寺の説明をして貰い、修行の様子も見せてもらった。この僧は日本語が少し話せる人だった。
 この寺は、浄土宗第3祖・善導大師を記念するために創建されたものである。ここは浄土宗の発祥地なので、日本からもたくさんの宗教関係者が訪れるとのことだ。寄付している人々の名簿があった。
 境内ではあちこち修復中で、像に金箔を張ったり、 寄贈者名を石碑に彫ったりしていた。
 また、境内には、善導法師像、仏像、供卓、木魚、灯籠などがあり、供卓、木魚、灯籠などはここから日本に伝わったものだ、と説明を受けた。日本から来た遣唐使もこの寺を多く訪れており、日本人の記念碑もあった。
 私は、香積寺で初めて中国仏教のお勤めを見聞した。一瞬音楽なのかな?と思ったくらい声高く、リズミカルな感じが印象的であった。日本のお勤めとはかなり違うようだった。
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山門 

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碑楼 


善導塔 高さ33メートルで、創建当時は13層だったが頂部損壊し11層になっている。

香積寺についての詳細は、記事の最後のコラムをご覧ください。


鳩摩羅什ゆかりの古刹「草堂寺」(クリックすると詳しい記事へリンクします)

香積寺からさらに西南に十数キロの地点にある。午後5時に近い。さすがに疲れてきた。しかし本日最後の訪問地だ。

地下急宮から出土した唐代の秘宝[法門寺](クリックすると詳しい記事へリンクします) 以前公開した詳しい記事をご覧ください。
貴人は、


[コラム] 香積寺 

香積寺は西安の南約17キロの長安県神禾原にある。この寺は仏教浄土宗の第二世善導法師を祭るために建てたもので、境内には善導法師の舎利塔がある。この寺は浄土宗の発祥の地とみなされている。

 寺の建立は唐の中宗の神龍二年(706年)善導の弟子の懐[リッシンヘンの軍]によりものである。「天竺に衆香の国あり、仏の名は香積なり」という伝承によって「香積寺」と名付けられたのは善導法師が香積仏に例えたためです。この寺を詠った唐の詩人王維の「香積寺に過ぶ」はあまりにも有名ですある。

 「香積寺を知らず、数里にして雲峰に入る。古木碑と径無く、深山いずこの鐘か、泉声は危石にむせび、日の色は青松に冷えかなり、薄暮空潭の曲、安禅毒龍を制す」

 この香積寺を包む神秘的で奥深い南山の自然が目に浮かん出来る。

 唐代以後の長い歴史の中で、この寺も激しい変遷を経てきた。寺の名が北宋の時に「開利寺」と変わったばかりでなく、建物も長い年月を経てほとんど倒壊してしまった。現在残っている唐代のものは善導法師の舎利塔のみです。この塔は高さ33m、11層の煉瓦造りで、本来は13層あったと伝えられており、風化されて現在のようになった。その精巧で美しい彫刻から、当時の人々の仏教への厚い信仰を読み取ることができます。時代が下がって清の乾隆年間には、この塔の四面に「金剛経」が楷書で刻まれ、塔門には「涅槃盛事」という四文字の額が石刻ではめ込まれている。

 香積寺は唐代に非常に栄えた時期があった。当時、懐軍和尚は全国から僧侶を招き、盛大な法事を行い、則天武后や中宋も何度も香積寺を参拝した。

 そもそも浄土宗は東晋の時、天竺から中国に伝わって来たので中国における創始者は慧遠で、浄土宗の体系を受け継ぎ完成させたのは善導法師である。そのため、善導法師は第二世始祖と尊ばれ、実際の創始者とみなされている。

 善導法師は613年生まれ、俗名を朱と言い、今の山東省の出身で、幼い頃に出家した。645年、善導法師は唐の都長安に移り、しばしば長安城にある光明寺(今の西北大学敷地内)で教義を広めた。彼は全力を浄土宗念仏法門の研究に尽くし、【阿弥陀仏経】一万巻を書き上げました。また、【感無量寿経疎】をはじめ、多くの書を著わし、浄土法門の教相と教義を明らかにしました。浄土宗は「阿弥陀仏」という遥かな悲願を一身に託し、ひたすら念仏を唱えて死後の極楽往生を目指します。「阿弥陀仏」というのは梵語で、無限の光明、無限の寿命、無限の智恵という意味である。

 日本の浄土宗の開祖、法然上人は善導の継承者として「三国七高祖」の一人である。法然によって、香積寺は日本の浄土宗信者の発祥地となった。日中国交回復後、日本の浄土宗信者を始め、各界から続々と香積寺に参拝し、善導塔、大殿の修築、改築も急ピッチに進んあだ。日本から贈られた善導法師像は新築された大殿に安置されています。今、香積寺は単に浄土宗の発祥地としてだけででなく、日中両国いの友好の絆としての役割も果たしている。

杜泉新生シルクロード2万キロをゆく6

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2009年4月11日(土)
[コメント]
私のシルクロード2万キロの旅を、まず写真とコメントで足早に紹介します。

長安名所・旧跡巡り ワンポイント写真集(西安周辺1) 

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秦の始皇帝

兵馬俑1(クリックすると詳しい記事へリンクします)
兵馬俑2 (クリックすると詳しい記事へリンクします)
イメージ 1最大規模を誇る兵馬俑1号坑 、すべて発掘されれば6300体と推定される。大軍団は歩兵を中心とした宮中警護の衛と考えられている。

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兵馬俑2号坑 発掘中の兵士俑。2号坑の俑は歩兵・戦車・騎兵の混成部隊。

イメージ 13兵馬俑3号坑 車馬房(前中央)と司令室(左上) 発掘中(右側)
 
始皇帝陵と阿房宮 (クリックすると詳しい記事へリンクします)

イメージ 3秦始皇帝陵 入口

イメージ 4始皇帝の宮殿 類を見ない宮殿建築・阿房宮 阿房宮跡の南に復元され、ショー
なども開演されている。

玄宗皇帝と楊貴妃

楊貴妃のラブロマンス〜華清池〜(クリックすると詳しい記事へリンクします)
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玄宗皇帝と楊貴妃のロマンが花ひらいた華清池

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華清池に立つ楊貴妃像

イメージ 7 楊貴妃の墓

半坡博物館

半坡博物館は、半坡遺址の発掘現場に屋根をかけて保存したものです。 半坡遺址は今から約6000年前の新石器時代、母系社会の仰韶文化の村落跡です。 1953年以来発掘され、45の竪穴式住居・貯蔵庫・窯跡・墳墓などが発見されました。

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半坡博物館入口
イメージ 9 
半坡博物館は発掘中の遺跡に屋根をかぶせたものです。発掘途中の出土品も見えます。出土品の質や模様は、とても600年前のものとは思えないすばらしさです。
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杜泉新生のシルクロード2万キロ写真紀行5

2009年4月10日(金)
[コメント]
?H1>西安名所・旧跡巡り 西安市街ワンポイント写真集 下線付きの項目をクリックすると詳しい記事にリンクします

イメージ 21 西安の名所旧跡の地図

下線付きの項目をクリックすると記事が開きます


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玄奘三蔵が経典の翻訳をした寺院 大雁塔 
命を懸けて天竺へ←クリック
玄奘三蔵と大雁塔←クリック 

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則天武后が建立 義浄が仏典の翻訳をした小雁塔←クリック 
       
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空海が真言密教を学んだ寺・青龍寺←クリック

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不空和尚が経典を翻訳し密教を伝えた 大興善寺←クリック 

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西安最大のイスラム寺院 清真大寺←クリック



イメージ 7            
唐の宮廷文化が花ひらいたが 興慶宮公園←クリック 




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東門(長楽門)←クリック

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南門(永寧門)←クリック

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シルクロードの出発点 西門(安定門)←クリック 
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/25495166.html←クリック         
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城壁の四隅に設けられた物見櫓 角楼←クリック 
 
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唐代のシルクロードの出発点  

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唐代の宮廷舞踊や民族舞踊を演ずる唐楽宮←クリック
 
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イスラム教徒が多く住む町の街 化覚巷
←クリック          

杜泉新生のシルクロード2万キロをゆく4

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                  慈恩寺と大雁塔

2009年4月9日(木)

[コメント]
私が巡ったシルクロード2万キロの旅を、写真とエッセイで紹介します。
 既に西安の部分は、34回に渡って紹介していますので、総集編の感覚でご覧ください。
初めての訪問の人や久しぶりの人は、「はるかなり長安」や「麗しき ペルシア」もご覧ください。

仏教の伝来 〜鳩摩羅什と玄奘三蔵〜

イメージ 11 この古都西安(長安)で、膨大な経典をを漢訳した二人の僧侶がいた。鳩摩羅什(くまらじゅう)と玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)。この二人は言葉と精神を永遠のものとし、いまだに私の魂を揺さぶる。今日はその二人の僧ゆかりの古刹を訪れて、偉業に打たれ、そして思ってみたい。
 唐の時代、長安の都はまさに国際都市だった。版図ははるか西アジアにまで広がり、城内を東西の文物が行き交っていた。その長安を目指して、わが国からも多くの有能な人材が渡った。その中に、若き留学僧空海の姿があった。なぜ空海が命を懸けてまで唐の都長安へやってきたのか?
それは仏教の源流に迫りたいの思いからであった。約1200年の時を隔てて、西安の街にその足跡を辿ってみたい。阿倍仲麻呂も私の心の奥に子どもの頃から住み着いている。
こうした先人たちの思いをいくらかでも感じ取りたい……そんな高まる気持でペダルを漕ぎはじめた。

「質素だった鳩摩羅什を草堂寺で偲ぶ」イメージ 5 
 唐代のシルクロードを考える時、その典型的な人物として鳩摩羅什がいる。
 名前を知らない人も少なくないと思うが、我々に最もよく唱えられている「妙法蓮華経天」が鳩摩羅什によって訳されたと聞けば、とたんに親しみが湧くのではないだろうか。西域の亀茲国生まれの彼の宗教家としての名声は西域ばかりでなく、中国にまで及び、彼を手に入れようと、戦争まで起こったくらいである。そんな彼だが、戦争に負けてとらえられ、戒律に反して、無理に女性と交わらせられる。私はそんな彼に人間味を感じていた。彼は玄奘三蔵より以前に多くの経典を訳している。イメージ 4
詳しくは、記事の最後の鳩摩羅什の紹介を見てください。キジル石窟で撮影した鳩摩羅什の写真を紹介します。

 そんなことから、この寺は余り有名ではないが、どうしてもお参りしたかったのだ。西安市内から西南へ50キロも自転車を漕ぐのはちょっと大変そうだが、四国遍路で1日40キロ以上も歩いた経験が何度かあるので、私としては大した距離ではない。バスの便は悪いし、自転車を5日間借りているので、タクシーではもったいない。
 草堂寺は華美なお寺ではなく、いわば田舎風のひっそりしたたたずまいだった。鳩摩羅什の名声にしては質素だった。おおげさなものはなにもなかった。
 
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     草堂寺の山門

イメージ 2 1960年再建された大雄宝殿(本堂) 


[大雁塔と玄奘三蔵院]
 朝早くホテルを出て、大雁塔前の公園に建っている玄奘三蔵像と、朝日を浴びている大雁塔をしげしげと眺めた。実は、日本画壇の重鎮、平山郁夫画伯が「明けゆく長安大雁塔」という題で、が薬師寺に大きな壁画を描いている。この光景を実際にこの目で見たかったのである。朝食も取らずに待ち構えていた。
幸い絶好の好天。まさに、“やったぜ”といった感じ小躍りしていた。何枚も撮った中でこれぞと思うものはこれ――平山さんの絵のイメージに近いものが撮れた。

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イメージ 7平山郁夫『薬師寺玄奘三蔵院大壁画』より 1号壁 「明けの長安大雁塔」


 近くでまじまじと像を見つめていると、玄奘三蔵への想いが湧き上がってきた。
玄奘三蔵は、西暦629年インドに向かう旅に出た。ナーランダ大学での修業を得て、インド各地をめぐり、西安に帰り着いたのは645年である。
 彼は帰国後、持ち帰った74部、1338巻もの経典の翻訳のため、その後の人生に心血を注いだ。
国禁を犯して、灼熱の砂漠を通り、極寒の中険しいパミール高原を越えてインドに辿り着き、そこで猛烈な勉学と修行を重ね、帰国後はほぼ死ぬまで経典の翻訳に打ち込んだ――こんなストイックな生き方は、到底できるものではない。この人物を表現できる適当な言葉が、私には見つからない。
 玄奘三蔵の旅をモデルにした、孫悟空が活躍する小説「西遊記」は余りにも有名だが、子どもの頃に描いていた、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を引き連れて冒険旅行を繰り広げる「三蔵法師」と玄奘三蔵の実態が余りにもかけ離れていることを若かりし頃知った時がくぜんとしたものだ。
 私をシルクロードに導いたのは、マルコ・ポーロであったが、それを膨らませてくれたのが、平山郁夫画伯であり、玄奘三蔵である。
西安では、やはり大雁塔への思い入れが一番深い。
大雁塔は見れば見るほど気品をたたえてそびえ立っている。これから伸びていこうとする、はつらつとした気概にあふれている。この大雁塔が西安全体の雰囲気を醸し出しているように思う。

玄奘三蔵については、以前公開した下記の記事もあわせてご覧ください。
「はるかなり長安'9,10」
大雁塔からの眺め  〜奘三蔵と大雁塔1、2〜  
URL: http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/23842658.html
   http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/23891525.html

[興教寺]
 もう一つの玄奘三蔵ゆかりの寺の興教寺は、西安から焼く20キロ東南にある。山の斜面に立つ興教寺は、玄奘の遺骨が納められているところだ。夕方訪れたこともあり、黄昏の静かな境内である。立ち去りがたくていつまでも唐を見上げていると、工事の男が何かいい多層に見ていた。黙っていると1300年前の同じことを考えているような気にもなるが、気持を伝え合おうとしても、そこには言葉の壁が立ちふさがって
いた。

イメージ 9興教寺の周辺は山林に囲まれ、野鳥のさえずりが絶えない。

イメージ 8西安市から東南へ焼く20キロにある興教寺。

イメージ 10境内に建つ玄奘舎利塔。高さは23メートル。

[杜泉流鳩摩羅物語]
 鳩摩羅什(344〜413年)(以下羅什と略す)は、クマーラジーヴァといい、意味から訳せば、童壽(どうじゅ)となる。父のクマーラヤーナ(鳩摩羅炎)はインドの宰相であったが、出家して西域の亀茲国(きじこく)にやって来た。その地で国王に推されて国師となりなり、王の妹ジーヴァを娶って一子をなした。子の名は、父母の名を合わせてクマーラジーヴァとした。生まれたのは亀茲国の首都クチャ(庫車)である。7歳で出家して、母とともに北インドに留学し、小乗学派を学び、カシュガルでは往時スーリヤソーマ(須利耶蘇摩・しゅりやそま)について大乗空義(だいじょうくうぎ)を極め、梵本(サンスクリット語)の法華経を授けられたという。
 故国亀茲に帰ると国王の帰依を受け、大乗教義を講説した。その名声は西域諸国ばかりでなく、中国にも及んだ。戦争を起こして羅什を手に入れようとする王まで現れたのだから、その名声は限りもない。384年、前秦王・符堅(ふけん)は将軍呂光(りょこう)をつかわして亀茲国を攻めさせ、羅什を自分の国に迎え入れようとした。この戦で亀茲国王白純は戦死し、鳩摩羅什はとらえられた。その時、呂光は亀茲王の娘を無理やり羅什に娶らせようとしたいう。彼の種をこの世に残そうとしたのである。
 呂光は羅什を連れて涼州(甘粛省武威)まで戻った時、前秦が滅んで符堅が殺されたことを知る。
呂光はそのまま国を起こして後涼王となり、羅什は涼州に18年間とどまることになる。その時に、本格的に漢語を学んだといわれている。
 401年、後秦王姚興(ようこう)は後涼を内、羅什を長安に迎えて国師とした。羅什は長安の西明閣と逍遥閣にとどまり、本格的に仏典翻訳と講説をした。訳した経典は、一般に名前のよく知られる『法華経』『阿弥陀経』『中論』など多岐にわたり、いろいろな説があるが、その数35部297巻とされている。
 羅什の訳は流麗であり、漢語の持つリズムをよく生かしている、と言われている。羅什訳の経典は中国で熱狂的に迎えられ、日本や朝鮮半島に伝わり、今日でもつかわれている。羅什ほど後世の仏教に深い影響をあたえた人はいないだろう。一般に余り知られていないのが不思議である。
 ひとりの僧を求めるため戦争まで起こして例は、史上ほかにあるだろうか? 後秦王姚興や羅中の血統が絶えることを恐れ、長安の妓女10人をまわりにはべらせたという。女性と交わらないという戒律受けた僧の身では、姚興の待遇は羅什には苦痛であったに違いない。姚興の望みどおりに羅什が子孫を残した
稼動かは、後世の歴史書は伝えていない。羅什は破戒僧の汚名まで着せられ、自身も罪の意識にさいなまれ、一生悩みぬいたことだろう。羅什が玄奘三蔵とくらべて後世に名前や人となりが余り伝わらなかったのは、女性に関することを口にすることがはばかられたからではないだろうか。4134月13日、羅什は長安の長安大寺でぼっした。享年70歳であったという。

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