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シルクロード東西交流の遺品を求めて 〜陝西歴史博物館〜 唐代の建築様式を取り入れた宮殿風の立派な建物が迎えてくれました。 ここは中国トップクラスの博物館といわれるだけあって、 以前見学した北京の中国歴史博物館や故宮博物館にもほぼ匹敵するものでした。 展示室は年代別になっています。 第1展示室は先史時代から周、秦代まで 第2展示室は漢から魏晋南北にかけて 第3展示室は、隋、唐から清代まで となっています 収蔵品が37万点、そのうち6000点が常時展示されているとのことです。 115万年前の藍田猿人の時代から清の時代までの長い歴史を代表する貴重な文化財がここに集められ、 一堂にして中国の歴史を巡る思いでした。 国宝も目白押しでした。 記念すべき戦勝品だったのです。つまり、シルクロード貿易がやっと中国の手におさめられたのです。そういう意味でとてつもない記念品なのです。当然国宝です。 数多い壁画の中では、唐代のものが印象的でした。 いずれも中国最高のレベルに達しているとの評価を受けているものばかりです。 これらの壁画には宮廷生活や楽隊、儀杖隊、狩猟風景などが多彩に描かれており、 中国古代絵画の最も重要な遺産であると言われるだけのことはあります。 唐三彩も見事なものばかりです。 シルクロードを通って伝えられた芸術品や技術的なこのもたくさん展示されていました。 館内の売店で、この歴史博物館に展示されている文物が書かれた本が売られていました。 280元と180元の本を2冊ほしいと思ったが、あいにく持ち合わせが350元ほどしかありません。 そこで、一応2冊350元で交渉したところ、若い服務員に断られたのであきらめました。 ところが見学を終えた帰り際に、責任者らしい男性を同伴して現われ、350元でよいと言いいます。
だが、すでに他の売店でお金を使ってしまい、300元ほどしかなくなってしまいまた。 さすがに、300元では駄目だった。後で思うとちょっと残念でした。 |
1西安とその周辺(遙かなり長安)
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[コメント] 知り合いになったおじいさんとの縁がその後も続きます。 大雁塔からの眺め 〜玄奘三蔵と大雁塔2〜 ブログでは再登場だが、ずっと話ながらついて来た。 実はこのおじいさんは、若い頃、旧満州地区にいたので、日本語が話せたのだ。 案内してやると言う。 「忙しいでしょう? それに申し訳ないから…」 「いやいや、暇だから太極拳をやっていたんだよ」 ひとりのほうがよかったが、せっかく仲良くなったので、むげにも断れない。 同行することに… 入場券売り場へ行って料金を見る。 慈恩寺すべて見学55元、大雁塔のみ15元だ。 「案内してもらうお礼に、私に払わせてください」と申し出ると、 おじいさんは「悪いね。高いから…わしは大雁塔だけでいいよ」と言う。 私はすべて見たいので、55元なり。 塔を指差しながら、おじいさんは説明を始めた―― 慈恩寺は、唐の3代皇帝高宗が母の追善のために建立しました。 寺は消失し、現在は塔だけが残っています。 玄奘三蔵がインドから持ち帰ったサンスクリット語の経典を保存するために建立されたものです。 建立当初5層だった大雁塔は、8世紀、則天武后の頃には10層にまで積み上げられました。 その後8層以上の階が倒壊したため、現在は7層の構造となっています。 四角七層で高さ64mです。 この塔は、中国独特の「黄土煉瓦」を積み上げたものですが、その内部構造は柱が使われていません。 ――どうやってこの高い棟を柱なしで支えているのですか? それか謎に包まれるのです。 黄土を餅米で突き固め、外側をレンガの壁で覆った分厚い構造になっているのですが、 詳しいことはわかっていません。 その構造自体が非常に特殊な建築技術によるものだそうですので、このあたりもじっくり味わってください。 「おじいさんはなかなかの博学ですね」と言うと、 「実は、私はここのガイドをしていたことがあるんだよ」 「どうりで詳しいと思いましたよ」 「あんたが自転車で来たとき、色は白いし、腰のバッグを見てすぐに日本人だとわかったよ。西安にはあんたのような色の白い人はいないからね」 「15元のガイド料じゃ安かったですね」と冗談ぽく言うと、 「そんなことないよ。時々、奉仕でガイドをやっているんだよ」 「私はSといいます」と名乗ると、 「私は潘(パン)といいます」 と言って、ノートに書いてくれた。 聞いた話を、帰国後に一応本で調べてみたら全部正しかった。 もちろん本に書いていないことも教えてくれた。 まず、大慈恩寺入口の山門をくぐり、 大雄宝殿の脇を進んでいくと大雁塔の登り口があった。 最上階まで螺旋階段が続いていて、全部で248段ある。 かなりの急階段だ。 周囲の人たちは必死の表情で上っている。 階段は幅が狭く先がつかえてなかなか前に進めない。 幸い、私は四国歩き遍路で歩きなれているので、さほどの疲れはなかった。 潘さんもなかなか達者だ。 何ともいえない達成感があった。 玄奘三蔵も、経典の翻訳の合間にこの塔からに賑わいを見せる国際都市長安の街を眺めたのであろう。 シルクロードも一望できる。 潘さんは、「ここからはローマが見えますよ」と言う。 どういう意味かはわからなかったが……、 たぶん、ここからローマに想いをはせると、想像のローマがありありと浮かんでくるのだろう。 そんな気がした。 潘さんの説明再開―― この玄奘のインドへの遙かなる旅をモデルにした小説が「西遊記」なのです。 ただし「西遊記」が書かれたのは後の時代、明代のことです。 大雁塔の南側入口に玄奘三蔵の偉業を讃えた唐の高宗碑文があります。 ここは牡丹の名所としても有名です。 「科挙」(昔の役人である官史の採用試験)に合格すると「進士題名」といって、 塔に登り漢詩を刻む栄誉が与えられます。 入口や壁に往事を偲ぶ新進気鋭の進士詩文も刻まれています。 塔を下りて潘さんと別れた。
ところが潘さんとは、思わぬことで縁がつながるのである。 ひとりで大雄宝堂と2003年新たにオープンした玄奘三蔵院を見学した。 玄奘三蔵院には、ほぼ等身大の玄奘の旅姿のレリーフがあった。 自分も、しばらくは玄奘三蔵の歩んだ道を辿るのか…。 そう思いながら感慨深くしげしげと眺めるのだった。 |

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[コメント] 長安に縁の深い人物の中で、心惹かれる人を三人上げろといわれれば、迷わずに、 玄奘三蔵、阿倍仲麻呂、空海を挙げるでしょう。 今回の西安訪問では、この三人に心を置いて巡ります。 今日と明日はまず玄奘三蔵と、 彼がインドから持ち帰った経典の保管場所であり、 自らも翻訳にエネルギーを注いだ大雁塔についてです。 なにせ、63mあるので、建物を見ながら自転車を漕げば、迷うことはない。 大雁塔の付近まで来て、周辺は以前来たときとすっかり変わってしまったのには驚いた。 〈それはそうだよ。もう16年経ったんだよ〉と自分に言い聞かせたほどだ。 わかってはいたが、太極拳をしている老人に「あれは玄奘三蔵ですか?」とわざわざ訊いてみた。 ――地元の人と仲良くするにはこちらから積極的に話しかけるに限る。 ものをたずねると相手の自尊心が満足されてよけい親切にしてくれる。 このことは私の旅のひとつの知恵にもなっている。 「あんた よく知っているね」と感心したように言う。 老人は北向きになっている玄奘像を指差して、 「西向きに立てるべきでした。失敗でした」と残念がっていた。 確かに西に向かって壮大な旅へ旅立った玄奘三蔵をシンボル化するには、西向きのほうがよいかもしれない。 だが、観光客の方を向いて、正面から迎え入れるスタイルほうが実際的、いや観光的ではないかと思った。 しかし、老人の意見には異議をとなえず、 「太謝謝了!(たいへんありがとうございました)」と丁重にお礼を言った。 (参考) 世界史年表・地図(吉川弘文館) 有名な「西遊記」に登場する、三蔵法師のモデルは、ご存知のように玄奘三蔵である。 ここでどうしても、玄奘三蔵について述べておきたいたい。 文章がやや小説っぽくなるが、 ――中国本土の西の外れ敦煌を通り過ぎ、 西域への2つの関門、陽関と玉門関(表示画像は玉門関にて撮影)を越え、 伊吾(現在のハミ)方面へ歩みを進めると、 そこは莫賀延磧(ばくがえんせき)と呼ばれる広大な砂漠が広がっている。 莫賀延磧は八百余里(ここでいう一里は約4キロ)、 優に3000キロを超える長さに渡っており、 古くは沙河(さか)と呼ばれ、 「空には飛ぶ鳥もなく、地上には走る獣もなく、また水草もない」 といわれた荒涼たるところである。 伊吾は、この時代、次第に衰退して行った鄯全(楼蘭)に代わって、 東西交流の重要なオアシスとなっていた。 西域へと向かう旅人にとっては、伊吾こそは、西域の入口に他ならないのであった。 時は唐の太宗の治世、629年の秋。 一人の男が馬にまたがり、悄然とこの砂漠を進んでいた。 辺境警備のため100里ごとに設置された5つの烽火台を越え あとは伊吾まで本当に何もない荒野が続く。 食べ物もなければ、水もないのである。 ――私はタクラマカン砂漠をラクダに乗って、 高々4泊5日ではあったが、砂漠の旅を経験した。そのとき、 〈もしも独りでここに放置されたら、1日ももたないだろう〉と恐ろしくなったほどだ。 男は、それまでの旅の過酷さを表すかのように、疲労の色濃い様子であった。 無理もない。 ひそかに唐の国を抜け出し、人目につかぬように日中休み、 夜間に移動するという旅を続けてきたのである。 当時、建国間もない唐では、国外への移動を禁じられていた。 男は当時まだ少なかった仏教の経典を求めるため、 天竺(インド)へ行きたいと熱望し、 許可を求めたもののかなわない。 やむなく国禁を破って旅に出たのである。 ただでさえ困難な 旅の行程が、 そういう理由からいっそう厳しいものになったのである。 国禁を犯してまでたった一人で西域の道を急ぐ旅人、 この男こそ、玄奘三蔵その人であった。 玄奘は、天竺まで行って中国では得られない仏教の真髄を学び、 さらに仏教哲学の最高峰『十七地論』を得て持ち帰り、 正しい仏の教えを中国に伝えようとしていたのである。 玄奘は大砂漠の中を苦心の末進み、 パミールの難所も越えて、北インドからマガタ国のナーランダ寺院へ到着した。 長安を出て3年後のことだった。 その後、ナーランダ寺院での5年間の修行を経て、 インド聖地巡礼の旅に出た。 645年、玄奘は長安に帰り、太宗の盛大な歓迎を受けた。
大慈恩寺の住持となって、持ち帰った膨大な経典の翻訳に専念した。 大雁塔は経典の保管場所であり、翻訳に従事する場であった。 |

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