東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

1西安とその周辺(遙かなり長安)

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2009/2/14(土)


すったもんだ 兌換元と人民元
 
自転車を借りた、大慶街へ戻ってみると、既にうどん屋はいなかった。
隣の果物屋が、うどん屋から自転車と金の受け渡しを頼まれたと言う。
彼は、「まず自転車と貸し出し料金の60元を渡してほしい」と言ってきた。
どうも始めから、胡散臭さがプンプンする。

そこでこちらは、〈その後のやり取りは、Yさんが果物屋と中国語で話し、それを私に伝えて相談しよう〉と打ち合わせた。

「それはおかしい。うどん屋とは2台で30元ということで話がついている。あんたもそばにいたのでわかるだろう」とYさんが言うと、
敵もさる者、
「そんなことは知らない。とにかくオレはうどん屋から60元と言われているのだから、
その通りするだけだ」と言って頑としてゆずらない。
「それじゃうどんやをつれて来い!」、
「うどん屋の家は知らない」

そんなやり取りがしばらく続く。
Yさんはかんかんに怒って交渉するが、埒があかない。

「Yさん、もういいでしょう。これ以上もめると虎の子の300元まで戻らなくなるとかえって困りますよ。悔しいけど妥協しましょうよ」と、なだめた。
それで、しぶしぶ60元払った。
なんともくやしい!

これで収まったと思ったら、まだ次が待っていた。
保証金の300元は戻ったのだが、我々の渡した兌換元(だかんげん)――100元札3枚が、そっくりと人民元の100元札と10元札に置き換わっていた。(兌換元と人民元はコラム参照)

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         兌換元 100元と10元                    人民元  100元と10元

やり方の汚さに、理屈抜きで頭にかーっと来たが、すぐに発想の転換をした。

もうやられついでだ。
敵ながら奴らは天晴れだ。
二枚も三枚も上手だった。
まあ、三十元(420円)よけいに払って、中国人とケンカできたのだから安いものじゃないか、
いい経験をさせてもらった。
そう思うと、却ってすっきりした気分だった。

「してやったり」と思って自転車を借りたところまではよかったが、
なんと、「してやられたー」の幕切れに終わった。
奴らのほくそ笑む顔が目に浮かぶようだった。

[コラム] 兌換元と人民元
兌換元(だかんげん)、外貨兌換券(がいかだかんけん)は、中華人民共和国政府が外貨を管理するために1979年に導入し、1995年に廃止された紙幣で、外国為替専門銀行であった中国銀行が発行し、外国人が観光や商用で外貨を両替すると渡された。

イメージ 5
ホテルで日本円から兌換元に換金した時の証明書(氏名は削除してあります)

私が訪れた1989年当時の中国では、一般の中国人が使用する人民幣とは別に、この外貨兌換券が流通していた。

外貨兌換券と人民幣の額面価値は等価であったが、外貨に両替可能なことや、人民幣では買えない外国製品が買えることなどから外貨兌換券に中国人の人気が集まり、人民幣との闇両替が横行した。
当時の闇両替のレートは、兌換元=人民1.5元 〜 1.8元程度だった。
後に、1993年から外貨兌換券は新規発行がされなくなり、1995年1月1日に流通も停止され廃止された。
2009/2/13(金)

[コメント]
「イランの素顔」は、タイトルを「麗しきペルシア」に変更しました。

[シルクロード紀行]

さまよえる日本人    

西門を出るとすぐ信号にぶつかった。
私が差し掛かったとき、信号が青から黄色に変った。
私の前方を走っていたYさんは、黄色に変る寸前に交差点に入ってそのまま渡り出した。
私は一瞬迷ったが、進入せずに待った。

その間にYさんの姿は、津波のような自転車の群れの中に消えた。
この信号は変則的な5差路になっている。おまけにロータリーになっていて、一端、円状の道路を半周してから、それぞれの道に分かれるので、方向を失いやすい。
地元の人でもなれるまでは迷ってしまうとのことだった。

イメージ 1
      安定門(西門)前の複雑な交差点。 私はここで道を間違えてしまった。(2005年撮影)

地図によれば、我々はこの信号を少し弓なりに右折するのである。
我々のホテルは、信号から1kmちょっとのところにあり、自転車を借りた場所はそこから数百メートルの距離だった。

青になってからロータリーを走り、やや右方向に向いている最も太い道へ入って信号を渡りきった。
そこにはYさんが待っていると思ったが、姿が見えない。
私に気づかずに、自転車群に押し流されるようにして、先へ進んだのかもしれない。
そう思って、私は先を急いだ。
少し不安になったが自分の判断を信じて、自転車大集団の中を掻き分けるようにして、追い抜きながら走り続けた。

追いつけなかったらホテルの前で待っていてくれるだろうと思って、あせりはなかった。
ところが、とっくに1km以上走ったはずなのに、ホテルの姿が見えて来ない。
この時点で、〈どうやら道を間違えたな〉と思った。
念のためもう少し走ってみようと思ってペダルを踏んでいると、あんなにいた自転車部隊
がほとんど姿を消し、街燈もない真っ暗な道を一人で走っていた。

時計を見ると9時近かった。信号から30分ほど走ったことになる。
とにかく引き返そう…、そう思ったとたん、無性に不安にかられた。
引き返す途中はほとんど人とも車とも出会わない。
軒を連ねている店はほとんど閉まり、真っ暗か、ほんのりと明かりが漏れてくるだけである。
それが一層孤独感を深める。

当時の中国人は早寝早起きで、日没になって暗くなると、電気の節約もあるのか、早々に寝てしまうのだそうだ。
10分ほど走るとやっと、ひとつの明かりが見えた。漢方薬の小さな店で、まだカーテンを閉めずに、薄暗い電灯を灯していた。

何も考えず、とにかく店の中に入った。
人恋しさと孤独感、それ以上に少しでも不安を紛らわせようと思ったに違いない……。
ちょこんと頭を下げると、こんな時間なのに、にこやかに応対してくれた。
何か話しかけてくるが、さっぱりわからない。
こちらは苦し紛れに、英語で話しかけてみたが、もちろん通じない。
ジェスチャーで紙と鉛筆を求めると、薬を入れる袋と鉛筆を渡してくれた。

「秦都酒店」と書いたが、きょとんとしている。
当時は、文字の読み書きが出来ない人がけっこういると聞いていたが、この老婆もそうらしい。
奥に向かって、老婆がなにやら声をかけると、40歳代くらいの女性が出てきた。
先ほど書いた「秦都酒店」の脇に「地図」と書いたが、わからなかった。
中国語を勉強してからわかったのだが、中国語の地図の「図」は口の中に「冬」と書くのだった。
目的は達せなかったが、親切に感謝して「謝謝!」と頭を深々と下げて店を出た。

店を出たとたん、猛烈に自分の無謀さを悔いた。
地図も筆記用具も、ガイドブックも何も持たずに街へ出たこと、
中国語も話せないのにひとり旅に出たことを後悔した。
今度来る時には絶対に中国を勉強してこようと強く思った。

それ以前に、まず迷いのスタート地点・西門へたどり着くことだ――そう思いながら暗闇の中をひたすらペダル漕いだ。

すると幸運にも道端に警察官が立っていた。
“これで救われた”と思ったのも束の間、彼は英語がまったく話せなかった。
これで却って腹が据わった。
一晩かかっても探してみせる――そう思うと気が楽になった。

不安は完全に飛んだわけではないが、少なくとも「身の危険」だけは心配していなかった。
「外国人に危害を加えると死刑」と聞いていたからだ。
なにぶんにも、外国人観光客は有力な「外貨稼ぎ」の対象だからだ。

10分ほど走ると少しずつ電灯の明かりが増えてきた。
ほっと安心した。
数百メーター先に西門らしきものがぼんやりと見えてきた。
これで安心。

今度は、間違わないように目的の道路に入った。
そこから、意気揚々と自転車を飛ばしていると、
反対側の車線から「Sさーん、Sさーん!」と言う叫び声が聞こえた。
これを聞いて、安心して力が抜けるようだった。
これで、ひとまず、めでたし、めでたし。

ふたり合流して自転車を借りた場所へ向かった。

長くなりそうなので、今日はひとまず締めです。では明日。

[シルクロード紀行]

今日も1回目(1989年)の、西安の旅の続きです。ついに憧れの「長安城」への入城です。


憧れの長安へ   

ついに憧れの長安へ入城した。城壁の中がいわゆる「長安」である。
古き良き「長安」の姿をいくらかでも目にできるのだろうか…。

イメージ 16私の「長安」訪問は、西安のシンボル鐘楼から始まった。
城内の中心に建つ鐘楼に上ると、市街が一望に開けた。
南に目をやると、大雁塔や小雁塔、西北には鼓楼が望める。
ここを起点に、東西南北へと大通りが延び、それぞれの方向の城門に達している。


                 
行き交うものは、圧倒的に多い自転車、そしてバス、車。
馬車、ロバ車、輪タク、はては人力車といった、日本ではもう見ることが出来ない動物力の車も健在である。
それらが、まったく右往左往しながら無秩序に走ったり歩いたりしている。
よくこれで交通事故にならないものだと心配になるほどである。

イメージ 1イメージ 2イメージ 15
                             
ちなみに、交通マナーの悪さは最初に訪れた北京もやっぱりそうだった。
16年後には一層拍車がかかっていた。
また、ビルのため、遠くはほとんど見えなくなった。

イメージ 3イメージ 4

鐘楼に立って見はるかす西安市街は、街路樹の緑を除けば、黄土色の建物がやたら目につく街である。
木や草の多い緑の文化で育ったわたしたち日本人にとって、土の文化、黄土文化の西安のたたずまいは、ことのほか埃っぽく見える。

――いったいあの大唐の都はどこへいってしまったのだろうか。
  周、秦,漢、唐と十一代千百年にわたる中国王朝の栄華はどこに消えてしまったのだろうか。

私は現在の西安にも多少は、大唐の都・長安を見ることが出来るだろうと思っていた。
しかし、鐘楼に立って西安の街道を遠望すると、わずかに大雁塔、小雁塔が夕日を浴びて遠くかすんでいるのを見つけるだけである。

〈それもそのはずだ。ロマンに浸り過ぎたか…〉と、現実に帰った。
――長安をめぐる王朝の戦い、戦乱によって、焼き払われたのだ。
中国では新しい王朝が立つと、前代の宮殿や城など焼き払ったり、打ち壊したりしてしまうから、残念ながら残っているはずはないのである。

そんなことを考えていると、
Yさんが「何をもの思いにふけっていたんですか? 遅くなるからそろそろ出発しましょう」と声をかけた。
西安の日没は、現地時間で8時過ぎである。
日没までまだ1時間半ほどあるが、せっかくなので時間を有効に使いたい。
Yさんの地図であらかじめ廻るルートを打ち合わせた。

イメージ 14

〈いざ、本格行動!〉と思ったら、まず、最初のトラブル発生。
自転車から鍵をはずそうとするが、私の自転車だけが開かない。
5分ほどガチャ、ガチャやったが、ダメ。

するとひとりの中国人の男が近づいて来て、いとも簡単に開けてしまった。
二重鍵になっていたのだ。
当時の中国では、自転車は貴重品なので、二重鍵が普通だったのだ。

ところが、この男は食わせ物で、絵を売るために我々に近づいたのだった。
「いい絵が有ります。明日ホテルまでうかがいます」と言う。
「絵には関心はありません。ありがとう。さようなら」と、逃げ腰で言うと、
鍵を開けたお礼をくれ、とねだる。仕方ないので1元提供した。
「うどんが、3皿食えるんだから、いい稼ぎですね」と、
Yさんに向かって思わず苦笑いをもらしてしまった。

このこともあって、それからはあまり旅行者らしくなく、
できれば中国人らしく見えるように、
――無理な話だが――、
カメラはウエストバックに入れ、中国人のようにシャツをズボンの上に出した。

まず北上して、安遠門(北門)へ向かった。
下見なので、写真を撮るにとどめて、西安駅、長楽門(東門)、興慶宮公園、栄寧門(南門)、碑林、鼓楼、清真大寺、角楼を廻った。

イメージ 5イメージ 6イメージ 7
       安遠門(北門)               西安駅               長楽門(東門)    
イメージ 8イメージ 9イメージ 10
       興慶宮公園              永寧門(南門)               碑林博物館

イメージ 11イメージ 12イメージ 17                       
         鼓楼                清真大寺                  角楼
*写真はいずれも1989年当時のもの

しばらく自転車で走り回っていると、なんだか中国人に溶け込んだようで、自分が日本人だということを意識しなくなっていた。

イメージ 13最後に、無事に明代のシルクロードの出発点安定門(西門)へたどり着いた。
安定門に再び上り、回ってきた場所やシルクロードの方向を指差しながら語り合った。
暗くなってきたので、少し時間的には早いが、自転車の返却場所へ向かってYさんの後をついて走り出した。
ここまでは、順調だったが、それから最大のピンチを迎えた。
                                             
                                                  安定門(西門)

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[シルクロード紀行]

はるかなる長安を求めて   

イメージ 1 2台分300元の保証金を手渡して、弾む心で自転車をこぎ始めた。
200メートルほど走るとすぐ城壁があり、そこには3つのアーチを持つ門が開かれている。
西安の城壁は、隋唐時代から1400年の歴史を持つが、現在の城壁は明代に築かれたものだ。
南北約2.6km、東西約4.2kmで、周囲13.7kmある。
(唐代の長安城はこれよりも大規模で、東西9.7km、南北8.2km)
壁の内部は、石灰、土などを練って固め、表面はレンガで覆われている。
高さは12m、兆部の幅は12〜14m、底部の幅はなんと15〜18mもある。 

 明代の城門は東西南北に4つであったが、清代に改修され、現在は15門ある。          そこをくぐって、ついに憧れの長安城内入りを果たした。

イメージ 2 イメージ 3
           北の城門(安遠門)                     西の城門(安定門)


 長い歴史の中に入り込んでゆくような感覚をおぼえた。
「はるかなり長安」……
 ――西安周辺には、遙か紀元前11世紀に西周の都城が築かれ、秦のあとを継いだ漢が興ると、長安と呼ばれるようになった。
 西周以来、10世紀まで実に12の王朝が1100年にわたって都をおいたのである。

 いろいろな有名な人たちが頭に浮かんでくる。
 秦の始皇帝、漢の武帝、唐の太宗、則天武后、玄宗、楊貴妃、杜甫、李白など歴史上の英傑や著名な人物の活躍の舞台となった地であり、日本の遣唐使や留学生が最新の政治制度や文化を学んだ国際都市でもあった。
 阿倍仲麻呂、空海、最長、吉備真備、円仁たちが、命がけで黄海や東シナ海を渡り、「国際都市」長安を目指した。
 私が二度目に訪れる1年近く前の2004年10月に、西安の郊外でひとつの墓碑が発見された。そこに「井真成」と言う名前と「日本」という国名が書かれていたことは記憶に新しい。

 また長安は、いわずと知れた、シルクロードの起点である。
 唐朝は、それまでの中国史上最大の領域を統治し、シルクロード諸国など周辺諸国の朝貢を受け世界帝国として君臨した。
 
イメージ 4


 首都長安は東西の人やものが行き交う世界最大の国際都市、100万都市であった。
 長安がシルクロードの起点と呼ばれるのは、理由あってのことだ。

イメージ 5 玄奘三蔵も、ここからインドへ旅立ったのである。
 長安は唐滅亡後、宋代には京兆(けいちょう)、元代には奉元(ほうげん)とよばれたが、明代以降、西安と呼ばれるようになった。
 城内は碁盤の目のように道路が走り、東西と南北の大通りの中心に鐘楼と鼓楼が建っていて、いまだに城郭都市の風情を残していた。
京都の街並みの碁盤の目は、長安をモデルにしたことはよく知られている。

私はこうした中に「はるかなる長安」を見つけようとしたのである。

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[シルクロード紀行]

自転車レンタル交渉 
   
前々回に続いて、1989年当時の西安のエピソード……。
ホテル(秦都酒店)で早めの夕食をしていると、Yさんというひとり旅の中年男性と隣り合わせた。
お互いに、ちょっぴり人恋しいひとり旅…、
 すっかり意気投合してしまった。
彼は自分の中国語が通じるかどうか試しに来たと言う。

夕食後、ほんの少しその辺の下調べをするつもりで、何も持たずにそのままホテルを出た。
すると偶然にも、玄関先でIさんとばったりと出会った。
「あっ! Yさんもお出かけですか?」
「いやー、Sさんじゃあないですか」と声を掛け合う。

どちらから誘うでもなく、二人で夜の街へ連れ立って、繰り出すことになった。 
いつもは単独で散策をしていたのだが…、彼の中国語は私にとっては心強い味方だ。
 
 ホテルを6時30分ごろ出発。
 まだ、日没の8時過ぎまでは2時間近くある。
 通りに出てみると、走っているのは、ほとんど自転車ばかりだ。
 それを見て、ふと自転車で走ってみたくなった。
「Yさん、自転車を借りませんか」と提案する。
「そりゃー、いいですね」とすぐに乗ってきた。
「僕は、中国語はダメですからお願いしますよ」と言うと、Yさんは
「ちょうどいい。通じるかどうかやってみましょう」
と言って、ホテルの服務員(従業員)になにやら話しかけた。
 
 服務員はうなずくと、ホテルの前に待機しているタクシーの前に我々を連れて行った。
Yさんは盛んに、タクシーではなく貸し出し自転車だ、と一生懸命に話すが、なかなか伝わらない。
やっと理解したと思ったら、案の定「貸し出し用の自転車はない」とのことだった。
当時の中国ではありえないことだろう。
 
 やむをえないので歩くことにした。
ホテルの前の大きな通り・環城西路を北へ向かうとすぐに、大慶路にぶつかった。
通りの両側にはたくさんの露店が軒を連ねていた。
料理の香り、魚の生臭さ、動物の臭い、スイカの食べかすの酸いた臭いなどがごちゃごチャに混じっ  て、心地よいそよ風に乗って襲ってくる。
 
 角を曲がるとすぐの一番端に、 露店のうどん屋があった。
木箱の上にたたみ一畳ほどの板を2枚乗せ、その上に、直径20センチほどの皿に盛ったうどんを50皿ほど並べ、1皿3角(約4円)で売っている。

 例によって「来来、好吃(いらっしゃい、いらっしゃい おいしいよ」と呼び声がかかるが、なにせ今食べてきたばかりで、お呼びではない。

 ふと、おやじの後ろ側を見ると、やや古めの自転車が置いてある。
隣の果物屋の脇にも自転車がある。
とっさにひらめいた。これを借りようと…。
 
 私はYさんにそれを指差して、「借りましょう」と提案した。
彼は「Sさん、いいところに目をつけましたね」と言うや否や、
さっそくYさんが交渉にかかる。
 
 自転車を貸すなどという概念がまったくない彼らには、
始めはまったく意味が理解できないようだったが、わかると手放しで喜んだ。
 手持ちの自転車でまさかお金が稼げるとは思わなかったのだろう。
 
 値段交渉に入った。
こちらは「1台、3時間、10元(140円)でどうだ? 」と持ちかけると、いやいや50元だという。
すったもんだの挙句、30元で交渉成立。
――ところが、この30元の解釈で返す時にもめることになる。

 次には、彼らは保証金を置いていけ、と切り出した。
至極当然のことだ。
そりゃー大事な自転車を持ち逃げされたんではかなわない。

 いくらだと訊くと、200元だという。
Yさんは妥協しそうになった。
「ちょっと待ってください、Yさん」
「200元は出しすぎですよ。新品の自転車が200から250元なんですから、そんなに出したら、彼らはこのままドロンですよ!」
と私が言うと、
「なるほどそうですね」と、Yさんも納得する。
「1台150元ではどうでしょう。それで逃げると、彼らも損しますよ。新品を買わなければならないので、逃げませんよ。100元だと持ち逃げされるかもしれなと思って、彼らも心配するでしょう」
「150元でどうだ?」と言うと、両手を握ってきた。
150元で交渉成立。

 (まさか中国で自転車に乗れるとは……)
意気揚々と夜の西安の街に漕ぎ出した。
ところがハプニングが続出する。
 明日に続く

.
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