高昌故城の遺跡はすっかり風化して奇妙な形をした土の塊と化している。哀歓をおぼえる光景だ。
タイトル右上の「すべて表示」をクリックすると以前の記事がご覧になれます。
コメントや傑作ポチもこちらからどうぞ 画面左の書庫の題目をクリックするとお好きな内容の記事をごらんになれます。 このブログは旅の流れに沿って連続しています
高昌故城
高昌故城は、トルファン市街から約40キロ、前の訪問地アスターナ古墳から端数キロだ。高昌故城が遠方に見え始める地点まで来ると、何箇所かで羊の放牧が見られた。生き生きとした緑とのんびりとした雰囲気に心が和んだ。自転車で20分ほどで到着した。
売店を通りアーチ型の門をくぐると、灼熱の太陽に照らされた赤土の広大な平地が広がっている。目にまぶしいほどの照り返しだ。その平地のあちこちに、さまざまな形の固い土の塊がごろごろと点在している。まるで、内捨てられた廃墟だ。
昔は、寺院、仏塔、宮殿、官庁、市場、作業場、住宅などが整然と配置されていたに違いない。
ロバ車が何台も待機している。客引きの子供たちが駆け寄ってきて盛んに誘う。あげくのはてには客の争奪戦だ。子供たちも必死だ。何せ生活がかかっている。
47度の炎天下をすべて歩くのは大変なので、写真を撮った女の子に誘われたロバ車に乗ることにした。
ロバ車の御者は子供だが日本人観光客が多いので日本語が分かる。ロバに「頑張れ、頑張れ」と言うとロバはスピードを上げる。ロバも日本語がわかると言う。
写真を撮るため途中でロバ車を降りる。ロバ車は普通は早足程度のスピードだが、「頑張れ、頑張れ」と言われると、走らないと追いついていけないほどのスピードになる。ロバは体は小さいがけっこう力がある。
ロバ車は遺跡の中央部までの往復だ。
私は自由に写真を撮りたいのでそこからは歩いて回った。
講堂
中心部には玄斐三蔵も説法をした講堂が残っている。雨がほとんど降らないので屋根はない。壁には小さな仏像を収めた凹みがある。玄斐三蔵は講堂の中央に立って説法し、大臣たちは周りに下座して話を聞いた。当時は僧が8000人いたという。
講堂
講堂内部
雨が降らないので講堂には屋根がない
寺院跡
講堂の近くには寺院の跡がある。
中心には仏像を収める仏龕がたくさん彫られている四角い塔がある(中央塔)。仏像が彫られていたり安置されていた形跡はあるが、仏像はヨーロッパの探検隊によってほとんど持ち去られてしまったとのことだ。仏塔も見られる。
城壁、宮殿跡、一般住居
城壁や宮殿跡は部分的に残っているが、一般の住居跡はほとんど残っていない。
手前の一般住居跡はほとんど残っていない。なぜだろうか?
日干しレンガを作るときに、強靭にするために、泥をこねる際に柳の枝や枯れ草などを混ぜることがある。いつの時代か、古い日干し煉瓦が、農作物の肥料になることがわかった。昔からトルファン盆地は、綿花などの栽培が盛んだった。農夫たちは、遺跡の古い日干し煉瓦を持ち出し、それを崩して我が家の田畑にまいたのである。現在は、遺跡の中のものはいっさい持ち出し禁止になっているが、禁止になるまでに持ち去られて、肥料になっていたはずである。
写真を撮りながら出口へ向かう途中、何人かの物売りの子供たちに付きまとわれた。何とかそれをかいくぐって出口にある売店まで来ると……、
風鈴のような薄っぺらい真鍮の鐘をいくつか手に持って鳴らしながら、厚い布で織った物入れ鞄を掛けたウイグルの女の子が、いかにもなれた日本語で、
「ゼンブデセンエン、お母さんの作ったの鞄、サービスで上げるよ。日本人ともだち」
といいながらまとわりつく。
「全部で千円?」
「人民元でもいいよ。見るだけ、見るだけ」
見るだけ、と言って手に取り、千円くらいなら、と貧しげな子供たちにほだされて金を払う観光客が、彼女たちの生活、いや、彼女たちの親や取り巻きの生活を支えている。
破壊され、略奪された美術品や文化遺産を見るのも哀しいが、
外国人の観光客に物と媚を売らなければならない子供たちの姿にも、そして憐れみや、無意識のうちに、買ってあげたという優位の気持を感じているかもしれない自分にも、物悲しさを感じてしまう。
[コラム] 高昌故城
トルファン市街から東に約45km、火焔山南麓にある高昌故城は、紀元前1世紀から14世紀の間、新彊における政治・経済・文化の中心地の一つであった。
高昌故城はほぼ正方形をなし、東西1600m、南北1500mにも及ぶ。王城・内城・外城と3部分に分かれ、居住区は北に、手工業区は南にあった。西南から東南にかけての一帯がとりわけ良く残っており、北部は破損が激しい。建物は日乾レンガによって築かれ、アーチ型の出入口が多い。日乾レンガは畑の用土や肥料として使われたため大部分は残りが悪い。
漢代には高昌壁が築かれたという記録がある。5世紀、蘭州出身の漢人、麹氏一族によって麹氏高昌国が成立し、以後640年に唐の太宗によって滅ぼされるまで、約140年間存続した。
9世紀末、唐が全面的に撤退した後、10世紀にはウイグル人の「高昌大王府」がおかれた。高昌故城はその後300年間ウイグル人の拠点として栄えたが、13世紀にチンギス・ハンの遠征軍に襲撃され、廃墟となってしまった。
|