東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

9灼熱のトルファン

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玄奘の旅を想う

 高昌国へ迎えられるまでの玄奘三蔵の旅の一端を、私の旅行と重ね合わせて想像してみました。

    
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  玄奘は苦心の末、玉門関を越え、莫賀延磧という大砂漠を横断した。来る日も来る日も砂漠の丘がはてしなく続く。

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  竜巻や砂嵐に遭遇して命を落としそうになったこともあるだろう。

 唐の領内では人目を忍んで夜行動したという。

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  何度も不気味な光景にであって恐怖を感じたに違いない。

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  一方では、毎夜すばらしい満天の星や月をを眺めて、一時の安らぎを得ていただろう。

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  時には高原に咲く草花に心癒されたに違いない。


 旅のあるとき、――私が目にしているこの光景を1400年前の玄奘も目にしたにちがいない。偉大な玄奘三蔵と同じ光景を共有しているのだ、という思いがわきあがった――。
 その瞬間、がたまらなく幸せを感じた。そして、深い感慨に沈んでいた。
 その後、折に触れて玄奘三蔵が私の前に現れるようになった。
 

 

三蔵法師と高昌国(その2)

 丁重な迎えを受けたことを、玄奘は仏縁であると感じた。そこで高昌国へ行くことにしたが、もちろん短期間滞在して、再びインドに向けて旅をするつもりであった。だが、高昌王の鞠文泰は玄奘にすっかりほれ込んでしまったのである。
 ――私は先王のお供をして隋に入朝し、隋帝(煬帝)にしたがって東西二京(洛陽と長安)や燕・代・ 晋・晋(河北省から山西省にかけて)の各地を回り、おおぜいの名僧と呼ばれる人物にも会いまし   たが心の中でこの人はと慕う気持を起こしたことはありません。それなのにあなたに対しては、心   身ともに歓喜し、手の舞い、足の踏むところを知らないのです。……

 どうしても、玄奘を行かせようとしない。高昌に引きとめようとしたのである。もしあくまでインドへ行こうとするのであれば、長安へ送還する、と脅迫までする始末だった。
 けれども玄奘は、仏法と衆生のために、インドへ行かなければならない。絶食して自分の意思
を貫こうとした。絶食は4日に及んだ。
 
 さすがの鞠文泰も、玄奘の意志の固いことを知り、この国に引き止めることをあきらめた。そのかわり、滞在を1ヶ月延期すること、インドから帰国する時に、3年間留まって供養を受けることなどを約束させた。

 玄奘は出発までに「仁王般若心経」を抗議した。
 大きなテントが張りめぐらされ、三百余人の席がしつらえられ、太妃以下、王および統帥大臣などが、そこで玄奘の抗議を聴いたのである。玄奘が法座に上るときには、王が身をかがめて跪き、踏み台になるという奉仕をした。

 玄奘が高昌国を発つにあたって、国王鞠文泰が送ったのは、黄金百両、銀銭三万、綾および絹など五百疋で、これはインドへの往復の二十年の旅費に当てるということであった。西域は寒さが厳しいので、面衣(頭巾やマスクのたぐいであろう)、手衣(手袋)、靴、靴下なども、国王が用意させた。
 法服30着、さらに馬30頭、人夫25人も国王の配慮であった。
 また、重臣を玄奘の一行につけ、西突厥王のところまで遅らせることにした。また、道中の24国の王に当てた紹介状と贈り物まで準備したのである。

 詳しく述べるときりがないので省略するが、高昌国は玄奘がインド滞在中に唐と不仲になり、唐によって滅ぼされてしまい、玄奘は約束を果たすことが出来なかった。

 長安に戻った玄奘三蔵は、大雁塔にこもって、持ち帰った経典の翻訳に生涯を捧げた。

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                             大雁塔


 
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 火焔山の麓に高昌故城が広がっている。7世紀のはじめ、インドへ出向く途中に立ち寄った三蔵法師玄奘がこの地の国王鞠文泰の歓待を受けた。帰路にも立ち寄ることを約してインドへ発ったが、玄奘がインドに滞在中に高昌国は唐に滅ぼされ、約束は果たされなくなった。

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三蔵法師と高昌国

 アスターナ古墳から自転車で10分ほど走ると高昌故城に到着した。
 風化が進んだ赤茶色の粘土の塊が、砂漠の強い光を浴びて、奇妙な形で横たわっている。長い歴史と厳しい風雪を物語っているが、不思議とうら悲しさが漂ってこない。どこまでも真っ青な明るい空と絶妙なコントラストをなしている。背後には火焔山の山肌の縦線が揺らいでいて、絵画的世界を創りあげている。

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 高昌故城は南北1.6km、東西1.7kmあり、3世紀から14世紀にかけて新疆東半の政治経済・文化の中心地で5万人が住んでいていた。

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 CGで再現された高昌国 (週刊シルクロード紀行3 トルファン より)

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 遺跡は約1.5キロ四方で、外城、内城、宮城の三層構造を成していたという。寺院、仏塔、宮殿、干潮、市場、作業場、一般住宅などが整然と配置されていたようだが、今日では風化が著しく、説明なしで我々素人が判別するのは困難な有様だ。


三蔵法師と高昌国

 三蔵法師がインドに行く途中、高昌という国に大歓迎されてしばらく引き止められ、出発する時には、王様からいろいろな親切を受けた、という話は、余りにも有名だ。
 「三蔵法師」が「玄奘三蔵」と言う正式名だと知ったのは中学1年生だった。
 その後読んだ歴史書や宗教の本の中にも玄奘三蔵と高昌国とのかかわり数多く出てきた。
 また、映画で「西遊記」で三蔵法師を演じた夏目雅子も印章深い。

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                        中国で購入した青少年向け『西遊記』

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                        三蔵法師を演じた女優夏目雅子

高昌国にしばらく滞在した玄奘三蔵


 若き僧玄奘は唐にあって仏教を学んだが、教義上の疑問が百余条もあった。おそらく釈尊の説かれた教義をしるす仏典が、まだ唐に全部伝わっていないからであろう。インドへ行けば、それらの仏典に接することが出来るし、唐の仏教信者のために、それを持ち帰ることも出来る。玄奘は自分のためだけでなく、唐の仏法のためにもインドへ行こうとした。そして、政府に対して出国の願書を提出したのである。
 けれども、唐の政府は、建国日も浅く、辺境の状況もはっきりせず、個人が外国へ出ることを許さないという方針であった。願書は却下された。

玄奘と同じ気持でいた僧侶たちも少なくなかった。出国願書は連名で出されたのだ。正式に却下されると、仲間たちはほとんどあきらめてしまった。一人玄奘だけはあきらめない。国禁をおかしてでもインド並行とした。仏法のためであれば、国禁を破ることも許される。
――玄奘は衆生救済をすべてに優先すると考えたのである。
 

イメージ 4 若き玄奘は、単身、長安を出て西へ向かった。たまたまその一帯に寄金が起こり、職を求めてさまよう人が多かった。それは彼の彼の蜜出国のための旅行を、カムフラージュしてくれることになったのである。苦心の末、玉門関を越え、莫賀延磧という大砂漠を横断した。それは上に飛ぶ鳥なく、下に獣もないという死の世界であった。しかも玄奘は途中で水をつめた皮袋を失ったのである。水もなく、食もなく、ただやせ馬を頼りに、艱難の旅を七日重ねて、やっと伊吾(いご)にたどり着いたのである。

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 伊吾の国は現在のハミ県である。そこに高昌国の使者がいた。その使者は高昌国に帰って、国王に唐の若き僧侶の話をした。国王鞠文泰は熱心な仏教信者だったのである。
 ――ぜひその唐僧をわが国にお迎えしたい。
 と、迎えを出した。 
 玄奘の計画では、伊吾から天山北路に出て、草原の道から中央アジア経由でインドに入ることになっていた。そのコースならば、高昌は通らないのである。
 だが駿馬数十頭をそろえての、丁重な迎えを受けたのでは、断るわけにもいかなくなった。インドへ行くには、天山北路だけでなく。天山南路からも山越えの道がある。玄奘は予定を変更して、高昌へ立ち寄ってから、天山南路経由でインドへ行くことにした。  (次回へ続く)

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高昌故城

玄奘三蔵も訪れた高昌国の王城

 バザールから東へ40キロ離れた高昌故城へ自転車で向かう。始めはオアシスのポプラ並木だが、すぐに火焔山飲みえるゴビ灘の砂漠の道だ。体力的には大丈夫だがとにかく熱い。
5分おきくらいに水を飲みながらひたすら自転車をこぐ。
[[attached(1,center)]] ポプラ並木で出会ったロバにのったおじさん。

さらに10分ほど走ると高昌故城に到着した。高昌故城は南北1.6km、東西1.7kmあり、3世紀から14世紀にかけて新疆東半の政治経済・文化の中心地で5万人が住んでいていた。

 ロバ車に乗りかえて中心部へ向かう。ロバ車の御者は子供だが日本人観光客が多いので日本語が分かる。ロバに「頑張れ、頑張れ」というとロバはスピードを上げる。ロバも日本語がわかると言っていた。

 写真を撮るため途中でロバ車を降りる。ロバ車は普通は早足程度のスピードだが、「頑張れ、頑張れ」と言われると走らないと追いついていけないほどのスピードになる。ロバは体は小さいが結構力がある。



中心部には玄斐三蔵が説法をした講堂が残っている。雨がほとんど降らないので屋根はない。壁には小さな仏像を収めた凹みがある。玄斐三蔵は講堂の中央に立って説法し、大臣たちは周りに下座して話を聞いた。当時は僧が8000人いたという。 

 
講堂               講堂の壁

 近くには仏塔の跡がある。中心には仏像を収めた凹みがたくさんある四角い塔があり、仏像の跡があるが、仏像はヨーロッパ人に持ち去られてしまった。

 
仏塔         仏像を収めた凹み


寺院址。高昌国は古代シルクロードの玄関口であり、火焔山近く、トルファンの南西40Kmに位置している。前漢時代には高昌壁といったような砦が築かれ、後代には政治・経済・文化面での中心となっていった。唐時代には、天竺取教途中に立ち寄った玄奘三蔵が国王麹文泰に請われて一ヶ月に渡る説法を行っている。国王ni仏教の信心が篤く、故城内にはいくつもの寺院址が見られる。遺跡は外城、内城、宮城の三つの部分から構成されており、城壁などがよく保存されている。


[コラム]  高昌故城
トルファン市街から東に約45km、火焔山南麓にある高昌故城は、紀元前1世紀から14世紀の間、新彊における政治・経済・文化の中心地の一つであった。
高昌故城はほぼ正方形をなし、東西1600m、南北1500mにも及ぶ。王城・内城・外城と3部分に分かれ、居住区は北に、手工業区は南にあった。西南から東南にかけての一帯がとりわけ良く残っており、北部は破損が激しい。建物は日乾レンガによって築かれ、アーチ型の出入口が多い。日乾レンガは畑の容土や肥料として使われたため大部分は残りが悪い。

漢代には高昌壁が築かれたという記録がある。5世紀、蘭州出身の漢人、麹氏一族によって麹氏高昌国が成立し、以後640年に唐の太宗によって滅ぼされるまで、約140年間存続した。

9世紀末、唐が全面的に撤退した後、10世紀にはウイグル人の「高昌大王府」がおかれた。高昌故城はその後300年間ウイグル人の拠点として栄えたが、13世紀にチンギス・ハンの遠征軍に襲撃され、廃墟となってしまった。
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アスターナ古墳

古墳近くまで行くと子供たちが、ゴム飛び遊びのようなことをやっていた。
「アスターナ古墳はどこ?」と聞くと、指さした先には土饅頭のような盛り上がりがあちこちに見える。

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 さらに自転車を走らせると、案内石碑があり、入場門に到着した。
 入口には、中国の神話上の神様 伏義と女禍の像が建っており、門も立派に整備されている。20元を払って入場。



 「アスターナ」は、ウイグル語で『首府』と言う意味であるが、ガイドは「安息」の意味もあるとも言っていた。

 273〜778年(晋から唐西州)にかけての墓地群で、主に高昌国の貴族や官僚、庶民のが埋葬され、500を超える。トルファン地区の最も重要な遺跡になっている。
 10㎢ほどの広さを持ち、その内2〜3㎢が開放されていて、3基が見学可能だった。

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                      入場門から墳墓入口まで長い通路が続く。

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                    入口の前にはモニュメントが立っている。


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 入口を入り、この石畳を歩いて墳墓へと向かう。

   
 墳墓は竪穴式のものも一部あるが、ほとんどは傾斜した墓道から地価の墓室へ入る形式だ。
 入口の横には説明版が設けられている。

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                     墳墓入口へ下りる階段

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                      説明板

墳墓の見学


 古墳の中は洞窟のようで、どの古墳も裸電球一つだけであり、採光に注意しているようだ。玄室は地下にあり、それぞれ美しい壁画が描かれていた。どれも比較的保存状態がよかった。

[216号墓]
 「四賢人屏風壁画」:四人の衣冠を着けた人物(四賢人)が描かれていて、この四人には漢字で名前が書いてあった。
 
 それぞれ「玉人」「金人」「石人」「木人」と名ずけられている。
 これらは、儒教の教義を絵解きしたもので、それぞれ特有の人格を表していて、(中央)
「玉人」は白い衣を着て、きわめて清廉高潔な人格を表し、
「金人」は、言を慎むべきことを意味している。
「石人」は石の如く寡黙で、物に動ぜず信念を変えないことを意味し、
「木人」は愚直なほどに正直な人格の持ち主であると言う。

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[215号墓]
 中国南部出身の金持ちの墓で、入り口の左右には副葬品を入れる耳室が造られている。墓の内部は4m四方ほどの大きさで、正面には南方の鳥や草が描かれた6つの壁画(が並んでたる。墓の主は故郷の風景を懐かしみながら亡くなったのだろう。

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[210号墓]
 ここはは庶民の墓で耳室はなく内部は狭くて壁画はない。ここには60代の男と40代の女のミイラが置かれている。夫婦のミイラが完全な姿のまま残っていた。その温和な表情をみて「幸せな夫婦」と直感した。
 夫婦のミイラが完全な姿のまま残っていた。その温和な表情をみて「幸せな夫婦」と直感した。

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アスターナ古墳からの出土品


 解放後の発掘によって、彩色泥俑・漆器・絹織物・文書・食料品などが出土し、当時のオアシス住民の生活・文化・風俗などを知る貴重な資料となっている。

 特に「トルファン文書」として知られる文書類は2700点にもおよび、トルファンのみならず、西域の政治・経済・軍事の諸制度から人々の生活ぶりを知る重要な手がかりを提供した。

 壁画や絹絵などは、中国中原の中心的文化が辺境の地に浸透していたことを物語っている。

 多数の文物はトルファン博物館あるいは新疆ウイグル自治区博物館に収蔵され展示されていて、その後拝観出来た。

    公開の写真はトルファン博物館より提供を受けた資料より転載して紹介します。

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アスターナ古墳と高昌故城へ向かって

 バザールから東へ40キロほどにあるアスターナ古墳と高昌故城へ自転車をこいで向かいます。

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シルクロードの要衝の地であったトルファンの郊外には、都城興亡の歴史を刻んだ遺跡が点在している。灼熱の乾燥地帯という風土から、遺跡や出土品の保存状態がよく、社会制度、宗教、生活様式など、当時の文化を知る貴重な史料となっている。


トルファンオアシス 〜陽気なウイグル人たち


 市街地を抜けて緑豊かなオアシスへと入ると、ポプラ並木を吹き抜ける風が、心地よく頬をくすぐる。
 道行くおじさんやロバ車の人たちが、「ヤフシムーシズ(こんにちは)どこへ行くんだい? 」とか、「どこから来たの?」などと声をかけてくる。

 この陽気で人懐っこさがウイグル人のよいところだ――好んで騒乱などを起こす人たちではないと、来るたびに感じる。
 呼びかけられるたびに自転車を泊めて立ち話になるので、中々進まない。これがひとり旅のよいところだ。

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砂漠の道へ  水が恋しい

 オアシスを抜けると、周辺は細かい小石が混じった砂地と草の生えていない茶色の山だ。それでも
 ところどころにブドウ畑があって、目を和ませてくれる。
 いくつか村を通り過ぎた。農家の家はみんな日干し煉瓦の家だ。
 村と村の間には次第にブドウ畑も見られなくなり、所々で羊で羊の放牧が見られるようになった。
 遠くにはずうっと火焔山が見え続けている。昨日は美やロマンの対象だったものが、
 今日は殺伐とした、おまけに坂道として自分を苦しめる存在として疎ましくさえ思えた。
 人間とは勝手なものだ。

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 やがて、未舗装の砂漠の道へ入った。
 前方には 小石の混じった砂漠が果てしなく続いている。
 だが、闘志も沸いてくる。
 わざわざこの道を選んだのだから――。

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砂漠に飲まれた水  あ〜水が恋しい

 砂にタイヤが取られて進みづらくなった。
 ここでとんでもない事故が出来してまった。
 片手運転で水を飲もうとしたら、ハンドルを取られて見事に転倒。
 そのとたんに2リットルの水が入ったペットボトルが手から離れて向こうまですっ飛んでしまった。
 四国歩き遍路の時、小まめ給水を心がけようと、ペットボトルを手に持ちながらちびちび飲んでいた習慣が裏目に出てしまったようだ。 
 あ〜あ! 中身の水はほとんど砂に飲まれてしまった。
 水といえば、予備として常時持っている500ミリリットルの水だけになってしまった。

 まだ、アスターナ古墳までは20数キロはある。
 このペース殿2時間以上はかかるだろう。 
 水が余り飲めないと思うと、暑さがよけいに感じる。50度はあるだろう。
 とにかく熱い。喉もがんがん乾く。日射病だけが心配だ。
 だが、汗はまったくかかない。 皮膚から直接蒸発していくからだ。
 喉は乾くが、水を大切にしなければならないので、がまんがまん。
 ひたすらペダルをふむ。

 大丈夫だと確信しているものの、
 ひょっとしてこの道が高昌故城への道でなかったらどうしよう、という不安がよぎる。
 1時間半以上も走っているが、一向に人にも会わないし、人家らしきものも見えない。
 かなり不安になってきた。
 片手運転なんかしなかったら…
 自分で選んでおきながら……まともに公道を走ればよかったかな〜
 などと、ついつい反省めいたことを考えてしまう。


あっ 人家だ! まさに地獄に仏 

 それから2時間近く走ると山道に差し掛かった。
 周りには緑がまったくないので、暑い中の坂道だ。
 もっとひどくなるなあ――。
 そう思いながら急カーブを曲がり終えるとると、突然道の下の方に数軒の家が見えた。
 思わず“助かった〜”と叫んでしまった。
 
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 今までは変哲もない風景として見てきた日干し煉瓦の家が、今はとてつもなく貴重に見える。
 水はもう100ミリを切っていた。まさに、地獄に仏だった。

 
 勇んで坂道を下って、一番手前の農らしき家の庭に入った。
 数少ないウイグル語の「ヤフシムーシズ(こんにちは)」と叫ぶと、
 女の子が二人出てきた。
 続いて女性が出てきた。
 この家の奥さんと子供だ。
 幸い中国語が話せる人だったので事情を話すと、家へ案内してくれた。
 家は思いのほか広くて、涼しかった。
 ぶどうをご馳走してくれ、カレーズから汲んできた水を提供してくれた。
 2.5リットル詰め込んだ。これで一安心。
 アスターナ古墳までは、あと数キロだと励ましてくれた。

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 お礼の気持に、子供たちに鉛筆を上げたらことのほか喜んでくれたのでこちらもうれしかった。



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  10分ほどでオアシスを通る舗装道路に出た。これで無事性生還か…とホット胸をなでおろした。このメリハリがなんとも愉しい。 さっそくロバ車に出会ったので、道を確認した。

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          それから10分ほどでアスターナ古墳が見えてきた。

 またまたひやひやしたが、終わってみれば、いい体験をした――
と、凝り性もなくほくそ笑んでいた。



 

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