12西域南道
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冠の中に隠された蚕と桑のお話ホータン王国(于窴国・ウテン国)にはもともと桑の木もなく蚕も育たなかったといわれています。 国王は東の国、唐朝に使者を出して教えを請いました。 しかし、東の国では養蚕や絹織物の技術を門外不出の秘伝としており、 関所をかためて往来の荷物を厳しく調べ、蚕や桑の種の国外流出を防いでいました。 そこで、于窴国王は東の国に婚姻を申し入れました。 姫君を迎える使者に命じて、姫君に、 「我が国には従来、桑も蚕もありませんので、是非とも種を持ちかえり、養蚕を発展させて、自分の手 で衣服を作りたく思います」 と言わせたのです。 姫君は迷った末に、ひそかに種を持ち込む決心をしました。 関所で荷物をすみずみまで調べられましたが、姫君の冠だけは調べられませんでした。 種は冠の中に隠されていたのです。 それ以来、于窴国には桑の木が生い茂り、養蚕や絹織物業が盛んになったといいます。 ホータンは養蚕と絹織物の中心地西域南路に位置するホータン地区は、新疆における養蚕と絹織物業の一中心地です。ここには自治区直属の養蚕研究所があるほか、 自治区最大の規模を持つホータン絹織物工場があり、織物の一部は輸出されています。 7世紀に通った玄奬三蔵は、 玄奬は、この地の産業について興味深い記録を残しています。 ――住民は「みな絹と絨毯を織ることに巧みである」と伝えているのです(『大唐西域記』)。 中国では絨毯のことを「地毯」と書きます。 もともと毯という言葉は、薄い敷物を意味するのです。 毯と同系統に「淡」という言葉があるのですが、さっさりした状態、色などが薄い状態を表します。 毯もあまり厚みのない獣毛製の敷物の意味なのですが、 この語のイメージは、厚みよりも「広がり」の方が強いようです。 白居易(白楽天)に「紅錦毯歌」という詩がありますが、 千数百年の昔から、絨毯はホータン・オアシスの代表的産品だったことがうかがえます。
その事情は現在でも変わっていません。
バザールや市街地の店で色とりどりの絹の布地や絨毯が売られています。 市内の四つ角クルバックから北西の街はずれに絹工場(和田絲綢工場)、 南東の街はずれに絨毯工場(和田地毯工場)と、 対照的な位置にある2つの工場が、今や「玉」を抜いて、現代ホータンの二大工場になっています。 絹工場(和田絲綢工場ほとんどが分が手作業で、いかにも人海戦術的な様子でしたが、逆に、手作業だからこそのよさがある――と考えると複雑な気持でした。 絨毯工場(和田地毯工場)写真でもお分かりのように、和田絲綢工場、和田地毯工場ともに、 まだ中学生くらいの年齢の少年や少女がたくさん働いていました。 シルクロード諸国では、中国ならず、中央アジア、イラン、トルコ、中東諸国でも子供たちが絨毯造り をしていました。 その技術は、とてもすばらしいものでした。 子供たちの1日の日当は、数十円だとのことでした。 この二つの工場を見ただけでも、現代中国の労働の問題点が浮かび上がってきます。 ただ、救いなのはいかにも陽気なウイグル人らしく、工場内が和やかな雰囲気だったことでした。 最後は、シルク工場のウイグル美人をどうぞ
[西域南道をゆく] 前回までの記事それぞれ下線付きの題目をクリックすると記事が開きます268 ミーラン遺跡2 ミーラン故城の手荒な歓迎 269 ミーラン遺跡3 故城を巡る 270 ミーラン遺跡4 吐蕃の城砦と古寺のヘレニズム文化 271 チャルクリク 272 チャルクリクの小学校とウイグルのこどもたち 273 一路チェルチェンへ 274 チェルチェン 〜ポプラ並木の郷愁〜 275 チェルチェン 〜バザールとチェス〜 276 チェルチェン故城とザーグンルーク古墳 277.楼蘭からホータンへ7 278 石油開発で発展するミンフォン 279 玄奘三蔵が見たホータン は仏教国…、今のホータンは? ホータン1 280マリカウト故城と玉売りの子供たち 〜ホータン2 281白玉河と「玉」の商人 ホータン3 282 ホータンの日曜バザールと絨毯工場 ホータン4 283ホータンとカシュガル1日千キロの大往復 284ポプラ並木とロバ車、郷愁を感じさせるオアシスの水田 カシュガルから再びホータンへ1 285刃物の街インギサル カシュガルから再びホータンへ2 286ヤルカンド カシュガルから再びホータンへ3 287ホータン周辺の仏教遺跡を訪ねて |
ホータン周辺の仏教遺跡を訪ねて現在は、すっかりイスラム化されたホータンホータンの街には仏教の面影を残すものはほとんど、――というより私の目ではまったく見かけなかった。 女性たちは、スカーフ姿だし、男性はイスラム帽だ。
ところどころにモスクがあり、そこで祈る人々の姿があった。
ウイグル女性は目を楽しませてくれますね〜 いにしえの仏教王国ホータン法顕(338?〜442?)『法顕伝』(5世紀始め)の中で、 ホータンでは国も人民も富み栄え、みな仏法を報じて家の前に小塔をたて、 華麗な寺院では僧侶数万人が大乗を学び、 王は高価な宝石を供養に使い、自分のために使うことが少ないと伝えている。 法顕は高齢ながら、63巻もの経典を漢訳した。⇒ 玄奘三蔵は『大唐西域記』で、 篤く仏法を尊んでおり、伽藍は百余箇所、僧徒は五千人、みな大乗の教えを学習している。 王ははなはだ武勇で、篤く仏法を信じ、自ら毘沙門天の後裔であるといっている。 これらの見学した5つの遺跡と、すでに訪れたチャリクリク、ミーランを横につなぐと、 失われた古代の西域南道が浮かび上がってくる。 それぞれ下線付きの題目をクリックすると記事が開きます 268 ミーラン遺跡2 ミーラン故城の手荒な歓迎 269 ミーラン遺跡3 故城を巡る 270 ミーラン遺跡4 吐蕃の城砦と古寺のヘレニズム文化 271 チャルクリク 272 チャルクリクの小学校とウイグルのこどもたち 273 一路チェルチェンへ 274 チェルチェン 〜ポプラ並木の郷愁〜 275 チェルチェン 〜バザールとチェス〜 276 チェルチェン故城とザーグンルーク古墳 277.楼蘭からホータンへ7 278 石油開発で発展するミンフォン 279 玄奘三蔵が見たホータン は仏教国…、今のホータンは? 280マリカウト故城と玉売りの子供たち 〜ホータン2 ホータン周辺のほとんどの遺跡は、都城址と仏塔、寺院址からなり、 仏菩薩や諸天の彫像、壁画、いた絵が多く発見された。 (上)の2枚の写真は、「週間シルクロード紀行5 西域南道ホータン」より 実際に遺跡を見学したり、本を開いてみると、 礼拝対象の多さ、その装飾の豪華さ、 図や像の主題となる説話、伝承の多さには驚かされた。 詳細は、後の記事で紹介します。
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ヤルカンドインギサル・ダムからしばらくは、どこまでもまっすぐな道路とそれに沿った電信柱と地平線が見えるだけの光景が続く。 一応舗装道路だが、 路面が波打ち、穴だらけなのでかなり揺れる。 舗装が切れるとさらに悲劇的だ。 そんな道を時速100キロ近くで突っ走る。 必死につかまっていないと、天井に頭をしこたまぶつけたり、ドアに打ち付けられたりしてしまう。 「この悪路も例の汚職道路なのでしょうね?」と私が言う。 ガイドは、「是 是(そう そう)」 とうなずく。 中国では役人たちが工事費のかなりの割合を着服するので、実際には費用の何割かしか使われないことが多い。 手抜き工事をするので、道路はすぐにデコボコになってしまう。 この点は、すでに 以前の記事でもふれた。 砂漠と小さなオアシスを繰り返しながら14:50にヤルカンドに到着した。 ヤルカンド莎車王陵ヤルカンドは、漢代にはオアシス都市国家である莎車国があった。その後、いろいろな変遷を経た。 到着後、まず莎車王陵へ向かった。 莎車王陵はヤルカンド・ハン国(1514-1680年)の王宮所在地である。 もともとの王宮は文化大革命で破壊され、1980年代に再建されたものである。 しかも、入場は出来なかった。 アマニ・シャーハンはヤルカンド・ハン国の2代目の王ラシート・ハンの妻で、 美しい歌声で知られ、音楽家であるとともに詩人でもあった。 また、16世紀の民族音楽を研究したことでも知られている。 アマニ・シャーハン墓と隣接して、ヤルカンド最大のモスク、51ものドーム屋根を持つ莎車阿孜那清真寺がある。 清めの洗い場には大勢の男が水場で口をゆすいだり、手を洗っていた。 イスラム教徒が礼拝の前に身を清めているのだ。(撮影は遠慮しました) ちょうど礼拝の時間で大勢の男が熱心に祈っていた。 イスラム教徒は1日5回30分ずつ祈ることになっているが、女性はモスクに入ることが出来ない。 カシュガルでも同様である。(後の記事で紹介します) たいていの人は、ロバ車や馬車に乗ってヤルカンドの街並みを見物する。 他の町で経験したが、ロバ車は人が歩く程度の速さで進むので周りの景色を良く見られる。 馬車や三輪タクシーもたまには見かける。 西域でも行くたびに、オート三輪やバイクが急速に増えている。 いずれは、車に変わるのだろう。 この町にも職人街があった。 カシュガルの職人街では鍛冶屋が少なくなっていたが、この街にはたくさんの鍛冶屋あって繁盛している。 バザール
土日のバザールは大繁盛だが、あいにくウィークデーなので店も人も比較的好かなかった。
まず目に入ってきたのが、店先に油で揚げた羊の頭がずらっと並んでいる光景だ。ウイグルの人びとは羊を大切にするので、羊をすべて食べてあげることが礼儀だと考えている。 ここのバザールでは店先を撮るよりも、子供たちにスポットを当てることにした。 ウイグル族の人たちは、大人も子供も写真を撮られることを喜ぶのでとても楽しい。 ホータン到着ヤルカンドからひたすらホータンまで向かい、19時30分にホータンに到着した。朝6時にホータンを出発し、1100キロ弱を正味13時間ほどで走ったことになる。 運転シュアさん、ガイドさん ありがとう! お疲れ様でした。 ウ〜ン、オレも疲れたな〜 [西域南道をゆく] 前回までの記事それぞれ下線付きの題目をクリックすると記事が開きます268 ミーラン遺跡2 ミーラン故城の手荒な歓迎 269 ミーラン遺跡3 故城を巡る 270 ミーラン遺跡4 吐蕃の城砦と古寺のヘレニズム文化 271 チャルクリク 272 チャルクリクの小学校とウイグルのこどもたち 273 一路チェルチェンへ 274 チェルチェン 〜ポプラ並木の郷愁〜 275 チェルチェン 〜バザールとチェス〜 276 チェルチェン故城とザーグンルーク古墳 277.楼蘭からホータンへ7 278 石油開発で発展するミンフォン 279 玄奘三蔵が見たホータン は仏教国…、今のホータンは? ホータン1 280マリカウト故城と玉売りの子供たち 〜ホータン2 281白玉河と「玉」の商人 ホータン3 282 ホータンの日曜バザールと絨毯工場 ホータン4 283ホータンとカシュガル1日千キロの大往復 284ポプラ並木とロバ車、郷愁を感じさせるオアシスの水田 カシュガルから再びホータンへ1 |
刃物の街インギサルカシュガルの街を出てから50分足らずで、刃物の街として知られるインギザルに到着した。小休止をかねて10分ほど停車してもらった。 店先には数え切れないほどきれいなナイフが並んでいる。 ナイフの柄にはきれいな模様が彫られていている。 図案といい、色彩といい、美しくて魅力的だ。 値段が手頃なので記念に買って帰りたいところだ。 一瞬心が動いたが、ぐっと我慢する。 図案といい、色彩といい、美しくて魅力的。 一瞬、心が動いたが、ぐっと我慢する。 西域に入ってから、ヒッチハイクしたトラックや、車が停車を命じられ、 警察官がなんだかんだと因縁をつけて、罰金と称してお金を請求してきた。 これまでは警察官の小遣い稼ぎの目的もあったが、近年は治安の悪化に伴い銃刀所持が厳しくなった。 だから、どうせ取り上げられるのが落ちなのである。、 ガイドから教わった「キャラキ アナス(いらない)」を連発しながら、半ば逃げ腰で見て回った。 それにつけても売り手は強引でなかなかしつこい。 その日はお客が少ないのでなおさらだった。 インギサルの町を出てまもなく、天山山脈ははるか西へ向かい、代わりに崑崙山脈が近づいてくる。 白く万年雪をいただく山が連なっている。 ひときわ目出つ高い山がある。 地図を見ながら、「あれは、コングール山(標高7719メートル)ではないですか?」とたずねると、 「その通りですと」ガイドは答えた。 富士山に似ていて秀麗な山だ。 インギサルから10分ちょっと走ると、水を満々と湛えてた湖のようなものが見えてきた。 これはインギサル・ダムといい、崑崙山脈から流れでる水をせき止めたものである。 年間降水量が数10mmmしかない乾燥地帯に豊富な水があるのは、崑崙山脈の雪解け水のお陰である。 ときどき、小さな竜巻を河見える。 これまで、なんども猛烈な砂嵐の中を突破したり、大きな竜巻を近くで見ているので、まったく動じない。 恐怖の竜巻と砂嵐 嘉峪関から楡林窟へ3←クリック まだ見ていない方は、是非ご覧ください。 ランドクルーザーは、90〜100キロの猛スピードで走り続けている。 次はまっしぐらにヤルカンドへ向かう。 [西域南道をゆく] 前回までの記事それぞれ下線付きの題目をクリックすると記事が開きます268 ミーラン遺跡2 ミーラン故城の手荒な歓迎 269 ミーラン遺跡3 故城を巡る 270 ミーラン遺跡4 吐蕃の城砦と古寺のヘレニズム文化 271 チャルクリク 272 チャルクリクの小学校とウイグルのこどもたち 273 一路チェルチェンへ 274 チェルチェン 〜ポプラ並木の郷愁〜 275 チェルチェン 〜バザールとチェス〜 276 チェルチェン故城とザーグンルーク古墳 277.楼蘭からホータンへ7 278 石油開発で発展するミンフォン 279 玄奘三蔵が見たホータン は仏教国…、今のホータンは? ホータン1 280マリカウト故城と玉売りの子供たち 〜ホータン2 281白玉河と「玉」の商人 ホータン3 282 ホータンの日曜バザールと絨毯工場 ホータン4 283ホータンとカシュガル1日千キロの大往復 284.ポプラ並木とロバ車、そして郷愁を感じさせるオアシスの水田 カシュガルから再びホータンへ1 |





