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後世に残していきたい素晴らしいメッセージです。
犠牲者を出さない方法を考え、発信することもやっていかなければ・・。3.11で亡くなった方々が浮かばれません。
それは、3.11の被災地に生きる私たち、一人一人の使命なのではないだろうかと思います。 震災から3年目になり、震災関連死は増え続けています。 地震大国の島国日本 いつ発生してもおかしくない、「南海トラフ地震」の被害想定は、 3・11の10倍です。
有識者会議は昨夏、先に死者32万3千人、全壊・焼失建物238万6千棟とする想定を公表しいます。 「首都直下型地震」は4年以内に70%の確率で起こるとされています。従来の想定を上回る震度7の揺れが東京を襲う可能性も指摘される中、地震による巨大津波の甚大な被害が、専門家の中では想定されています。
だから、「わがこと」として真剣に、3.11の教訓を思惟して欲しいのです。
震災の教訓を「わがこと」として捉え、多くの犠牲を出した痛み共にしながら防災、減災を考え直す必要があると強く感じます。
備えの意識は、災害をひとごとではなく「わがこと」として捉えることで養われると思います。
自然の猛威と人々の行動を知るため、被災現場を訪ね、証言を記録する。 これは、とても大事なことだと思うのです。 地震大国の島国日本の住民と一緒に地震、津波対策を考える。それが、「防災・減災」に繋がると思います。避難の手法などを示しながら、その行動を後押しする。
東北以外の地域にも警鐘を鳴らしたいのです。
下記に紹介します。 「教訓 5年後の私や家族へ 備えの手紙 5人のメッセージ。」は、被災者の生の声、手紙です。 是非、この生の声を「わがこと」として、考え、想像して見て欲しいと思います。
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※河北新報の記事から抜粋 教訓 5年後の私や家族へ 備えの手紙 5人のメッセージ。 河北新報 平成25年6月18日 あの日の怖い体験、悲しい思い出、胸を締め付けられるニュース。忘れたいことがある。でも、忘れてはいけないこともある。
東日本大震災は、将来の自然災害から身を守るために、大切な教訓を残した。河北新報社に寄せられた1500通を超える「備えの手紙」の中から、5人のメッセージを紹介します。全ては5年後の私、家族のために…。
◎逃げ道、確認しよう/石巻・佐々木恭花さん 石巻市鹿妻小4年の佐々木恭花さん(9)は震災で初めて、津波という言葉を知った。 あの日、一家は高台に避難した後、荷物を取りに自宅に戻った。車のそばにいた恭花さんの足元に水が流れてきた。家族とともに自宅2階に駆け上がり、屋根に上った。 家の周りが泥水に覆われたこと。海の方で家が燃えていたこと。とても不安だったことをはっきりと覚えている。同じ思いはしたくない。「逃げ道を確認する」「すぐに山や学校に逃げる」と手紙に記した。 http://www.kahoku.co.jp/img/news/201306/20130618t20_1.jpg ◎揺れたら机の下に/仙台・田中朝望さん 仙台市遠見塚小5年の田中朝望(あさみ)さん(10)は、震災発生当日、学校の玄関先で揺れに襲われた。低い姿勢で揺れが収まるのを待った。揺れる窓ガラスを見ていた。割れて落ちてきそうで心配だった。 自宅に帰っても余震が怖くて、家の中には入れなかった。その日の夜は車の中で過ごした。 震災を体験して、揺れたら机の下などに隠れて頭や体を守ることや、非常食や水の備蓄が大事だと感じた。教訓を描いたイラストを文章に添えて、未来の自分に宛てた。 ◎家具の転倒防ごう/仙台・小関キミ子さん 仙台市泉区の主婦小関キミ子さん(69)は1977年に自宅を新築し、翌年に宮城県沖地震を体験した。その後、家具の転倒防止に取り組んだほか、食料と水を蓄え、ラジオも用意した。 東日本大震災は、自宅で被災した。激しい揺れで食器類は落ちて割れたが、タンスやテレビは倒れなかった。水道、電気が止まる中で、備蓄品、ラジオは役に立った。 備えの大切さをあらためて感じた。いつ地震が起きてもいいように、日頃から防災用品などの再点検を心掛ける。 ◎近くの高台目指せ/宮城・南三陸 首藤とき江さん 宮城県南三陸町志津川の保護司首藤とき江さん(61)は夫と義父母、長男夫婦、次男、孫2人の9人暮らし。震災発生時は長男、孫2人と一緒に高台の自宅にいた。他の5人は仕事や通院などでバラバラだったが、避難して無事だった。 手紙では孫に、地震が起きたら自分の命を最優先に最も近い高台へ逃げるよう伝える。 10歳の時、チリ地震津波で家が全壊し、津波の怖さ、避難の大切さが身に染みた。震災の時、3歳と5歳だった孫にも覚えていてほしいと願う。 ◎それぞれ逃げてね/宮城・松島 佐々木彩葉ちゃん 宮城県松島町松島第一幼稚園の佐々木彩葉(いろは)ちゃん(6)は、震災発生当時、東松島市に住んでいた。揺れの後、家族と一緒に兄はっくん、姉ひいちゃんを迎えに行った学校で、津波に遭った。 持ち出した薬や財布は、学校に止めた車ごと流された。学校にはたくさん人がいた。水を飲みたかったけど我慢した。 家は津波で全壊。お気に入りのぬいぐるみは、どこかに行ってしまった。これからは家族一人一人が大切なものを持って、それぞれ高い所に逃げるようにしようと提案する。 参考記事山と土と樹を好きな漁師
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東日本大震災に遭遇して
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今日の記事では、東日本大震災で大きな被害をこうむった、岩手県大槌町で発行されている「大槌みらい新聞」を紹介します。
大槌みらい新聞について東北に大きな被害をもたらした東日本大震災。大槌町は津波により地域メディアも失いました。知られなければ、支援や人も少なくなり、忘れ去られてしまいます。
大槌みらい新聞は、復興への歩み、地域の出来事、人々の思いを記録し、発信することで復興を支えていきます。地域の枠を超え、世代を超え、つながっていく新たな地域メディアを目指します。
「苦しいこともあるだろさ 悲しいこともあるだろさ だけど僕らはくじけない」
人々から生まれる希望を照らす灯火として。未来のために大槌の今日を記録します。
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我が家の「震災の梅」もやっとつぼみがふくらみました。
昨年より10日以上遅いようです。
隣の柿の木には何時も来る山鳩のような鳥が来てとまっています。 この記事を書きながら思わず、2年前の震災後の春が気になりました。 3月22日にはこんなに見事に花を咲かせてくれたのです。
当時の日記を見ながら回想してみました―― 。
震災後の3月20日過ぎ、電気が通ったのでさっそくパソコンの前に座りました。
壊れていないかと…恐る恐るパソコンのスイッチを入れ、インターネットを開いたとき、真っ先に目に飛び込んできたのが大写しになった梅の花でした。 その時、心身ともに憔悴しきって、自分を失いかけていたわたしには、別世界のように思えました。
しばらく忘れていた自分を取り戻した感じがしました。 冷静に対処いるつもりでしたが、復旧に追われて心の余裕を失くしていたのですね〜、きっと .我が家の地震被害 その時、我が家の梅の木がどうなっているのだろうと、初めて思いが至り、庭を眺めてみました。
もうすぐ花が開きそうでした。 気付かなかったのですね〜 3日後の3月23日に見事な花を見せてくれました。 「震災の梅」と名づけました。 この時の我が家の梅の花が3枚目の写真です。 やがて、満開を迎え、いつも来てくれる鶯が忘れずにやってきてくれました。 うれしかったですね〜 昨年の13日にも、つぼみが膨らみかけたところでした。 今年は昨年よりもさらに10日くらい遅いようです。
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震災クイズにチャレンジしてみませんか?
被災することを他人事を思わず、日頃の防災意識を高めませんか?
その第一歩として震災で起こった真実を知っておくこともとても重要だと思います。
被災者でありながら震災地で起こっている事実を追求しているある講演家が、
初歩的な震災クイズ を設問しました。
このクイズに取り組んで、
震災を忘れないように、
そして防災意識を高めて欲しいと思っております。
※下の画像あるいはURLをクリックするとクイズのサイトに飛びます。
http://stat.ameba.jp/user_images/20130215/11/successboss/99/67/j/o0400024712420331386.jpg http://www.e-kahoku.com/quiz.html いつも応援のクリックありがとうございます。
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津波で犠牲になった姉にささげる
箱根駅伝区間賞 青学大・高橋選手
箱根駅伝が大好きだった天国の姉に贈る快走だった。 3日、東京箱根間往復大学駅伝の8区で区間賞を獲得した青山学院大の高橋宗司選手(19)=宮城・利府高出=の実家は、わたしと同じ宮城県東松島市です。
彼は東日本大震災で姉の沙織さん=当時(22)=を失いました。
大学の寮に入った直後、宮城県東松島市の実家が津波にのまれ、姉が犠牲になりました
陸上を始めたきっかけには、800メートルで活躍していた沙織さんの影響がありまし。中学1年のとき、スポーツテストの1500メートルで学年1位になった高橋選手は、両親から「お姉ちゃんも速い。あんたも速いよ」と励まされ、走り始めたとのことです。
震災の約2カ月前、早大が制した前々回の箱根駅伝を2人でテレビで観戦し、「駅伝っていいよね」と語り合い、そのときに「箱根を走る」と決意し、宗司選手が大学に進むときは大喜びだったといいます。
しかし、1年生だった前回はメンバーから漏れ、昨夏帰省した際に墓前で「次は絶対に出るから」と誓ったそうです。その誓いを現実のものとしたのです。
私は若かりし頃陸上選手だったし、ジョギング愛好者でもあるので、箱根駅伝は大のファン。3日のテレビ放送に釘付けになっていました。
高橋選手がタスキを受ける姿が映し出された時、「お姉ちゃんのためにも頑張れよ」と、思わず肩に力が入り、胸が熱くなりました。
彼がタスキを受けたのは9位だったので、残念ながらあまり映し出されることはなかったのですが、たまに映し出されたときの彼の顔には強い意志が感じられ、しっかりと前を見据えていました。だから、「これは絶対に実力以上の結果を出してくれるぞ」と確信しました。結果を楽しみにしていたところ、予想以上の朗報でした。聞いた瞬間、目頭が熱くなり、込み上げてしまいました。 インタビューでは「とにかく前を目指して走りました。区間賞は信じられません」と声を弾ませていました。しかし、彼は満足の様子は見せなませんでした。母校青学大が総合8位に終わったからです。「勢いをつけられなませんでした。来年は勝とうと思います」と力を込めていました。
新たな目標に向かって前進する彼に、被災地の人々も勇気と力をもらったことでしょう。 1月4日の河北新報には、
―― 沙織さんの遺影を手に観戦した母の千賀子さん(51)は「走っている姿を見せられてよかった」と目を潤ませた。東松島市の震災復興本部に勤務する父の宗也さん(51)は「やつの走りに負けず、前に進みたい」と復興への思いを新たにした。
と記述されていました。
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