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東日本大震災に遭遇して
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東日本大震災の仮設居住者が語る現状の声
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一人の若者の決断は必ず
3.11被災者を、励ましてくれるでしょう \(^o^)/
岩手・花巻東高の大谷翔平投手が、米大リーグへの挑戦を表明しました。
初志を貫き通そうという18歳の若武者の決断に、すがすがしさを感じます。
日本のプロ野球を経ないで、いきなり高校生が米球界入りを目指すのは初めてのことです。 大舞台への憧れが、両親など周囲の反対を押し切った格好の決断です。
なにか、被災者たちを励ましてるような感じを受けます。 なんだか・・・。この大きな決断からして、大物の感じがしますね。 まだまだ荒いコントロールで、未完成の大器といえます。 夏の甲子園に出られなかったので、知らない人も多いと思いますが…。
ものすごい、選手がいたのです。
193センチの長身から繰り出す伸びのある直球が魅力です。
今夏の岩手県大会では高校生初の160キロ以上を記録した。多彩な変化球を生かした投球センスもまた、素晴らしいですね。
あの、巨体からのストレート―― ホントに速いのです。
しばしば、同校の先輩の菊池雄星投手と比較されてきた大谷投手。 雄星投手は鳴り物入りで西武に入団しながら、伸び悩んでいる状況ですが、まだ若いこれかに期待したいですね。
大リーグ志望を断念せざるを得なかった、菊池投手の思いも背負っての挑戦なのでしょうか…。
第31代米大統領のハーバート・フーバーはこう言いいました。「ベースボールは他のどんな制度よりも、アメリカ人の生活に大きな影響を与えてきた」と。
海を渡った日本人選手の多くが「ベースボール」を知る難しさを痛感してきたと思います。
さて、大谷投手の挑戦。
それは才能の海外流出ではなく、雄飛と受け止めたいものです。
舞台はアメリカンドリームの代名詞でもあるメジャーの球場。
被災者の希望を乗せて、剛速球がうなる日が必ずあると信じています。
下半身を中心にまず身体をしっかり改造して、安定感のある投手になっていく事を期待してやみませんね。 岩手県・花巻市の「宮沢賢治先生」との縁のある、岩手高村光太郎さん。
わたしの大好きな詩『道程』の一節が浮びます。
[僕の前に道はない/されど、僕の後ろに道は出来る」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大谷が大リーグ挑戦を表明 高校有望選手で初岩手日報 2012/10/22 日米両球界が獲得に関心を寄せる花巻東高の大谷翔平投手(3年)は21日、花巻市内の同校で記者会見を行い、「米国でプレーさせていただきたい。(メジャーリーグは)高校入学当初からの夢。厳しい環境の中で自分を磨きたい」と米大リーグへの挑戦を表明した。25日のドラフト会議で1位指名が確実視される高校生選手が、指名前に進路を米球界と宣言したケースはこれまでに例がなく、最速160キロ右腕の決断が注目されていた。
大谷投手は父徹さん(50)とともに午後5時から会見し「日本のプロ野球も小さいころから見てきたが、自分の中ではずっとメジャーへの思いが強かった」と決断理由を説明。「ここ1カ月近くずっと悩んできた。自分の意見と、周りの意見の食い違いもあったが、最後は自分の思いで決めた」と、晴れやかな表情で語った。
大谷投手には現在、ドジャース、レンジャーズ、レッドソックス、ヤンキースの4球団が獲得意思を伝えており、ドラフト終了後に各球団と面談し契約交渉を行う。
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園児ら屋根上で一夜 東日本大震災で、宮城県石巻市の石巻みづほ第二幼稚園では、園長の決断で園児11人と教職員ら13人が園舎屋根上に避難、寒い夜を明かして救助されました。園長は津田広明さん(当時71)。
津田さんは2000年3月工業高校校長を定年退職した後、亀山学園が経営する2つの幼稚園の園長を務めてきました。JR仙石線の石巻駅から仙台方面に2つ目、蛇田駅に近い石巻みづほ幼稚園と石巻湾の工業港に近い石巻みづほ第二幼園です。
津田さん自身の話と、テレビや新聞報道をまとめて紹介します。
津田さんは、二つの幼稚園には午前と午後に分けて勤務してきました。3月11日は午前中、みづほ幼稚園に勤務し、昼からは車で第二幼稚園に移っていました。
第二幼稚園では3月11日、午後1時半ごろから160人近い園児たちのバス帰宅が始まりました。2時すぎ、園には預かり保育の30人近くと津田さんら教職員12人がいました。その後、園児の引き取りが続き、園児は13人になりました。 9メートルの波が来たら…そして午後2時46分、大地震が起きました。津田さんは13人の園児を鉄筋2階建て園舎の2階に集めました。外からは防災行政無線が断片的に外から聞こえてきます。「鮎川」「9メートル」という言葉が飛び込んできました。同じ石巻市内とはいえ、鮎川がある牡鹿半島と石巻工業港とはかなり離れています(私は鮎川の避難所に5日間お世話になりました)。 目の前の港を見る限り、海の水が引いている様子はありません。ただ、津田さんは胸騒ぎを感じました。「9メートル」の言葉が引っ掛かったからです。高さ9メートルの津波が押し寄せたら園舎2階以上まで達することになります。
窓から目をやると、普段でも交通量の多い周囲の道路はすでに避難しようとする車で大渋滞となっていました。近くには高い建物もありません。津田さんは職員に「脚立を用意しておくように」と指示しました。二つ折りで使う脚立を真っすぐに開けば3メートルを超します。2階の窓から棟続きのボイラー室の屋根に出て、そこから脚立をはしご代わりに使えば園舎屋根まで園児たちを避難させることができるはずです。「屋根の上に逃げよう」。決断した時、津田さんは、「もう命をかけるしかない」と思ったそうです。
脚立で屋根へ 「津波が来たっ」。女の先生の上ずった声が聞こえました。3時50分ごろでした。海の方に目をやると、濁流が滝のように流れこんでくるのが見えました。おそらく下の写真のような状態だったともいます。
この時点で園児の人数は11人。さらに2人が迎えに来た親と帰ったからです。大人は13人。教職員12人と園児を迎えに来て逃げ遅れた父親が1人いました。
「屋根の上に逃げるぞ」。津田さんの指示で、2階の窓が開けられました。廊下に並べられた机を踏み台にして、園児、職員がボイラー室の屋根に出ました。大人13人のうち男性は4人。2人が脚立で園舎屋根へ。上と下で脚立を押さえていなければなりません。津田さんと父親が下に残りました。ズボンをつかまれた園児たちが次々に押し上げられました。途中から女の先生たちも上がり、屋根の上で園児たちを抱きかかえました。脚立はほぼ直角。屋根に上がり切る途中では園児の力だけが頼りになります。
「怖がって泣き出し、脚立の上で動けなくなった子をせき立てながら、なんとか全員が上りました。下で脚立を支えていた私の足元まで水が来ていました。波は2階まで到達し、周囲が黒い濁流にのまれたのを見て『この世の地獄だ』と思いました」。
屋根の上からは濁流が一面に広がっているのが見えました。「大丈夫だ」「心配しなくていい」。津田さんは園児たちを励ましながらも、これ以上高い波がきたらどうなるのか、気が気でありませんでした。
午後7時ごろ。水が引き始めました。とりあえず、危機は脱したようです。全員が2階に戻りました。2階には瓦礫が流れ込み、床は泥だらけでした。
津田さんは「もし屋根の上に逃げていなかったら…と思うとぞっとしました」と言う。壁には高さ1.5メートル付近まで津波が押し寄せた跡が残されていたのです。
「携帯電話の明かりを頼りに泥だらけのステージに体育マットやカーテンを敷いて座りました」
雪の夜を耐える 防災無線の放送は聞こえなくなっていました。設備が水に浸かり、作動しなくなったのかも知れません。津田さんには携帯ラジオを1階の机の引き出しに置き忘れたのが悔やまれました。携帯電話が通じた職員から「第2波が来るかもしれません」という声が上がりました。園児11人と大人13人は再び脚立を使い屋根に上りました。
http://www.meijo-u.ac.jp/sinsai/imgs/kizuna6_1.jpg
津田さんが携帯電話のカメラで撮影した園舎の屋根で身を寄せ合う園児と教職員(3月11日午後4時16分) 雪が舞う寒い夜でした。帰り仕度をしていた園児たちは防寒着を身につけていて、津田さんもたまたま車からヤッケと正ちゃん帽(毛糸の帽子)を持ち出していました。しかし、大半の教職員たち防寒着なし。三角屋根の上で園児たちを抱き寄せながら肩を寄せ合い、体操用マットで風を防ぎ続けました。 日付が変わった12日午前2時すぎ、「これ以上の高い波はこないだろう」という津田さんの判断で、全員2階に戻りました。しかし、夜が明けても園の周辺から水は引きませんでした。午前9時ごろ、海上保安庁の救助隊員が乗ったゴムボート2隻が到着。救出が始まりました。こうして全員が工業港から救命艇に乗り換え、海上自衛隊の護衛艦「たかなみ」に収容されました。
我が子を必死に探す毛布の女性
亀山学園の2幼稚園では、帰宅していた8人の園児が命を奪われました。7人は港に近い第二幼稚園の園児でした。親も両園で4人、職員の親1人も亡くなりました。
第二幼稚園に残った園児と教職員ら計24人は3月12日、「たかなみ」に泊まりました。園児たちはさらにもう一晩過ごしてから石巻専修大学にヘリコプターで運ばれました。園児たちと親たちが再会を果たしたのは震災から3日後の14日でした。 3月13日朝、第二幼稚園近くの瓦礫の中で、毛布に身を包みながら、放心状態で長男の第二幼稚園児、頼音(らいと)ちゃん(5)の行方を捜す杉本優子さん(28)の姿がありました。杉本さんは、頼音ちゃんたち園児11人が幼稚園の屋根に逃れ、翌朝救助され、自衛隊の護衛艦上に保護されていたことを知りませんでした。被災した人たちの表情を追っていた読売新聞の記者が杉本さんをカメラに収めていました。3月20日の写真特集面で紹介された杉本さんの写真の下には「言葉もない-----がれきの中、水没した街を見つる女性」という説明記事が添えられています。
抱きしめた我が子 杉本さんが、どんな思いで頼音ちゃんを捜していたのか。頼音ちゃんと奇跡の再会を果たした時の喜びの様子を、4月15日の読売新聞は「毛布の女性 笑顔戻る」という記事で紹介していました。(記事は抜粋)
3月13日朝。杉本優子さん(28)は凍てつく寒さの中、毛布をまとい、水没した宮城県石巻市の街を見つめていた。目線の先には長男、頼音(らいと)君(5)が通う石巻みづほ第二幼稚園。津波にのまれ、連絡が途絶えていた。
あの日、隣町の仕事先で強い揺れに襲われた優子さんは車で幼稚園に直行したが、道路は寸断され近づくこともできない。翌12日、夫の晴典さん(36)と水没地区に入り我が子を捜した。「園児は救出された」という情報がある一方、「園児が流されるのを見た」という話も聞かされ、胸が引き裂かれそうだった。 震災から3日後。優子さんは園児が石巻専修大にいるという知らせを聞いた。同大に駆けつけ、頼音君を見つけた。ぎゅっと抱きしめた。懐かしい匂い、声、手足。「よかったね」。涙があふれ、それ以上言葉は出ない。 翌朝救助
園舎内で見つけた乾パンや水を園児に与えて夜を越し、翌朝、海上保安庁や自衛隊に救助された
3月12日 救援される園児たち(津田さん提供) 「園内にいた子どもは全員無事でしたが、7人の園児が園外で亡くなりました。幼稚園の時間内で、160人の子どもが集まっていたら、とても助からなかったでしょう。幼稚園では、歩いて逃げることはまず考えられない。園舎の建設場所を選ぶ段階から、園舎自体の安全性を確保できる態勢を整えておくことが重要だと思います」
と津田さんは語っていました。
津田さんの伊勢湾台風体験 津田さんは大学時代に伊勢湾台風を経験しています。入学した年の1959年9月26日、東海地方を襲った伊勢湾台風は死者・行方不明者が5000人を超すという大きな傷跡を残し、1995年の阪神淡路大震災が起きるまで、戦後の自然災害での犠牲者数では最多でした。 伊勢湾台風での最大風速は60メートルと言われています。津田さんは、当時住んでいた清洲町(現在は清須市)のアパートで、瓦屋根が強風で吹き飛ばされ、救援にかけつけた消防団に救出されるという体験をしました。自室の2階の部屋中に割れた窓ガラスが散らばり、風を防ごうと、入居者6人で畳を窓に立てようとしましたが、あっと言う間に吹き飛ばされました。
天井がグワッと持ち上がる瞬間、周囲にあったものが浮き上がる真空状態も体験しました。天井が浮くたびに飛び込んでくる隣の家の瓦。救助を求めた消防団員が持参したロープを頼りに、必死の思いで避難所となった清洲小学校に避難しました。自然災害の猛威に対する恐怖をいやというほど体験しました。この年の5月、石巻市など三陸沿岸はチリ地震津波にも見舞われています。歴史に残る大きな自然災害が津田さんの身近なところで2度も起きていたのです。 絆ひき裂く自然災害の恐ろしさ 津田さんは伊勢湾台風が過ぎ去った後、1週間、勤労奉仕に没頭しました。ボランティア活動です。勤労奉仕現場として送り込まれたのは現在の名城大学天白キャンパスに近い八事の火葬場でした。5段、6段と積まれている台風での犠牲者の遺体の入った棺を、火葬炉に入れていく作業。つらい作業が朝から晩まで続きました。
尊い命を一瞬にして奪い、愛する者同士のかけがいのない絆を一瞬にしてひき裂いてしまう自然災害の底知れぬ恐ろしさ。東日本大震災で、津田さんの脳裏をよぎった伊勢湾台風の恐怖。園児たちを救った津田さんの決断には、こうした伊勢湾台風での生々しい体験があったからにちがいないと思いました。 この写真を見て、「津田さんは本当に子どもたちが好きなんだな〜」とすごく感じました。その愛情が子供たちを救ったのだと確信しました。
津田さんは温厚で優しく、包容量力のある人で、一方では決断力やリーダーシップがあり、私は大いに尊敬する人です。
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園舎の屋根に避難して助かった園児たち
2011年3月11日の東日本大震災の津波の際に、石巻みずほ第2幼稚園の子どもたち11名と教師たち13名は幼稚園の屋根に避難しました。沿岸警備隊がみんなを救助するまで、子どもたちと教師は次の朝まで夜を徹して19時間待ちました。
![]() (石巻市みずほ幼稚園長津田広明氏が携帯電話で撮影しました)
津波から園児を守った園舎解体 感謝の垂れ幕下ろす
東日本大震災の津波にのまれたものの、園児、職員ら24人が屋根の上に避難して助かった、宮城県石巻市の石巻みづほ第二幼稚園の園舎が取り壊されることになりました。9日、1年3か月正面に掲げていた「ありがとう 前へ」の垂れ幕が取り外されました。
夕方、集まった6人の先生たちは、園舎に、「18年間、お疲れ様でした」と言いながら深々と一礼し、手すりに結んだ垂れ幕のひもをはずしました。 垂れ幕はシーツとふとんカバーを縫い合わせたもので、虹とひまわりの絵が描かれています。震災の4カ月後、支援の人々と、子どもたちを守った園舎に感謝を込めて、先生たちがつくったものです。
震災後の園舎
私は震災後石巻に何度も来ていますが、園長が高校および仕事上の先輩でもあり、親しい間柄でもあったので心にかかり、ここを時々訪れていました。
送迎バスが園舎に突っ込んでいた(2011.4.月)
「ありがとう前へ」の幕が下がっていました(2011.7月)
とてもわびしく見えました。(2011.12月)
雪原の中に雄々しく建つ
あの屋根が子供たちを救ったのか…と改めて感慨を深くしました。
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