はてしなく続く大草原。三方は空の青と草の緑の2色の世界だ。
南には祁連山脈の白い峰々がくっきりと見える。 ここは海抜二千メートルを越える。薄紫の蓮華の絨毯が一面に敷き詰められている。 ここに2万頭の軍馬が養育されている。 5世紀の魏の時代の史書には、 「河西水草美しく、放牧の基地となす。畜産滋息し、馬二百余万匹にいたる」 と記されている。 そして6世紀、この牧場の馬の数は10万頭にも及んだといわれている。 当時、軍馬は今でいうならば、戦車1台にも匹敵する位置にあり、 時の権力者は、漢の武帝以後も馬の繁殖だけでなく、馬種の改良にも力を入れたのである。 そして「胡種を雑ふれば馬益々壮んなり」(『新唐書』兵士)の伝統は、今でも続いている。 現在は、まず、体は小さいが登坂力、耐久力のある蒙古馬と、 馬体の大きいハザクの馬とがかけ合わされる。 その間に出来た馬に再び蒙古馬がかけ合わされて、 現代の天馬ともいうべき山丹馬が生み出されている。もちろん人工授精である。 しかし、ミサイルの時代に軍馬は必要なのだろうか。ゲリラ戦や山岳戦用なのだろうか。 私のこの疑問に、牧場の幹部は笑って答えた。 「軍馬として養成しますが、平和が続く現在、その多くは各部隊が駐屯する農村に送り込まれ、優秀な農耕馬として働きます」 戦争という二文字は彼の口からは出なかった。
調教師がこの馬に乗って先頭に立ち、他の馬はこれに付き従って集団で走る。実にみごとというほかはない。
北海道の牧場でもこうした訓練を観たことはあるが、こちらは馬の数が桁違いに多い。 多いときには数百頭が同時に走っている。 この牧場では馬に混じって牛も放牧されている。
食糧にでもするのだろうか。それとも、農耕用なのだろうか? 夕暮れが近づく訓練場で想いにふける。
軍馬として調教された駿馬たちも、この牧場を出ると、もうここにいるときのように原野を駆けることはないだろう。
2千年の血統をになう駿馬にとっては、ここにいて訓練を受けているときこそが、晴れ舞台なのかもしれない。 夕日に向かって走る馬。その燃えるようなたてがみ、丘を駆け下って来る馬軍、そのしなやかな脚―― この幻想的な光景はわすれられないものとなるだろう。
そんな思いのする山丹軍馬場であった。 やがて夕暮れが近づいたので、その日の宿泊場所である。牧場の宿泊施設へ入った。
22日目も実に充実した1日であった。
朝にバスで武威から山丹長城へ向かい、さらに山丹牧場まで足を延ばした。
簡単な食事のあと、武威で買い入れてきたビールを飲むと急に眠気を覚え、バタンキューと深い眠りについた。
本日のシルクロード美人
祁連草原の村にて
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シルクロード2万キロ一人旅
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蘭州 少数民族コンテストにて
山丹牧場付近の村のむすめさん
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まるで天国のモザイク芸術
調査団の方々はここでの調査を終えて、長城沿いに東へ向かうという。わたしはもちろん西へ向かうのである。旅は一期一会が常とは言いながら、別れがちょっと辛い。なんとなくぐずぐずしていると、団長さんが「次はどちらへ行かれますか?」と声をかけてきた。
「とりあえず張掖まで行って、そこから祁連山や焉支山方面へ行くつもりです。ただ、人が集まらないと観光バスが走らないと聞いていますので、不安です」
と答えると、
「自分の弟が山丹軍馬場近くに住んでいるので、トラックでもよかったら案内させましょう」
「今日は弟の家に泊まってください」と、まことにありがたい申し出をしてくれた。 遠慮して表向き断ったりすると、日本社会とは異なり、かえって礼を欠くので、ありがたくお受けした。 <うわ〜、よかった>と思わず日本語で叫ぶと、日本人隊員は本当に良かったですねと、自分のことのように喜んでくれた。 厚くお礼を述べたのは言うまでもない。
私はその辺をうろうろしながら弟さんを待った。
弟さんの到着までちょっと祁連山と焉支山を紹介します。
―― 祁連草原では漢と匈奴との間で幾度となく激しい戦闘が繰り返されていた。
祁連山は水豊かにして緑濃い理想の放牧地であった。 その一角の焉支山は、ほお紅を作るベニバナの生えている場でもあった。 匈奴はこの地をこよなく愛していた。 祁連山を「天の山」と呼んで崇めていた。 私は、匈奴の愛したこの二つの山のふもとまでぜひ行きたいと、以前から強く願っていた。
前回の旅はひとり旅でなかったので、割愛せざるを得なかった。 今回はこそは必ず行こうと決めていた。 弟のTさんが1時間ほどのちに山丹長城まで迎に来てくれてた。 そして[天馬の故郷]といわれる祁連山脈のふもとへ出発した。
河西回廊を10キロほど西へ走ってから左折して、地元民だけが走るという未舗装道路へ入った。 トラックはもうもうと砂塵を巻き上げて走る。
砂は締め切ったトラックの中にも容赦なく入り込んできた。 私はあわててカメラをバッグにしまいこんだ。このシルクロード旅行では砂はカメラの大敵である。砂煙の中を走るときや、風が吹いているときには、3台のカメラのうち、小型のデジカメをラップで包んで撮影している。 使い捨てカメラで撮影することもある。 マスクごときではあまり効果がないことは経験済みだが、まあ無いよりはましだろう。 防塵マスクが必要だ、と言ったほうがよいだろう。 おまけに体が前後左右にもてあそばれ、頭を天井に何度もぶつけた。 産みの苦しみだと言い聞かせながら、耐えに耐えていた。 砂埃の道を1時間ほど走り、砂漠の山を越えた。 すると世界が一変した。一瞬息を呑んだ。 そこにはかつて見たことのない風景が遙か彼方まで広がっていた。 カラフルなモザイク芸術の世界だ。 慌ててトラックを止めてもらって、本格撮影に入った。
これが匈奴がこよなく愛した祁連の大草原か……と、長いこと見惚れた。 見渡す限り黄色と緑と赤の絨毯が鮮やかに織りなされていた。 天国の丘を見るようだった。彼らはここを「天の山」と呼んで崇めた――
その気持よくわかるな〜
まるで地獄から急に天国へ入り込んだかのような感覚をおぼえた。 黄色い菜の花と濃い緑の麦畑、そして耕された鮮やかな赤土がモザイク芸術の世界を創りあげていた。 そこにはすがすがしい風が吹き渡り、川辺も高山も緑に満ち、菜の花の香りが漂っている。 真っ青な空にはこれ見よがしに、筋のような雲が鋭い広がりを見せていた。 ところどころに日干しレンガの家もみえる。これもひとつのポイントになっている。
お世話してくれたTさん(氏名は伏せておいてほしいとのことなので、Tさんと呼ぶことにする)
Tさんと調査団団長の兄上には感謝に耐えない。 私のシルクロード旅行は、このように多くの方々の支えで成り立っていることを意識しないと、罰が当たるだろう。 シルクロードは偉大だと、つくづく思う。
喜びと悲しみ、苦しみと楽しみ ――人間の喜怒哀楽、オーバーにいえば人生の縮図が景色の中に詰め込まれているような気がする。 次第に麦や菜の花の畑が減り、しばらく続いたモザイクの世界もいったん単調になったが、
祁連山に近づくにつれ、やがて一面、緑の濃いみごとな草原に変った。 それがはてしなく広がっていた。 緑と水と羊の白い点、そしてゆったりと広がる青い空とが壮大なコンビネーションを描き出していた。 こんな世界に身をおいている自分は幸せ者だと、つくづく思った。 尖閣列島問題やノーベル賞であんな対応をする政府が支配する中国とは、とても思えない。中国には本や絵葉書やテレビには出てこない隠された絶景がごろごろ転がっている。観光開発されていないからこその逸品と言えるだろう。 まさに別天地ですね〜
絶景を堪能してください。今日は美人さんはお休み〜
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山丹万里の長城 武威から170kmの地点で、保存状態のいい長城と道路とが交差した。ここが山丹長城である。
私は先生にお礼を述べて、ここで、バスを降りた。 確かに長城は切れている。 そこを羊の群れがゆったりと通ってゆく。シルクロードは人優先ならぬ羊優先であることがまたまた実感させられるのである。
長城は羊を通すため一部が切り取られている。
のんびりと歩いてゆくと―― こんなところへ来るとすっかり気持ちが緩やかになる―― 、ロバ車に乗った父娘らしい二人がそれこその〜んびりと通り過ぎてゆく。
ゆったりと時間が流れて行くなあ〜、四国遍路以上だな、と思いながら歩みを進めているうちに、一体この人たちは時計をしているのかな?と思った。いやそんなものはしていないだろうと思って、改めて何人かの人の手首を見ると、やっぱり誰もつけていない。夜が明けたら遊牧に出かけ夕暮れには帰る―― そんな生活には時計なんかいらないよな。だからみんな穏やかな顔をしているだな〜。
山丹長城の前をゆっくりとロバ車が通る
明代の烽火台までやって来て見やっていると、大型観光バスが1台やって来て停まった。
期待通り日本人だった。 楽しい旅を続けていても、やはり日本人と出会うと、異郷で同郷人と出会った懐かしさが湧いてくる。 1個は多いので誰かにご馳走しようかと思っていると、 私より先に日本人観光客がが買った。 「大きすぎるので、よかったら半分ずつ食べませんか?」と、割り勘を提案すると、 「どうぞ」と言って、ご馳走してくれた。 ここのスイカも美味しかった。 シルクロードでは、瓜もスイカも日本のものより格段においしい。 長城は遠くから見ると1〜2mに見えるが、
明代の長城の高さは4〜5m、烽火台の高さは約8mもある。 人間と比較すると、明代の長城の高さがお分かりでしょう。(ご協力ありがとうございます) 長城調査隊
写真を撮っていると、大勢の人がミニバスでやって来て、中国語で打ち合わせのようなものを始めた。
話を聞いてみると、 世界文化遺産である「万里の長城」の保護をめざし、その現状を把握する調査とのことだ。 この調査には、甘粛省文物考古研究所の調査員の他、 甘粛省と同じように長城が見られる陜西省、山西省、内モンゴル自治区、 寧夏回族自治区などの調査員や研究者の方々も研修を兼ね参加しており、 その中に日本人も2名参加していた。 総勢17名の調査隊である。 今回の調査は、実質調査日数8日間、踏査距離は30km以上になり、長城の残存状況の他、烽火台17基、付属施設5基などを調査するとのことだった。 調査は、烽火台や長城などの現状を把握することが目的であるため、実際に長城沿いに歩いて観察し、大きさや位置などを計測し、その記録を取るそうだ。 私も日本人の隊員に頼んで1時間ほど調査を見学させてもらった。 明代の烽火台 烽火台の調査 北方の龍首山脈を眺めながら、その谷間からモンゴルの騎馬隊が現れ、殆ど障害物のない緩斜面を一気に駆け下り、長城に迫る姿を想像し、これを守る当時の明の兵士に思いを馳せてみた。 “馬鹿の高上がり”といわれそうですね〜
今回、幸運にも調査を見学させてもらい、万里の長城に直接触れることが出来、さらには、長城や烽火台に上ることまで出来たことは、実に貴重な体験となった。
[コラム]
河西回廊は、中国と西域を結ぶ重要な交通路で、シルクロードの中国側の玄関口ともいえる要衝であった。 このため古くから漢民族と少数民族の間には、ここを巡り幾多の攻防が繰り返されてきた。 約2000年前の漢の時代には、主に北方の匈奴(きょうど)の騎馬隊の侵入を防ぐために、この河西回廊にも長城が築かれ、約600年前の明の時代にも北方のモンゴル族に備え新たに長城が築かれた。 特に山丹付近には、北京付近の煉瓦製の長城とは異なる、主に黄土を突き固めて築いた素朴な造りの明代の長城が、草原や砂漠の中に延々と続く風景が現在も広がっている。 いろいろな、万里の長城については、書庫の「万里の長城」をクリックしてご覧ください。 途中こんなきれいな菜の花畑も広がっていました。
本日のシルクロード美人
西安にて
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