東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

シルクロード2万キロ一人旅

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  武威から張掖へ向かう途中の山丹県には、漢と明の長城が各々100kmほどあり、専門家たちに「露天博物館」と言われている。現在中国で一番完全な形として保存されている古長城であり、国家 重点保護文物(日本でいう重要文化財)でもある。
 写真は明代の長城と祁連山  羊を通すため一部が切り取られている。

山丹長城へ向かう

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                      張掖行きのミニバスの運転手

[22日目] 
山丹長城までは張掖行きのミニバスで向かうことにした。出発時間よりかなり前に乗車して、右側の最前席を確保。発車当初は客は5人。ゆとりの旅行が出来ると思ったのは甘かった。案の定、市内をあちこち回って客集めをする。30分ほど回って、結局、値引きして立ちん坊の客まで集めてしまった。中国ではよくあることである。お陰で30分遅れでほスタートしたことになる。時間よりも客集めの方が大切なのである。
 私の隣なりには、客集めの段階で乗車してた客が座った。きちっとした身なりの、50代くらいの男性だ。話してみると、この人は高校の社会科の教師で、共産党主催の教育講習会に参加するために張掖へ行くとのことだった。日本語を勉強しているとのことで私に興味深々だった。逆に私は、社会科の教師と聞いてラッキーだと内心ほくそ笑んだ。  

 
 バスは武威の街からほどなく河西回廊へと入る。空はあくまで青く、窓外に流れるポプラ並木の青さが目にしみる。

 
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 武威を出てもう10キロ。人家は姿を消し、ゴビの荒野が再び広がり始めた。隣の先生に「これはそろそろゴビ砂漠ですか?」と訊くと、「これはいわゆるゴビの砂漠ではありません。石とも土ともいえないいえないようなこの瓦礫を掘ると、木が育つ土が出てくるんです」と言う。
 中国人はこれを“にせゴビ”と呼んでいるそうだ。このにせゴビが続く遙かかなたに、本当のゴビが広がっているという。

 
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 先ず漢代の「長城」が見え、続いて明代のものが見えるはずだ。土くれのようなような存在にもシャッターをきり続け、目を皿のようにして、「長城」が見えるのを今か今かと待つ…


 
 ところどころに土くれた遺跡のようなもの者が点在している。そのたびに、私は先生に聞いてみる。歴史上重要な位置を占めた遺跡もさることながら、朽ち果ててゆく無名の小さな遺跡もカメラに収めてたいと欲張っているからだ。しかし返ってくる答えは「あれは最近まで人が住んでいた住居跡ですよ」、「レンガを焼いたかまどの跡にすぎません」など、苦笑交じりの答えだった。そしてそれが過去の遺跡であったとしても、「あれは明代のものですよ。歴史的価値はありません」とひとことで片付けられる場合が多かった。どうも中国人の彼にとって、明代は我々の明治・大正といった感覚であった。7世紀の唐以前を昔というらしい。時間の観念の違いについて思い知らされるのである。

 
 武威を出発して25kmほどで再び長城が見え隠れして来た。ここから100km以上にもわたって併走していくことになる。

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 朽ち果てた土の壁のように見えるのが、漢代の万里の「長城」の、2,000余年の時を経た姿だ…

 
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           明の長城も朽ち果てた土くれのように見える

 
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              ところどころに烽火台も姿を現す。

 
こうした景色がしばらく続いた後、遠くに形を保った長城が見えてきた。
 
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 「あれが、山丹長城です」と先生は、指差していろいろ説明してくれた。

 
 ――世界的な文化遺産として有名な万里の長城が、山丹県内は100km程あり、山丹長城は漢代と明代の2種類がある。
 一つは,今から2千年前の前漢元鼎六年(紀元前111年)に造られた漢代の長城である。東西に全長98.5kmで、堀溝、自然の河、のろし、城壁で構成されている。堀溝の壁垣の代わりに造られ、ずいぶん古くなっているが、いまだにその姿をとどめている。
 もう一種類は、今から4百年前の明の隆慶六年(紀元1572年)に造られた明代長城である。明代長城は土で造られた壁、小山、城塞で構成されたものである。明代長城の長さは漢代長城と同様で漢代長城の南側にある。漢代・明代長城の間隔は10m〜80mあり、平行に伸びている。このように違う時期に造られ、平行して、しかも比較的保存状態 の良い長城は中国国内では非常に珍しいものである。

 
 武威から170kmの地点で、保存状態のいい長城と道路とが交差した。ここが山丹長城である。私は先生にお礼を述べて、ここで、バスを降りた。
 
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壮麗な祁連山を眺めていにしえの兵士を想う    〜涼州詞〜

 武威の郊外で壮麗なな祁連山脈に見惚れていた。 
 匈奴との戦いにゆく兵士たちは、来る日も来る日も、祁連山脈を眺めながら歩いたに違いない。
  いま私が、明媚な風景としてとらえている山並を、
  彼らはどんな思いで眺めたのであろうか。
  偉大な存在にわが身を託すような気持ちで、祈りながら仰ぎ見たかもしれない。  
  日本でも、万葉の時代、国の守りのため多くの人々が防人として駆りだされた。
  はるかみちのくの地からまで九州へ赴いた。
  妻子を残して悲嘆の思いで九州まで歩く防人を歌った短歌も少なくない。
  防人と匈奴との戦いに征く兵士とをつい重ね合わせてしまうのは、
  私ひとりでだけではないだろう。

漢と匈奴の戦いに赴く兵士たちに思いをはせる

 河西回廊は中国のシルクロードにとって
 とてつもなく大切な命の道だ。
 漢民族と遊牧民族は長い歴史の中でつねに回廊を奪い合った。
 多くの民が兵士として駆りだされ
 河西回廊の東端 涼州を軍事拠点に 
 過酷な戦を強いられて 
 西域に向けて進んで行った。
 
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              霍去病の匈奴遠征(甘粛省歴史博物館の絵)
  

 河西回廊の南には千キロにもわたって祁連山脈が連なっている。
 武威を出た兵士たちは来る日も来る日も左手に祁連の山並を目にしながら歩き続けたはずである。
 彼らは、この祁連の山々をどのような想いで眺め、また、見上げ、時には越えたのであろうか。
 
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 「祁連山」の名の由来は古代の匈奴まで遡る。
 匈奴語で「祁連」は即ち「天」の意であり、祁連山は「天山」と名付けられたのである。
 匈奴にとっては、恵みをあたえてくれるまさに「天の山」であったに違いない
 ――しかし、この匈奴との戦いに赴く漢の兵士たちにとって、
   匈奴が天の山として崇めた祁連山は複雑な存在であったかも知れない。
 
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 日々、時には刻々と姿を変える山々に対して彼らの心も揺れ動いたにちがいない。
 ――彼らは長い間眺め続けるうちに次第に心を寄せ、
   雪をたたえた広大な姿に尊厳の気持をいだくようになって、
   戦いの勝利やわが身の無事を祈ったかも知れない。
 
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 しかし、黒く姿を変えて激しく風を葺きつけ、雪や冷たい雨を降らせようものなら、
 とたんに、敵に味方して我に仇する存在として、強い恐れや恨みをいだいたにちがいない。
 
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 今日は近づき、明日は次第に遠のいてゆく。
 
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 たまにのようなな風景に出会ったときには、兵士たちもしばし重い心から解きはなされ、
 ある者は気持を高揚させ、わが心を鼓舞させたかも知れない。
 また別の兵士は、遠いふるさとに残した妻や恋人の顔を想い浮かべて、
 いっとき心を和ませたかもしれない。
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 そう思うと、こうして祁連山を眺めている自分の気持も和やかになった。


涼州詞

 このように生きて帰れないかも知れない出征兵士の嘆きをうたったのが、
葡萄の美酒 夜光の杯」 で始まるかの有名な「涼州詞」なのである。

 実は私は、シルクロードに関する気に入った漢詩をコピーして、この旅に持参してきた。
 時には、ホテルでその土地に関する詩を読んでいる。
  
 すると古の人びとの想いが伝わってくるような気がする。
 その土地を後にする前夜、いつも回想にふける。
 武威の3日間は今日で終わる。
 夜のしじまの中でふと いにしえの武威―涼州を想った。


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    涼 州 詞   王 翰

  葡萄の美酒 夜光の杯
  飲まんと欲すれば 琵琶馬上に催す
  酔うて沙場に臥ふす 君笑うこと莫なかれ
  古来 征戦 幾人か回る


  [通 釈]
  葡萄のうま酒を,夜光杯で飲もうとしていると,
  誰かが馬上で琵琶をかなで 美しい音色を響かせている。
  酒に酔いつぶれ 砂漠の上に倒れ伏してしまったが
  こんなぶざまな姿を見て 笑わないでくれ。
  昔から 戦に行って
  いったい何人帰って来ただろうか。
  私も、明日の命がわからないのだから。

 
 現地の武威でこの詩を読んでいるから、よりいっそうその気持が伝わってくる。
 胸が締め付けられる想いがする。
 格調の高い詩だ。
 哀愁溢れる感情を暗いイメージでなく、美しい響きをもって歌っていると思う。
 正に、傑作中の傑作だと思う。
 もちろん好きな漢詩のひとつであることはいうまでもない。
 
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古鐘楼でテレビ出演?
 西夏博物館見学の後、すぐ近くにある古鐘楼へ向かいました。
 鐘楼は、大雲寺の所有であり 市街の北東に位置しています。

\¤\᡼\¸ 1 西夏博物館から大雲寺までは、日干し煉瓦と土壁の家が続く旧市街の中を通って行きます。大雲寺が土壁の民家の向こうに見えて来ました。この道筋でも、取り壊しの決まった家に付けられる≪折≫の字が並んでいるので、もうすぐ違う街並みになってしまうのでしょう。我々旅行者にとってはさびしいですね。

\¤\᡼\¸ 2 雲寺前の乾いた埃っぽい道を通る人々。
 武威に限らず西域ではこのように乾いて埃っぽい場所が多いので、私は喉を痛めないようにうがいとマスクで用心しているのです。

\¤\᡼\¸ 4 大雲寺に到着。周囲にビルなどの高い建物がないせいか高く感じます。

\¤\᡼\¸ 3 大雲寺の山門。 
 大雲寺はもともと宏藏寺と言ったのですが、則天武后(武則天)(623-705、在位684-705)が皇帝となり、全国に大雲経を供奉させた際に、この寺も名を大雲寺と改称したとのことです。大雲経というのは女帝の出現を予言した経典とされ、武則天はこれを大いに喧伝したが、実際には、武則天におもねた者の偽作だったのです。

\¤\᡼\¸ 5 その高い鐘楼を外側から見上げました。この鐘楼は明代に建てられたものです。西安の鐘楼と違って木製なので古めかしいのですが、むしろ趣と威厳が感じられます。

 
 
 
\¤\᡼\¸ 6 鐘は銅の合金による鋳造で、淡い黄色をしており、上が細くて下が太く腹部にふくらみがあります。高さ2.4メートル、口径1.45mメートル、厚さ10センチ。鐘の外側の図案は三層に分かれ、上から順に、飛天、天王と鬼、竜と天王が描かれています。

 
\¤\᡼\¸ 7 ささやかな鐘撞き  
 一回一元で鐘を撞かせてくれます。何せ唐代の貴重な鐘なので木槌で優しく叩きます。
 私がカメラを持って鐘の周りをうろついていると、
「私たちは武威のテレビ局のスタッフだけど、あなたは外国人でしょう? 外国人も地元の人に混じって鐘を突く様子を撮りたいのですが…」
と声をかけてきました。
 <ひゃ〜!! こんなの初めて> とばかり、驚きました。
 中国のテレビに出るなんて、またとないチャンスです。
 二つ返事で「当然可以(もちろんいいですよ)」と応じました。

\¤\᡼\¸ 8 まず、このおじさん(この人もやらせかな?)が撞きます。画像右奥にちょっとだけ頭が見えているのがテレビ局のスタッフの一人です。

 私が鐘を突いた時には、とっさのことなので写真撮影を頼めず…、残念でした。
 
\¤\᡼\¸ 9 私の次には家族連れの番(これも撮影用でしょうか?)

 鐘を突き終わったところで、「どちらから武威に? どこの国の出身?…」などなど、簡単な質問を受けました。
 数日中にニュースに出す、と言っていましたが、翌朝にはもう次の目的地の張掖に出発てしまったので確認できませんでした。ちょっと残念でした。
 

羅什塔(らじゅうとう)
 私のファンの高僧鳩摩羅什が経典を講じたところがあるというので、
 勇んで自転車を踏みました。
 そこは、武威市街の北大街にある羅什塔です。

  \¤\᡼\¸ 9\¤\᡼\¸ 10
 
 あちこちにある塔とさして変わらないのですが、私にとっては、
 西安の大雁塔とともに、感慨深い塔です。 
 
 後秦代(384-417年)の亀茲(キジ)国の高僧鳩摩羅什(344〜413)が経典を講じたところとされる塔です。
 見上げると、そこから鳩摩羅什の落ち着いたそれでいて張りのある声が聞こえてきそうでした。
 
 かつては羅什寺があったのですが、1927年の地震で倒壊しました。羅什塔も半分だけが残りました。
 1934年に修復しましたが、そのときに塔の下から発見された石碑から唐代の建立か再建と判明しました。
 八角12層、高さ32メートルです。

 鳩摩羅什は、中国への仏教伝来に最も貢献のあった僧のうちのひとりです。
 私は鳩摩羅什にとても人間らしさを感じています。
 彼の縁(ゆかり)の場所はたいてい訪れるようにしています。


 
 
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 鳩摩羅什は、中国への仏教伝来に最も貢献のあった僧のうちのひとりです。
 インド人を父、亀茲国王の妹を母として亀茲に生まれました。その高名は遠く中国にもおよび、前秦の符堅は将軍呂光を西域に派遣し、その地の討伐と鳩摩羅什を連れ帰ることを命じました。ところが、呂光は帰路、前秦の滅亡を知ったため涼州(現、武威)に留まり後涼国を建てました。そのため、鳩摩羅什は401年に長安に行くまでの16年間をこの地で暮らしたのです。長安では、草堂寺に拠り、三千人の僧を参加させ、97部427巻の仏典を漢訳することにすることになるのです。

 インドという外国の血が流れ、しかもあまりにも優秀すぎるがゆえに、権力にもてあそばれた鳩摩羅什――彼ににどこか人間みを感じて、わたしは親しみを持っています。そのため、ほとんど塔だけしか残っていないこにへやってきたのです。

 以前、直木賞作家宮本輝の作『ひとたびはポプラに臥す』(講談社文庫)という、シルクロードの紀行文を読んだことがありました。
 この記事を書くにあたってまた読んでみました。
 その書の中で鳩摩羅什について読みやすい記述をしています。その一部を、[コラム]に引用させていただきます。
 
[コラム]
 世紀350年に現在の新疆ウイグル自治区であるクチャという広大なオアシスの町で鳩摩羅什は生まれました。当時は亀じ国とよばれ、羅什はその国の王の妹とインド人とのあいだに生を受けたのです。羅什が没したのは西紀409年。59年の生涯でした。羅什は7歳で母とともに出家しました。そして、9歳の時、ガンダーラのケイヒン国へと留学の旅に出るのです。タクラマカン砂漠の西を進み、カラコルム山脈を越える険難な旅でした。9歳でケイヒン国に到着した羅什は、バン頭達多に師事し、小乗仏教を深く学んだあと、3年後に疏ロク国に立ち寄り、そこで須利耶蘇摩と出会って大乗仏教の深義に目覚めます。疏ロク国は現在のカシュガルであるとする説が有力でしたが、そうではなく、カシュガルから南へ約200キロのところにある現在のヤルカンドだという説のほうが正しいようです。363年、羅什は母とともに亀じ国に帰国し、持ち帰った膨大な大乗仏教を研鑚する日々をつづけ、たちまちのうちに、その名を中国の都にまで知られる存在となっていくのです。384年、羅什の頭脳と仏教知識を得ようとした前秦の王・フ堅は、将軍・呂光に命じて亀じ国に攻め入ります。そのときの兵は7万人。まだ35歳の、たったひとりの人間の頭脳を得るために。7万の兵をおこし、都から遠く離れた亀じ国を滅ぼそうしたことには、ただ茫然とするばかりです。亀じ国は簡単に敗れ、国王は殺され、羅什は捕らわれの身となって長安へと向かうのですが、その途中、涼州のコゾウ、現在の武威に入った時点で、前秦の王・フ堅は殺され、代わってヨウチョウが政権を握り、後秦国を建ててしまいます。帰る地を失った呂光は涼州でみずからの国を作って後涼国の支配者となります。羅什もまた捕らわれの身のまま、涼州で16年間も留め置かれるはめになるのです。けれども、401年、ヨウチョウの跡を継いだ後秦の王・ヨウコウは後涼国に兵を送り、これを滅ぼし、51歳になっていた羅什を長安に招聘し、サンスクリット語の大乗仏典を漢語に翻訳する作業に没頭させます。
 

 
海蔵寺
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                  武威海蔵寺 山門

 武威市の市街西北2キロにある晋代創建の古寺で、規模の大きさは武威随一です。
 周囲が池と林で囲まれていて、その環境から、「まるで海中にかくれている」かのようなので海蔵寺の名がついたとのことです。


武威の砂漠公園
 
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 武威の砂漠公園は  武威市から東北へ22KMの砂漠の中に、1973年に築かれた公園です。
 烽火台や砦なども人工的に作られており、古い時代の仏教寺院も再現されていて、いにしへのシルクロード気分が味わえる趣向になっています。
 
 
 
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 いにしえの武威は仏教が盛んで、寺院も多かった。砂漠公園には、仏教寺院がを再現されていて、往時を偲ぶことが出来た。ここにはにはおびただしいストゥーパ(仏塔)が立ち並び、壮観だった。

 ところが、まるでアメリカに入り込んでしまったと思わされるような趣向もたくさんあるのです。
 
 
   
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                     武威の砂漠公園       
 
 
 この光景を見た瞬間、西部劇の世界に入り込んでしまったような気分にとらわれました。
 烽火台を再現したモニュメントの陰から、突然馬に乗ったインディアン突然飛び出してきても不思議でない雰囲気でした。
 
武威の美人たち
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 チンギスハーンが率いるモンゴルの猛攻を受け、西夏はここカラホトを最後の拠点として滅び去った。

 
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                       カラホト

幻の西夏文字〜西夏博物館西夏文碑

 文廟からすぐ隣の西夏博物館に向かった。
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 文廟と西夏博物館の参観券

¥¤¥᡼¥¸ 3 ここには幻の文字といわれた西夏文字の石碑が展示されています。私が西夏文字に関心を持つようになったのは、高校生の頃に読んだ小説『敦煌』でした。

¥¤¥᡼¥¸ 2 官吏登用試験に失敗した趙行徳は、開封の街で裸にされて売られている西夏の女に出会う。その女の死をも恐れぬ態度に行徳は、官吏万能の社会にはまりこんでいた自分とは違う世界があることに驚く。女から託された一片の布には「西夏の文字」が書かれていたが、読める人はいなかった。行徳は西夏という国が見たくなる。
 西夏は当時、ゴビ砂漠の入口に興慶という中心地をもち、河西回廊の漢民族の支配地を次々と襲っていた。
この本に出会って後、何年か経って映画で敦煌が放映された。その時の布切れの文字にすごく興味を引かれてわざわざパンフレットまで買いこんでしまった。今なお、私の手元で健在である。


                 ¥¤¥᡼¥¸ 4
 博物館前までゆくと中国人に呼び止められ、一緒に記念撮影をしてくれと頼まれた。その人は、西夏語を初めて解読したのが日本の西田 龍雄氏であることを知っていて、ぜひ日本人と一緒に写真を撮りたいということだった。

 建物の中に入ると大きなホールのような部屋の中央に石碑が、でんと立っている。これが、この博物館の目玉の「西夏碑(西夏文碑)」」(正式には「重修護国寺感応塔碑」)である。高さ250cm、幅90cmである。
 この碑は、西夏天祐民安5年(紀元1094年)に鐫られた。涼州(今の武威市)の感通仏塔の霊験と西夏の国王が仏事を重んずる功徳を讃えたものである。
 一つの面に西夏文を刻み、 もう一面には漢文が刻まれている。文の内容は大体同じであるが、その内容は非常に豊富で重要なものといえる。この碑は11世紀から13世紀にかけてこの地を支配した西夏の消息を伝える。残念ながら撮影禁止なので、博物館の売店で購入した拓本を撮影した写真をご覧ください。

       ¥¤¥᡼¥¸ 6
           西夏碑(博物館のパンフレットより)

            ¥¤¥᡼¥¸ 7
               拓本を撮影したもの

             ¥¤¥᡼¥¸ 8     ¥¤¥᡼¥¸ 9 
             西夏碑の文字を拡大したもの(パンフレットより)



 西夏は遊牧民族であるタングート族(チベット系)が建てた国で、現在の寧夏回族自治区と甘粛省の全域を支配してシルクロードにも少なからず影響を及ぼした。『大夏』と号した。中原の宋の人々は西夏と呼んだ。1038年に建国し、1227年にチンギスーハンによって滅ぼされ、そのまま歴史上から忽然と消え去った。
 
私はこの滅亡の最後の拠点となった幻の城カラホト(黒水城)を数日後訪ねる予定だが、非常に楽しみだ。

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孔子を祀った文廟

 [21日目]
朝食を済ませたあと、街を自転車で走り回りながら時間調整をしました。
 そして入場時間を待って、開始と同時に文廟へ入りました。
 
\¤\᡼\¸ 3
 
 文廟は孔子の霊を祀った霊廟です。
 ここは、明代の1439年に建造されたもので、東西135m、南北187mの敷地内に、建物が東西に2列に並んでいます。現在は市博物館を兼ねており、いくつかの建物が陳列室になっていました。そこには高昌王世勲碑、前漢時代のミイラなど、さまざまなものが展示されていました。
 
 本来の文廟としては、左(西)側に状元橋、大成殿、尊経閣、右(東)側に山門、文昌祠、崇聖祠があります。
 ほとんどの建物が、朱と緑を使った色彩でした。この色彩は、明代の特徴です。

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 門をくぐると、正面に孔子像が建っています。

      \¤\᡼\¸ 4
 
 
 
 孔子像の前に立って対面した途端に、井上靖作の『孔子』が思い出しました。、偉大さが自然に伝わってきて、思わず合掌して頭を下げていました。
 今回のシルクロードの旅で孔子と出会ったのはこれで2度目だ。最初は、西安の
西安碑林博物館です。
「朋の遠方より来るあり。また楽しからずや… 」の碑を目の当たりにしたとき、心が震えたのをおぼえています。

 状元橋 
 状元とは科挙試験で最も成績の良い人を指し、その人だけが状元橋を渡り、大成殿へ詣でることが許されたと伝えられています。 馬鹿の高上がり的に丸橋の頂上まで上ったのですが、さすがに気が引けて渡り切らず、そこで記念撮影しました。

    \¤\᡼\¸ 8
 
 
ここ文廟にも「馬踏飛燕」の象が立っていました。

          \¤\᡼\¸ 5
 
 
  お堂の天上にはいろいろな言葉が書かれていました。

       \¤\᡼\¸ 6
 
 
 
 境内の丸いくぐり門はいかにも中国的です。
          \¤\᡼\¸ 7
   

 孔子について
 (紀元前551ころ〜前479)中国,春秋時代の思想家。儒教を始めた人として,のち日本にも大きな影響を与えた。生まれた国の魯(ろ)(山東省))で政治をとって失望し,自分の政治理想を実現しようと,弟子とともに14年間諸国をめぐった。結局は故国にもどり,教育や古典の整理に専念した。彼は,社会には礼とよぶ秩序が必要であり,それには人を思いやる仁とよぶ心が大事だと説いている。これが儒教の基本理念になっている。
 孔子と弟子たちとの問答をまとめた本が『論語』である。
 
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