シルクロード2万キロ一人旅
[ リスト | 詳細 ]
古鐘楼でテレビ出演?西夏博物館見学の後、すぐ近くにある古鐘楼へ向かいました。鐘楼は、大雲寺の所有であり 市街の北東に位置しています。 武威に限らず西域ではこのように乾いて埃っぽい場所が多いので、私は喉を痛めないようにうがいとマスクで用心しているのです。
大雲寺はもともと宏藏寺と言ったのですが、則天武后(武則天)(623-705、在位684-705)が皇帝となり、全国に大雲経を供奉させた際に、この寺も名を大雲寺と改称したとのことです。大雲経というのは女帝の出現を予言した経典とされ、武則天はこれを大いに喧伝したが、実際には、武則天におもねた者の偽作だったのです。
一回一元で鐘を撞かせてくれます。何せ唐代の貴重な鐘なので木槌で優しく叩きます。
私がカメラを持って鐘の周りをうろついていると、
「私たちは武威のテレビ局のスタッフだけど、あなたは外国人でしょう? 外国人も地元の人に混じって鐘を突く様子を撮りたいのですが…」 と声をかけてきました。 <ひゃ〜!! こんなの初めて> とばかり、驚きました。 中国のテレビに出るなんて、またとないチャンスです。 二つ返事で「当然可以(もちろんいいですよ)」と応じました。 私が鐘を突いた時には、とっさのことなので写真撮影を頼めず…、残念でした。
鐘を突き終わったところで、「どちらから武威に? どこの国の出身?…」などなど、簡単な質問を受けました。
数日中にニュースに出す、と言っていましたが、翌朝にはもう次の目的地の張掖に出発てしまったので確認できませんでした。ちょっと残念でした。 羅什塔(らじゅうとう) 私のファンの高僧鳩摩羅什が経典を講じたところがあるというので、
勇んで自転車を踏みました。 そこは、武威市街の北大街にある羅什塔です。 あちこちにある塔とさして変わらないのですが、私にとっては、 西安の大雁塔とともに、感慨深い塔です。 後秦代(384-417年)の亀茲(キジ)国の高僧鳩摩羅什(344〜413)が経典を講じたところとされる塔です。 見上げると、そこから鳩摩羅什の落ち着いたそれでいて張りのある声が聞こえてきそうでした。 かつては羅什寺があったのですが、1927年の地震で倒壊しました。羅什塔も半分だけが残りました。 1934年に修復しましたが、そのときに塔の下から発見された石碑から唐代の建立か再建と判明しました。 八角12層、高さ32メートルです。 鳩摩羅什は、中国への仏教伝来に最も貢献のあった僧のうちのひとりです。
私は鳩摩羅什にとても人間らしさを感じています。彼の縁(ゆかり)の場所はたいてい訪れるようにしています。 インド人を父、亀茲国王の妹を母として亀茲に生まれました。その高名は遠く中国にもおよび、前秦の符堅は将軍呂光を西域に派遣し、その地の討伐と鳩摩羅什を連れ帰ることを命じました。ところが、呂光は帰路、前秦の滅亡を知ったため涼州(現、武威)に留まり後涼国を建てました。そのため、鳩摩羅什は401年に長安に行くまでの16年間をこの地で暮らしたのです。長安では、草堂寺に拠り、三千人の僧を参加させ、97部427巻の仏典を漢訳することにすることになるのです。 インドという外国の血が流れ、しかもあまりにも優秀すぎるがゆえに、権力にもてあそばれた鳩摩羅什――彼ににどこか人間みを感じて、わたしは親しみを持っています。そのため、ほとんど塔だけしか残っていないこにへやってきたのです。
以前、直木賞作家宮本輝の作『ひとたびはポプラに臥す』(講談社文庫)という、シルクロードの紀行文を読んだことがありました。
この記事を書くにあたってまた読んでみました。
その書の中で鳩摩羅什について読みやすい記述をしています。その一部を、[コラム]に引用させていただきます。 [コラム] 世紀350年に現在の新疆ウイグル自治区であるクチャという広大なオアシスの町で鳩摩羅什は生まれました。当時は亀じ国とよばれ、羅什はその国の王の妹とインド人とのあいだに生を受けたのです。羅什が没したのは西紀409年。59年の生涯でした。羅什は7歳で母とともに出家しました。そして、9歳の時、ガンダーラのケイヒン国へと留学の旅に出るのです。タクラマカン砂漠の西を進み、カラコルム山脈を越える険難な旅でした。9歳でケイヒン国に到着した羅什は、バン頭達多に師事し、小乗仏教を深く学んだあと、3年後に疏ロク国に立ち寄り、そこで須利耶蘇摩と出会って大乗仏教の深義に目覚めます。疏ロク国は現在のカシュガルであるとする説が有力でしたが、そうではなく、カシュガルから南へ約200キロのところにある現在のヤルカンドだという説のほうが正しいようです。363年、羅什は母とともに亀じ国に帰国し、持ち帰った膨大な大乗仏教を研鑚する日々をつづけ、たちまちのうちに、その名を中国の都にまで知られる存在となっていくのです。384年、羅什の頭脳と仏教知識を得ようとした前秦の王・フ堅は、将軍・呂光に命じて亀じ国に攻め入ります。そのときの兵は7万人。まだ35歳の、たったひとりの人間の頭脳を得るために。7万の兵をおこし、都から遠く離れた亀じ国を滅ぼそうしたことには、ただ茫然とするばかりです。亀じ国は簡単に敗れ、国王は殺され、羅什は捕らわれの身となって長安へと向かうのですが、その途中、涼州のコゾウ、現在の武威に入った時点で、前秦の王・フ堅は殺され、代わってヨウチョウが政権を握り、後秦国を建ててしまいます。帰る地を失った呂光は涼州でみずからの国を作って後涼国の支配者となります。羅什もまた捕らわれの身のまま、涼州で16年間も留め置かれるはめになるのです。けれども、401年、ヨウチョウの跡を継いだ後秦の王・ヨウコウは後涼国に兵を送り、これを滅ぼし、51歳になっていた羅什を長安に招聘し、サンスクリット語の大乗仏典を漢語に翻訳する作業に没頭させます。 武威市の市街西北2キロにある晋代創建の古寺で、規模の大きさは武威随一です。
周囲が池と林で囲まれていて、その環境から、「まるで海中にかくれている」かのようなので海蔵寺の名がついたとのことです。 武威の砂漠公園武威の砂漠公園は 武威市から東北へ22KMの砂漠の中に、1973年に築かれた公園です。 烽火台や砦なども人工的に作られており、古い時代の仏教寺院も再現されていて、いにしへのシルクロード気分が味わえる趣向になっています。 いにしえの武威は仏教が盛んで、寺院も多かった。砂漠公園には、仏教寺院がを再現されていて、往時を偲ぶことが出来た。ここにはにはおびただしいストゥーパ(仏塔)が立ち並び、壮観だった。
ところが、まるでアメリカに入り込んでしまったと思わされるような趣向もたくさんあるのです。
武威の砂漠公園
この光景を見た瞬間、西部劇の世界に入り込んでしまったような気分にとらわれました。
烽火台を再現したモニュメントの陰から、突然馬に乗ったインディアン突然飛び出してきても不思議でない雰囲気でした。 武威の美人たち
|
|
孔子を祀った文廟 [21日目]
朝食を済ませたあと、街を自転車で走り回りながら時間調整をしました。
そして入場時間を待って、開始と同時に文廟へ入りました。
文廟は孔子の霊を祀った霊廟です。
ここは、明代の1439年に建造されたもので、東西135m、南北187mの敷地内に、建物が東西に2列に並んでいます。現在は市博物館を兼ねており、いくつかの建物が陳列室になっていました。そこには高昌王世勲碑、前漢時代のミイラなど、さまざまなものが展示されていました。 本来の文廟としては、左(西)側に状元橋、大成殿、尊経閣、右(東)側に山門、文昌祠、崇聖祠があります。
ほとんどの建物が、朱と緑を使った色彩でした。この色彩は、明代の特徴です。
門をくぐると、正面に孔子像が建っています。
孔子像の前に立って対面した途端に、井上靖作の『孔子』が思い出しました。、偉大さが自然に伝わってきて、思わず合掌して頭を下げていました。
今回のシルクロードの旅で孔子と出会ったのはこれで2度目だ。最初は、西安の西安碑林博物館です。 「朋の遠方より来るあり。また楽しからずや… 」の碑を目の当たりにしたとき、心が震えたのをおぼえています。 状元橋
状元とは科挙試験で最も成績の良い人を指し、その人だけが状元橋を渡り、大成殿へ詣でることが許されたと伝えられています。 馬鹿の高上がり的に丸橋の頂上まで上ったのですが、さすがに気が引けて渡り切らず、そこで記念撮影しました。
ここ文廟にも「馬踏飛燕」の象が立っていました。
お堂の天上にはいろいろな言葉が書かれていました。
境内の丸いくぐり門はいかにも中国的です。
孔子について
(紀元前551ころ〜前479)中国,春秋時代の思想家。儒教を始めた人として,のち日本にも大きな影響を与えた。生まれた国の魯(ろ)(山東省))で政治をとって失望し,自分の政治理想を実現しようと,弟子とともに14年間諸国をめぐった。結局は故国にもどり,教育や古典の整理に専念した。彼は,社会には礼とよぶ秩序が必要であり,それには人を思いやる仁とよぶ心が大事だと説いている。これが儒教の基本理念になっている。 孔子と弟子たちとの問答をまとめた本が『論語』である。 クリックしていただくとうれしいです (^O^)。
↓ ↓ ↓
|









