早朝の武威駅 [21日目]
天馬賓館を午前6時に出た。例によって自転車で市内めぐりである。今日の最初の訪問先は、孔子の霊を祀った文廟だが、まだまだ開いていないので、武威駅へ行って見ることにした。
私は今回のシルクロードでは、まだ列車を利用していないが、宿泊地では時間があれば最寄の駅へ立ち寄ってみることにしている。駅はバザールとともに、そこに住む人々の様子が違った角度から見えてくるからだ。
6時20分 武威駅到着。まだ薄暗い。外には人はまばらだ。
人であふれかえる待合室
だが、待合室にはたくさんの人々があふれている。イスに座れなくてコンクリートに新聞紙を敷いてごろ寝している人もかなりいる。何せ中国の列車は時刻表どおり動かないのが常識だ。2005年に訪れた時には、長距離列車は1日遅れなんていうこともそう珍しくはなかった。近年はだいぶ改善されてきたがそれでも、数時間の遅れは覚悟しなければならない。 掲示板を見ると、まだ木製の看板だ。西安や蘭州などの大都市ではさすがに 電光掲示板だった。 待合室に掲示されている案内表示板。
プラットホームへ入場
プラットホームへ入るため入場券を買おうとしたら、話が通じない。根っから乗車券の購入と思い込んでいるらしい。盛んに「どこへ行くのですか?」と質問してくる。身分証明書を見せて、プラットホームや列車の写真を撮りたいので入れてほしいと言ったら、「入場許可証」○○○と、自分の氏名を書いた紙を渡してくれた。 親切に感謝!
プラットホームにも人があふれている。
プラットホームにもあふれる人
列車はほとんど電化されているので、SLはほとんど見当たらない。
ウルムチ発蘭州行きの電車
列車は待ち合わせやダイア調整のためにかなりの時間停車していることも多いとのことである。客はその間プラットホームへ降りて買い物をする。だが、「いつ発車するかわかりませんので下りないでください」と放送が鳴り響いている。客はこれを無視するかのように大勢降り立っていた。
プラットホームで物を売るおばさん
別のプラットホームに入線してきた2階建て寝台列車とその服務員(右)
服務員に許可証を見せて、停車中の列車に入ってちょっと撮影…
駅を出る頃、夜が明け始めた。
大分明るくなってきたので、駅を去る前に「馬踏飛燕」をもう1枚
中心街へ戻る途中で朝日が昇ってきた。河西回廊を行き来したいにしえの人々は、戦いの勝利や旅の無事を祈ったに違いない。
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シルクロード2万キロ一人旅
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街で憩う人びと
雷台から武威の街へ戻り、明日の下見を兼ねて散策する。
物売りの人だろうか…、仕事の途中、街路樹の下に置かれたベンチで憩っている。 その近くでは、女性たちが編み物をしているし、老人たちがマージャンに興じている。 あちこちを回って思う―― 中国、特に西域の人たちは外が好きだ。 そしてコミュニケーションを大切にしている。
中央政府に縛られながらも、のびのびして陽気な人々だ。
イスラム主義を押し付けられているイランを旅していた時にもそんなことを感じた。
放課後教室の子供たち
孔子を祀った文廟と西夏博物館の間に広場があったので、ベンチに腰を下ろして休んでいると、文廟の隣にある幼稚園から、子どもたちが手をつないで散歩にやって来た。
歌を歌ったり、遊戯をしたりと、ひと時優雅な時間を過ごしていた。 それが一通り終わると、歌を歌いながら整列をして帰って行った。 引率の教員に聞くと、中国でも共稼ぎ家庭が多いので、 必要に応じて夕方6時まで子どもを預かっているとのことだった。 私もときどき地元の小学校の放課後教室へ行って、共稼ぎで親の帰りの遅い子供たちの面倒を見ている。子供たちたに旅の話なんかをして楽しんでいる。
夕方6時になると、ミユージックサイレンが国家「東方紅」を流し始めた。
横一列に並んで手を組んだり、肩を組んだ5人の子どもたちが、“タンタ タタタターンタ タンタ タタタターンタ タンタタターン”というリズム合わせて、口ずさみながら歩いている。おそらく近所の子供たちが連れだってそれぞれの家に向かっているのだろう。 武州夜市(涼州市場)
東大街に面したあたりは、「涼州市場」「小吃(シャオチー)市場」という名前だが、
地元の人は「武威夜市」と呼んでいる。 老若男女が楽しそうに語り合ったり、ふざけ合いながら歩いている。
みんな幸せそうだ。治安がよいのだろう。 歩行者天国の東大街から狭い路地に入ると、両側には小さな食堂や店がいっぱい並んでいる。派手な看板や飾りが通りの賑わいを引き立ている。どの店も客であふれている。
夕食は、屋台のような食堂がぎっしり並んでいるこの夜市に潜り込むことにした。
人と人とがぶつかり合う中を、ガラス越しに店の様子を見ながら奥へ奥へと進み、
「迎春」という店に入った。 もう夜の10時だ。 小碗(水餃子12個入り)と大碗(20個入り)があるが、迷わず大碗を注文した。子どもまで一人で大碗を食べている。それから武威名物の砂鍋も頼んだ。
厨房の娘たちは手より口の方が忙しそうだ。
ここが五胡十六国時代(304年〜439年)には「西涼」と呼ばれていたからだろう。 ふと見ると珍しいビールがある。 「苦瓜啤酒」となっている。 ご当地名産苦瓜を苦味の原料にしたものだ 中国のビールの中では苦い方だが、キリンラガーよりは苦味は少ないようだった。
向かいのテーブルからは、「戯拳(ぎけん)」とよばれるじゃんけん遊びのようなことをしている男たちの声が響いてくる。
お互いが出した指の数の合計がいくつになるかを言い当て、 負けたら、杯の酒を飲み干さなければならないという遊びだ。 そういえば、奄美大島に行ったとき「なんこ」という、同じ遊びが行われていた。
『迎春」での食事代は、こんなに飲み食いしても8元(約110円)だった。
これだから、ホテルなんかでは食べられない。 食あたりを心配する人がいるが、私の胃袋は人見知りしないらしい。 いままでいろいろな国でいろいろなものを食べたが、どの食べ物ともケンカになったことがない。 ただ、生ものだけはしっかりした店でしか食べないようにしている。 その後、サンザシ餅の店や玩具店や小物の店をのぞき、人ごみに洗われながらゆらゆら歩いていると、
またまた大好物のシシカバブのたまらない匂い。 たまらず店へ吸い込まれてしまう。シシカバブはウイグル語では「カワプ」という。 伝統的なサンザシ餅を竹串に刺して売っている。
シシカバブを焼く匂いには勝てない。
そのあと、珍しいものを見た。羊のいろいろな焼肉だ。
羊が、各部分に分けられて、いろいろな調理を施されて売られている。 「すべての部分を食べてやるのが、大切な羊に対する礼儀なのです」と、店の主人は言う。 この精神は、シルクロード諸国のどこへ行っても変わらない。 遊牧民は羊を単なる生活の糧としてではなく、家族のように大切に扱っている。
講釈はさておき、明日も早い。いやもう明日ではない。午前零時を回っていた。
シルクロードの人びとはよふかしだなー と、つくづく思う。 それにつられるオレも俺だが…、ま〜郷に入りてはなんとやらだ。
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城壁から降りてまっすぐに向ったのが、運転手から「」紹介された経貿賓館というホテルです最近できたホテルです。一泊10元で3泊したいと言うと、今晩しか空いていないし、1泊38元だと言います。運転手の名前を言い、いつも8元でとまっている。しかも3泊したいの断るのだから、10元にしてくれと交渉すると10元にしてくれました。
以前の2度は武威で一番格上の天馬賓館でしたが、今回は一人旅なので倹約旅行です。
そして宿の主人の知り合いの自転車屋へ行って、保証金を200元払って自転車を2日半借りました。
とにかく街や近郊はいつも通り自転車で行動です。
いにしえの武威は文武両道
「武威」はいかにも軍事色の強い名前ですね。 この古都は漢の時代、河西四郡のうちもっとも早い時期につくられた都市のひとつだったのです。 戦乱に明け暮れた時代、時の権力者は内地から漢民族を入植させて都市を造り、周辺の人々は戦乱を逃れてこの街に逃げ込んできました。 しかし当時、武威は河西回廊の政治・文化の中心でもあったのです。 最盛期には13の仏教寺院がありました。 玄奘と鳩摩羅什
歴史的にみると、日本では三蔵法師として知られる高僧玄奘も、
天竺(インド)へ旅する途中、武威に立ち寄って、お経を講じたとのことです。 そして玄奘の名声を伝え聞いて多くの人々がこの街にやって来たと伝えられています。 また、4世紀には西域の高僧鳩摩羅什が15年間滞在したところでもあります。 (左) 玄奘三蔵の旅姿《東京国立博物館蔵) (右)キジル石窟洞の前に立っている鳩摩羅什像(後の記事で紹介します) 玄奘三蔵と鳩摩羅什の詳細は、クリックして次の記事を見てください。
命を懸けて天竺へ 銅奔馬「馬踏飛燕」
武威では、当時の文化を物語る文物が発掘されています。
その中で最も貴重な文物とされているのが、私がすでに蘭州の博物館見た漢の時代に作られたという 銅奔馬、「飛燕をしのぐ馬」と呼ばれている作品です。(クリックしてみてください) 甘粛省博物館に展示されている銅奔馬「馬踏飛燕」
銅奔馬「馬踏飛燕」が発掘され雷台
夕方でしたが閉館時間の7時までまだ時間があるので、「飛燕をしのぐ馬」銅奔馬が発掘された雷台漢墓へ向かいました。
街の中心部は、北京や蘭州で見た光景と指して変わりありませんが、郊外に出ると、土で塗り固められた土塀が立ち、レンガの家が軒を並べています。
路地には、座り込んで膝の上で子どもをあやしている老人の姿がありました。 その近くでは子どもが中国将棋を指しています。黒いマントのおばあさんが路地に水をまくと、まどろんでいた犬がびっくりして走り去っていきました。そんなのどかな風景が続きます。
雷台漢墓
雷台は、中ソ冷戦時代の1969年防空壕を掘った際に発見されました。
2002年に周辺を整備し、大きな観光地に変身したのです。
発掘の目玉商品の銅奔走馬(馬踏飛燕)は、前の記事にも書いたように、実物は
甘粛省博物館に収納されています。
雷台漢墓入口
雷台の入館券
かわいい案内嬢
嬢が現れました。
夕方なので見学者は私一人。ひとり旅だと時々こういう幸運に恵まれるのです。
ラッキーにも独占です。彼女は、中国語しか話さないのですが、かえって中国語の勉強になって好都合です。分からなければ何度でも聞き
返します。
彼女は裕固族とのことでした。
彼女が言うには、
――張掖には「粛南裕固族自治県」があり、そこには約1万2000人の祐固族が住んでいるそうです。1つの民族で自治県《以前は「人民公社」)を持ってとは驚きです。この裕固族はキルギスに攻撃されて逃げ回った回鶻(ウイグル族)の末裔ではないかといわれています。昔は仏教徒だったのです が、今は回教徒になっているそうです。
入館すると広場のような石畳に、本物よりも大きく実際の馬の大きさに近い数十頭のレプリカが並んでいました。
漢代の壮麗な軍列を思い起こさせます。 案内嬢について墳墓へ入り、30メートルほど進むと、墓道に抜けました。レンガの縁取りがしてあります。ドーム型の墓は、前,中,後の3つの墓室,さらにそれぞれの部屋に左右側室から成ると3つの側室で出来ていました。ドーム型の天井には、金色の花びらを中心にした模様替描かれています。
ドームの一部に欠損した部分が見えましが,盗掘の跡だそうです。「盗掘するとき,変な場所に穴を開けると部屋全体が崩れ落ち,生き埋めになるので,泥棒も、どの場所に穴を明ければよいか、またどこから掘り進めるか、建築学的知識や測量学的知識を叩き込んでから実行したようですよ」と案内嬢は言ったので、
私も「バカでは泥棒が務まりませんね」と応じました。
飛燕をしのぐ馬
「飛燕をしのぐ馬」は、ここに安置されていた棺の中で2千年の眠りからさめて、巴里、ニューヨークなど世界に駆け出していったのです。
現在、墓の中はがらんとして何も残されていません。 私は古代の墓の暗闇の中に、あの天を飛んでいるかのような馬を重ね合わせてみました。
口をあけた顔はほえるがごとく、そして後足の一本は羽を広げたる燕を踏みつけ
ている。空を飛ぶ燕よりも早く書ける馬――「飛燕をしのぐ馬」は、時の権力者がいかに優秀な軍馬を欲していたかを、私に語りかけてくるのようでした。
雷台の漢墓で発見された当時の青銅製の「馬踏飛燕」と「銅車馬儀仗隊」(騎馬出
行軍) 絵葉書より
現在、本物は蘭州の甘粛省博物館にあり、墓には複製が展示されています。
「馬踏飛燕」が先頭に立ち、他の馬を鼓舞しているようでした。 下の赤文字クリックよろしくお願いいたします。
クリックありがとうございます。
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