|
来た当初は、戸惑うことばかりでした。
〈親父の口車に乗ってろくに考えもしないでお遍路にやってきた。安易といえば安易、無謀といえば無謀〉と、すぐに後悔しました。そして〈三日経ったなら戻ればいいや〉と、ノルマを果たすことし考えていませんでした。もちろん遍路には何も期待してなんかいなかったのです。
一番寺の山門をくぐると僕は思わず「あっ」と驚きました。白衣姿のお遍路さんばかりだと思ったら、地元民らしい人もたくさんいるし、ジーパンをはいた茶髪の若者もいる―― 。
〈いったい遍路の世界というのはどういう世界なんだ。けっこういい加減なんじゃないのか〉と思ったのが第一印象でした。
お遍路さんたちを見て、〈善人ぶって歩いている奴らにも絶対悪が潜んでいるんだ。それをひっぺがしてやりたい。自分だけが悪い奴じゃないんだ。こいつらはどんな気持で歩いているんだ〉と、遍路そのものやお遍路さんに偏見や不信感さえ持っていたのです。
やっぱり心の持ちよう一つなんですね。私の場合には新人生のスタートという高揚した気分だったので、何もかにも華やかに見えたよ。桜も私を祝福しているように見えましたよ。
同じ日に撮影した私の写真
一番霊山寺山門
私を祝福しているように見えた多宝塔前の桜
大師堂まえの池 二日目、見知らぬおばあさんが追いかけてきて「お遍路さーん、お遍路さーん、お接待!」と言って、缶コーヒーとパンを持って追いかけてきたんです。僕は、「昼ごはんはもう食べましたから、いいです」といって断ったのです。おばあさんは少し寂しそうなそうな顔をしながら「それじゃ、気をつけて行きなさいよ」と言って声をかけてくれました。
さっきも言ったように、突然出てきたので『お接待』も何も…、全然わからなかったのです。Sさんから教わって初めてわかったくらいだったのです。お接待を断ったのは深い理由があったわけではないのです。
今までいろいろな事件が起きていて、人の優しさがすぐには信じられなかったのです。でも、後から思うと、すなおにもらっておけばよかったと思いました。大きくなってから知らない人に飲み物や食べ物をもらうなんて一度もなかったので、他人の壁を越えることが出来なかったからだと思います。あなたの話を聞いて、断ったことをすまないと思いました。
「これからは断らずにありがたくお受けするといいですよ」というわたしの言葉に彼は反応せず話を続けた。まあ、焦るまいと自分を抑えた。
四国に入ったとたんに、初日から「お遍路さん」と敬意と親愛をこめた呼び方をされ、〈何で僕のような存在価値のない人間がそのような優しい待遇を受ける資格があるのか。なんだか恥ずかしい〉と思っていましたが、今はちょっと間違っていたかなと思います。
「それはすごいことですよ。3日目でそのように思えるようになるんだから遍路もまんざらでもないでしょう?」とことさら強調した。
私は、この青年は感受性が高いなあと感心しました。だから逆に傷ついたり落ち込んだりもするのだなと思った。それだけにハードルが高いかな…とちょっと不安な気持ちだった。 (続 く)
|
ひきこもり青年の歩き遍路
[ リスト | 詳細 ]
|
出発の朝 同じ富士山を見たY君と私
翌朝、つまり出発の朝、父が「出発の時間だぞ」と父に促されて、一階に下りて行くと、母が既に玄関の外で待っていました。母との久しぶりの対面です。首には僕が鏡を投げつけた時の傷跡がくっきりと残っていました。僕はそれを見た時気味悪さを感じましたが、心の痛みや謝罪の気持は別段わいて来ませんでした。まるで自分とは無関係のものを見ているかのようでした。
僕は四年ぶりに玄関に立ちました――。
いよいよ出発というわけですね。
まあ、確かにそうなのですが…。
でも僕は、まったく感情を抜き取られたように、大きなリュックを背負ってただ突っ立っているだけ、という感じでした。
朝の光だけがやけに賑々しく輝いていたのが印象的でした。何せ、ずうっとカーテンを閉めっぱなしでしたので…。
母の運転する車に乗り込む時、父は「いよいよ新しい人生への旅立ちだな」と、ひとことぽつりと声をかけました。
僕はうっとうしいので、こくりとうなずいただけでした。心の中では、あんたのせいで遍路なんてわけのわからないものに行く羽目になったんだと、文句の一つも言いたい気持ちでした。
車に乗り込んだとたん母は、「忘れ物はないの…」と声をかけました。この言葉を聞いたのは四年ぶりだったような気がします―― 確か大学受験のときに母が付き添って来たとき以来だと思います。
「うるせーなー、何年経っても同じなんだから! 何を持って行っていいのかわからなのに…。それにちゃんとあんたたちが用意してくれたんだろう」と、僕は口答えするように言いました。このやり取りもやっぱり相変わらずでしたね。
母は発進する前に、太陽に向かって目を閉じて合掌しました。何を祈っているのだろうと思うと、つっけんどんな態度が申し訳ない気がしました。僕の中に滞っていた感情の血液がほんの少し流れたような気がしましたね。
空港に向けて車が発進すると、うっすらとかっている霧が、太陽の光を受けて、前方から次々に晴れていくようでした。まるで行く手が開かれていくようでした。
「Hの前途を祝福してくれているようね」と、母は前方をみたまま言ったのですが…、僕にはその言葉が空々しく響きました。母は時々話しかけるのですが、僕はとうとう空港まで、一時間あまり無言のままでした。母は話すのをあきらめたようです。今思うと母はどんな気持ちだったのでしようね。
搭乗ゲートに入る時、「じゃあ、気をつけて」と、母は小さく手を振りました。僕はわずかに手を挙げただけでした。
実は、とにかく何もしたくなかったのです。ただ、ただ、うっとうしかったんです。
いよいよ離陸のとき、飛行機に乗るのは初めてでしたので、幾分かは期待感があったのですが、それ以上に、これから出かける、気乗りのしない四国遍路に不安感とうっとうしさを感じていたのです。圧倒的にこの感じでしたね。
離陸後まもなく、まだ雪をいただく遠くの山々が見えてきたのです。朝の太陽を浴びてオレンジ色に照り映えています。なぜか輝いて見えました。
なにせカーテンを引いた薄暗い部屋で、絶望的な孤独にさいなまれながらひきこもっていたんですから…。僕にはまったく違った世界のように見えたのは当然だったのでしょうね。山並はどんどん過ぎて行きました。そのうち、遠くに富士山が見えてきたんです。上空から見るのはもちろん初めてでした。きらきら輝く雪をたたえ、あざやかな紫色を快晴の空にくっきりと浮かび上がらせていました。雄大というよりも神々しい姿でした。こんな光景を見るのはもちろん初めてでした。僕はそれにぐんぐん引き込まれていきました。
「え〜っ、実は私も飛行機から富士山を見たんですよ。私は4月4日だったのですが、もしかして君もそうですか?」
「はい、そうです」
私は偶然に驚きました。同じ日のほぼ同じ時間に、同じ富士山を見たことになる。そのことに、四国遍路でよく使われる「ご縁」を感じた。
私は伊丹で乗り換えて、大阪梅田から高速バスで四国入りしたのだが、Y君は徳島までの直行便だったのだ。
Y君は話を続けた。
そのとき突然、――今こうして富士を眺めている自分という存在はいったい何だろう――という思いがパッと浮かび上がったのです。
まるでせき止められていた想いの川の水門が開けれたように、自分の幼い時からの過去がどんどん流れ出してきたのです。
私はY君の話の随所に文学的、心理学的な言葉が出てくるので、相当に読書していたことがうかがえた。
不思議ですね。なぜこんなすばらしい光景の中から忌まわしい過去なんかが浮かんで来るんだと思ったのですが、僕はその過去に身を任せていました。そしてあえて後ろを振り返ることで、現在のの自分を確認してみようと思ったのです。なんだか自分の過去が遠い世界のように感じられ、他人の人生を見るような目で自分自身を見つめていたのです。だから、Sさんが、「僕」を「彼」に置き換えてごらんと言ったとき、わりと簡単に切り換えられたのだと思います。
「さて、そろそろお遍路を始めてからのことを話してみてくれる?」と、私は話を現在に近づけよう思った。そうでないと明日以後の話につながっていかないからだ。私は、彼が明日から遍路を続ける意思があるのかどうか、非常に不安だった。とにかく明日、焼山寺の難関を乗り越えさせることが、彼の立ち直りのカギを握っていると考えている。ぜひ登らせたいという気持ちでいっぱいだった。 (続 く)
いつも応援のクリックありがとうございます。
|
|
私はY君がどんな話をするのか全く予測がつかないので、期待感でドキドキした。
父はこんなようなことを言いました。
――大学にまともに行っていれば、四月からは就職して社会人になるんだ。だからといって、すぐ働けとは言わないが少し外へ出てみたらどうだ。 お遍路は心が癒されていいというぞ。おれは、退職したら必ず四国遍路をやるつもりだ。そうと言ってからいろいろとお遍路のよいところを並べ立てました。そして、「お前もやってみたらどうだ」と盛んに勧めたのです。
「だまされたと思って三日間歩いてみろ。それでどうしてもだめだと思ったら帰って来い」と助け舟も用意しました。
僕はそれまで遍路と言う名前だけは聞いたことがあったのですが、自分とは無縁のものと思っていました。だからまったく気が進みませんでした。
「急にお遍路と言われても、何もわからない僕には無理ですよ」と、拒否反応を示すと、
この地図は歩き遍路の皆さんにとってはバイブル的存在だということが、四国に来てよくわかりました。それに、「必要な持ち物はちゃんとそろえてあるから大丈夫。宿も明日から5日分予約してあるよ。遍路一式は一番札所で買いなさい」と、とても手回しがよいのです。これでは行かざるをえませんよね。
それに、子供のころから父には逆らえませんでした―― これがダメだったのかもしれませんね――。 それに家にこもってばかりいてもしょうがないし…。もちろん、ひきこもっていて心配をかけたという気持も働いていました。要するに自分の意思でなく、安易な気持で承諾しただけなんです。
――こういう経緯で、僕は遍路にやって来たのです。
自分でも、ちょっといい加減だと思いますね。
「いやいやそんなことはないですよ。出てこようと思っただけでも偉いよ。たいていの人は、旅行したら? とか、遊びに行こうよ! なんて勧められたって出ようとしないんだよ。自分の部屋から出ることだけで怖がるんだけれども……、やっぱり君は偉いよ」
私はお世辞でなく心からそう思った。いったんひきこもった人を家の外、いや部屋の外に出すことさえも困難なことは、私は嫌と言うほど見聞きしてk来た。
「不登校や引きこもりはいつか必ず治る」―― と、私は多くの専門家から聞いていた。それを信じて、不登校生徒や親に接してきた。親や教師は我が子や生徒が必ず立ち直ると信じて、忍耐強く付きき合っていかなければならなないんだな〜と、Y君の話を聞きながら改めて感じた。Y君の場合もまさに当てはまると思った。それにしても、Y君の親は合わせて6年間も辛抱強く接して来た。いつかお会いしてお話を伺いたいものだ思った。 (続 く)
にほんブログ村 (クリックお願いします)
いつも応援のクリックありがとうございます。
[ひきこもり青年の人生を変えた歩き遍路 前回までの記事]
1ひきこもり青年との出会い. 2.こころ開き始めた青年 3.お接待ってどういうことですか? 4.丁重なお接待もあるんですよ 5.お接待を受けたらどうしたらいいのですか? 6.人生リセットの歩き遍路 7.新人生の夢を熱く語る
13母への暴力 14母への謝罪の想い 15ついに自殺を図ったY君
|
|
僕は死ぬことさえできなかった自分に腹が立ちました。いくらかエネルギーが残っていたんですね。
三日後、二度目を決行しました。今度は、首をロープの輪に差し入れようとすると、〈お前は私の夢なのよ。死なないで…〉と、まるで観音様のようなおだやかで柔らかい声がどこからともなく聞こえてきたんです。なんとなく母を想わせる声でした。「私にはかけがいのないあなたがいる。それだけでいい」と言っているようにも思えました。
目から涙が一筋、静かに零れ落ちました。それに引きずられるように、両目からとめどなくあふれ出てきたんです。ロープをもったまま、涙が出るにまかせていました。ただただ無心に泣きました。苦しみもすっかり消えていました。このときばかりは、何だか人間が戻ったようで…とても清々しい気分でした。こんな気分は生まれて初めてだったような気がします。
自殺を思いとどまるケースで多いのは、独身の人は親のために、家族がいる人は愛する家族のため…、いうのが大多数だよね。君の命を救ったのは、お母さんの愛情だったんですよね。これは絶対間違いないですね。お母さんがつらい思いを殺して、君にご飯を届け続けたからなんだよ。それがなけれ間違いなく死んでいたと思いますよ。
今思いますと…、自殺未遂という段階を経ないとだめだったような気がします。
しかしですね………、部屋に戻ってしばらくするとまた落ち込んでしまいました。《自分が死ねば母が悲しむ。もう死ぬことさえ出来ない。進むべき道も、逃げ道もなくなった》――という絶望的な無力感にさいなまれたのです。苦しんだりあがいたりするエネルギーさえもなくしてしまいました。むしろそれまで以上にひどかったです。
僕は、ただ「在るだけ」で、救いも慰めもない世界の中に頼りなく投げ出されている――。そんな感じでした。
そういう場所に置かれた人間を襲う、とてつもない孤独に陥っていたと言ったらよいのでしょうか。それが遍路に出かけて来るまでずっと続きました。
私は、遍路という言葉が出てくるのを待ってましたとばかり、「どうして遍路に出てくる気になったの?」と問いかけました。
ひきこもってから四年近く経った頃でした。大学に通っていれば卒業する時期です。そろそろ何とかしなければと、自分でも思い始めていたんです。自分でも不思議でした。その当時の僕に判断力や思考力が残っていたんですね。
そんな折、父が部屋を静かにノックして「久しぶりに少し話しをしたいんだが…」とおだやかに声をかけてきたのです。
人恋しかったのでしょうね。僕は何のためらいもなくドアを空けていました。
この「ためらいもなく」という言葉は、私に一筋の光明をあたえてくれた。 (続 く)
にほんブログ村
(クリック)
いつも応援のクリックありがとうございます。
|
|
Y君は記憶をたどるように淡々と話しを続けた。その様子は、むしろ懐かしむようでもあった。それを見て私は、彼は立ち直りの方向へ向いているなあと感じた。後は遍路に来たきっかけを聞いて、明日の難関に挑戦するように仕向けることだと思った。
孤独になってからも、自分はどう生きていけばいいのかとか、なんで自分は生まれてきたのだろうとか、もがきながら考えていました。しかし、わからずに苦しんでいました。あがけばあがくほどあり地獄に入ってしまって…、結局、這い上がれないまま、投げやりになって…、あがくエネルギーもなくなって、ひきこもりを続けていました。
私が関わった生徒たちもそうだったので…、「なんか想像がつくよ」と心から同調した。
自分が生まれてきた意味を見出せなかった僕の思考は、次第に「死」へと向かっていったんです。
たぶん、《もう死ぬしかない》という思いを通り越して、《死ぬことが今の自分には最善だ》と考えるようになっていました。死ぬと決めてからは、気持ちが楽になりました。
僕は、みんながよくやるリストカットはやったことはありません。あれは本気で死のうとするのではなくて、単なる苦し紛れの自虐行為だとしか考えていないからです。
確かにそうだね。私もそう思いますね。
やはりあなたもそう思いますか!? 死ぬならば確実に死ねる首吊りを実行しようと考えていました。二度自殺をしようとしたんです。
だけどこうして生きているんだから、ほんとうによかったよね。「死んで花実が咲くものか」ですからね。
僕の部屋の隣は物干し場になっているんです。高さ2メートル半ほどの四本の支柱は上部が厚板でがっしりと補強されていて、すのこの床の周辺には転落防止のために丈夫な柵と手すりが廻らされてあります。
うん。私の実家の物干し場もそうなっていたからよくわかるよ。実は僕も中学校と高校の時に自己嫌悪に陥って、物干し場で死のうと思ったことがあったんだよ。だから君の自殺を咎める権利はないんですよ。
私は、そういう経験の持ち主が今ではこうしてアドバイザーになっていることを彼に感じてほしかった。だから、あえてぼろをさらけ出した。
話しの腰を折ってしまいましたが、どうなったの?
僕は手すりに上がって、洗濯用の太目のビニールロープを二重にして、張り板にしっかりと8の字に結びつけました。そして強く引っ張り、切れたりはずれたりしないかを確かめました。
その時、自分でも不思議なほどに落ち着いていたんです。〈死ぬってこんなものなのかなあ、意外にあっけないなあ〉と、まるで他人を見る目で自分の死を見つめていたように思います。恐怖心もまったく感じませんでした。
ところで、あなたのときはどうでした?
もう何十年も前のことなので、覚えていないんだけれど、怖いって感じはしなかったと思いますね。
両手でロープ握り、ロープの輪をすこし広げながら、最後の青い空を見上げました。その中におもむろに自分の首を差し入れました。〈これで楽になれるな〉と思いました。これははっきり覚えています。
手すりからまず左足を少し前にはずし、次に軸足の右足をけりました。そして、ロープに垂れ下って醜い屍をさらしました――となるはずでした。
そう言って彼は、初めてちゃめっけのある笑顔を見せた。
ところがまるで何かに導かれるように、何事もなかったように手すりから下りていたんです。そして再び手すりに上がり、結んだロープをはずしていたんです。とても自然な行動でした。何も考えていませんでした。現実のものとは思えない出来事でした。あれはいったい何だったのでしょうか…、今だにわかりません。
だけど部屋に戻ると、猛烈に自分を責め続けました。死ぬことさえも出来ないのか、そこまでおれはだめ人間なのか……と。
彼の体験は明らかに私の場合とは違っていました。彼を自殺から救ったのは何だろうと、私は盛んに頭をめぐらせました。それがわかれば、彼の立ち直り大きく前進させることができると思いました。もっとじっくりと話を聞けば糸口が見つかるかもしれないと思いながら耳を傾けました。 (続 く)
にほんブログ村
(クリック)
いつも応援のクリックありがとうございます。
|






