東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

脳梗塞からの奇跡の生還

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脳梗塞になって人生の宝がまた増えた
感謝の心が強まったことだ
入院中ばかりでなく今なお妻には
すごくお世話になっている
体が不自由になってことさらそれを感じる
近年は妻への感謝の気持ちが強くなって来ていたが、
脳梗塞になってことさら強くなった
それが、周囲の人々への感謝にもつながっている

私の感謝の心はお遍路のお接待で培われ、
世界の一人旅でまちがいなく増幅されたな〜
思えばずいぶんいろいろな人たちの
お世話になったな〜

入院当初 一時右半身全体が硬直して全く動かなくなり
意識も薄らぎ生死も危ぶまれた自分は
看護師さん介護士さんに
ことさらきめ細かくお世話して頂いた
よくて寝たきりと思われていた自分が
初めて両足で立った時…
不意に若い女性の療法士さん(リハさん)の前で涙が出てしまった
その時のすごい感激と感謝は決して忘れない
リハさんたちの熱心でやる気を起こさせるリハビリのおかげだ
おかげで不自由ながらも歩みを進めることができるようになった

感謝は幸せを生む
脳梗塞は幸せを生んでくれたのだ
ありがとう!

退院後は「みちのく巡礼」の活動でも
色々な人のお世話になることが多くなった
それだけに感謝の心が強まった
感謝の毎日です



私の撮影した奇跡の1っ本松の写真が版画になります。
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 私は他の人から「プラス思考」だと言われる
自分でもそう思う
年々それが強くなってきた
特別意識してそうなったわけではない
いつからそうなったかもわからない

私はいつの間にか
悪いことやいやなことが起こったとき、
これが「逆に良い方につながらないか、良いことを生まないか
と考える習慣がついている
単純にそれだけである

昨年、脳梗塞になった
そのとき、「みちのく巡礼」の活動で疲れ切っていた
ストレスもかなりたまっていた
だから脳梗塞になったと納得できた
むしろ、これでしばらく自分に対しても他人に対しても
公然と休養ができるな
と思ってほっとした
まさに天より賜りし人生の休養
だと思った。

第二の人生になってから
軟着陸せずに、それ以前よりも
むしろひたすら突っ走ってきた
“新しい人生を歩むんだ” などと気負って
ペンネームに「杜泉“新生”」などとつけて
世界のあちこちを旅したり、遍路したり…
夜中も飛び起きてパソコンに向かって書き出したり
かなり無理をしてきた

そろそろ一息入れたら?
という天のささやきだったのかもしれない
天からの大きなプレゼントだと思った
退院してからは極力無理をしなくなったし
気力的にも体力的にも出来なくなった
スローペースのプレゼントだ
生活も以前よりは規則的になった
リハビリは休息だ
これならかえって長生きできるかな?
人生観も広がったかな
歩けない人の気持ち、車いすの人の気持ちも
少しは分かったような気がする

医者に“死ぬかもしれない”
“よくて寝たきり”と思われたのに…
両足で立てるようになった
そして曲がりなりにも歩みを進めている
東日本大震災の時 、金華山で3度も命拾いをした上に
脳梗塞でもまた命が救われた
なんて幸運な奴だ
もう死ぬことは怖くない
この思いも強みだな〜

何せよいことずくめなのだ。
でも、まともに歩けないのはちょっぴり悔しいな〜
でも、歩けるようになるぞ〜という
チャレンジ目標ができたんだからいいじゃないか。
仮に歩けなくても、まともに歩けないからこその
新しい人生も見つかると思う
そう思うと わくわく感さえある

やっぱりトータルで考えれば
脳梗塞万歳!

人生 山あり谷ありだが、
トータルで見れば
断然プラスだよ


脳梗塞になって人生の宝がまた増えた
感謝の心が強まったことだ
入院中ばかりでなく今なお妻には
すごくお世話になっている
体が不自由になってことさらそれを感じる
近年は妻への感謝の気持ちが強くなって来ていたが、
脳梗塞になってことさら強くなった
それが、周囲の人々への感謝にもつながっている

私の感謝の心はお遍路のお接待で培われ、
世界の一人旅でまちがいなく増幅されたな〜
思えばずいぶんいろいろな人たちの
お世話になったな〜

入院当初 一時右半身全体が硬直して全く動かなくなり
意識も薄らぎ生死も危ぶまれた自分は
看護師さん介護士さんに
ことさらきめ細かくお世話して頂いた
よくて寝たきりと思われていた自分が
初めて両足で立った時…
不意に若い女性の療法士さん(リハさん)の前で涙が出てしまった
その時のすごい感激と感謝は決して忘れない
リハさんたちの熱心でやる気を起こさせるリハビリのおかげだ
おかげで不自由ながらも歩みを進めることができるようになった

感謝は幸せを生む
脳梗塞は幸せを生んでくれたのだ
ありがとう!

退院後は「みちのく巡礼」の活動でも
色々な人のお世話になることが多くなった
それだけに感謝の心が強まった
感謝の毎日です



私の撮影した奇跡の1っ本松の写真が版画になります。
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  入院から数日は1日のうちの大多分の時間は眠っていたように思う。 
 主治医は日増しに病状が悪化する私の様子を見てさぞ心配だったのではないだろうか。初めの数日間は朝晩様子を見に来てくれた。患者の私よりもむしろ心配している様子が、表情から察知できた。若いので顔に出るのだろう。楽観的な私もその表情を見て不安を覚えた。看護師さんたちも他の患者さんのナースコールで来たついでに様子を見てくれた。こんな様子を観察していると、自分は容易ならざる事態なのだなと思わざるを得なかった。そして幾分死を意識した。
  カーテンも四六時中閉ざされていて周りが一切見えず自分がどんな状況の中におかれているのかさえ全くわからない。まるで孤独の世界だった。最初の5日間は妻が日中はずっとついていてくれた。これが安心感を与えてくれた。とてもありがたくもあった。
  意識が薄いのに妙に感覚が研ぎ澄まされている自分が不思議に思えた。
 死を意識したが、あまり死は怖いとは思わなかった。〈これまで7度も命が助かっているのだからまあいいか…〉という開き直りにも似た気持ちだった。
 自分が死に近づくと、死んだ身内のことを考えるという。私の場合、父のことを想った。実は、私の父親は脳梗塞で死亡したのです。《、自分も父と同じ病で死ぬのかなあ》と淡々と思った。
 父は入院する前日、家の中で転倒して敷居に頭を打ち付けていた。父は「たかがこぶができたくらいで病院なんかに行ってたまるか。大丈夫だ!」と言い張って、病院行きを渋っていたのだが、母が心配して病院へ行くことを強く勧めた。
 それでやっと承諾して病院行きを決めたのだが、直前まで卓球をしていた。そして「休養だと思ってちょっと出掛けてくるよ」と言って、午後3時ころに車で送られて行ったそうだ。ところがその晩、容態が急に悪化して意識不明になり、あっという間に死に至ったそうだ。
54歳というあまりにも若い死だった。

 私は、薄れる意識の中でも意外に冷静に物事を判断していたように思う。
 命をとりとめても寝たきりか、少なくとも重度の後遺症での介護生活を覚悟していた。しかし意外にまるで他人ごとのように冷静にそれらを受け入れていた。
 客観的に考えることが出来たのは、これまであまりにも無理をしすぎてストレスを貯めすぎたからだな〜と、その時自己分析出来たからだと思う。これまでの人生、無理を重ねてきた結果だと妙に納得していた。
 このまま死を迎えるにしろ、寝たきりになるにしろ、ゆっくり休めるな〜という気がしていた。 だからこの病気にかかったことは、天の思し召しであり自分に長期休養を与えてくれたとさえ思えた。そして、何かに行く末をゆだねるといった落ち着いた心境だったような気がする。(続 く)




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  呼吸困難と頭頂部付近の頭痛が脳梗塞の前兆あるいは 初期症状だったのかも?
 
 身体がほとんど動かず外界への意識反応もほとんどなかった意識混濁の中で、内面の意識は不思議に働いていた。しかし、周囲の人々は外への反応のない私を心配していたに違いない。しかし、当の本人はまるっきり自分の世界の中で思考をめぐらしていたのかもしれない。
 そんな中、私が疑問に思っていたことは、入院の16日前にから起こった頭頂部周囲の頭痛と鼻呼吸の困難さだ。これについては、入院中時々考えていたし、今なお疑問で、興味深いのです。
もしかして、過度のストレスのせいだったかもしれないし、これが脳梗塞の前兆だったかもしれませんし、すでに徐々に脳梗塞が起こっていた症状かもしれません。とにかく当時の様子を紹介します。

3月20日の連休前日の金曜日、夕方から鼻づまりによる息苦しさと頭頂部の比較的的広い範囲で 軽い頭痛がした。
どうも時々起こる持病の蓄膿症による症状とはちょっと違うとは思ったが、あいにく病院が休院のため時々服用している蓄膿症用の漢方薬を飲んで様子を見るしか方法がなかった。
しかし、土曜日も症状が治まらなかった。
3月下旬でもあるし、ひょっとして花粉症の始まりか? 
という疑いも浮かんだ。
これまでは鼻が悪くても幸い花粉症だけは免れてきたのだが、そんな自分にもついに来るべきものが来たかという感じがした。
だが一方では花粉症ではないのではないかというはかない望みもあった。
れでこれまでの経験から、単なる蓄膿症ならば運動して血液の循環を良くすれば症状が治まるという思いもあり、翌朝ノルディックウォーキングに出かけてみた。
確かに歩いている時には朝の冷気で冷やされると症状が緩和した。
しかし、帰宅してみると余計に鼻の状態がひどくなった。
翌日もウォーキングの後状況が悪化したので、外へ出て花粉を吸いこんで花粉症が悪化したのか?という思いが強かった。
いよいよ花粉症であると確信せざるを得なかった。

だが、連休のため耳鼻科に行くことが出来ず、鼻づまりによる呼吸困難に耐えながらひたすら忍の一字であった。
夜眠れないのが一番つらかった。
わずかに、冷凍パックで冷やすと症状が和らぐことが唯一の救いだった。
暖房のかかっている部屋に入ると鼻が乾いた状態になるので、廃棄ガスか暖気アレルギーかもしれないとも考えた。いろいろ考えあぐねて何が何だかわからない状態だった。過度のナーバス状態だったと思う。

待ちに待った連休明けだ。さっそく耳鼻科へと向かう。マスクをした患者が大勢いる。〈みんな花粉症か〉と思う。1時間ほど待つと私の名前が呼ばれて診察室へ入った。診察室内の椅子に座って様子を見ていると、医師はまるで流れ作業のごとくてきぱきと患者をさばいてゆく。

いよいよ私の番が来て診察台に上がると、お医者さんはいかにも忙しそうにお決まり口調で「どうしました?」と一応尋ねる。私はオウム返しのように「もしかして花粉症かもしれません」と答えると、「どれ」と言って鼻の中を覗いた。「けっこうきれいですよ。一応鼻のレントゲンを撮ってみましょう」と言われ、少し待った後撮影を受けた。その後鼻洗浄をし、再び診察台に上るとまずレントゲンの説明を受け、「抗アレルギー剤を出しておきますので、様子を見てよくないようでしたらまた来てください」と言われた。本人はこんなに苦しんだのにいたって簡単だなと思った。

帰宅後処方された薬を飲み時々点鼻薬をさすが、一考に好転の気配がない。何がアレルゲンになっているのかわからず、不安といらいらがつのるばかりであった。
暖房の効いた部屋へ入ると花が乾いた状態になり、鼻づまりと呼吸困難が一層ひどくなった。毎日苦痛の日々が続く。
何がアレルゲンかわからず、それによるストレスははかり知れないものだった。
苦し紛れに思いついたのが、加湿型空気清浄器だった。
泉中央のコジマ電気へ駆け込み真剣に見回る。
店員にいろいろ薦められたが、苦しさから逃れるためには出来るだけ高級品が良いだろう――まあこれはきれいになりたいと願う女性の心理と同じだろう。
イオンタイプの空気洗浄機を38千円の大枚をはたいて購入した。
翌日、つまり第1回の来院から4日目に再び通院した。
「ずいぶん早いですね」と言うので、
もしかするとドライノーズではないかと言うと、医者は
「ドライノーズなら隣の薬局に薬が売っていますよ」
とちょっと不愉快そうだった。
隣の薬局でドライノーズ用の薬を買う。
成分を見ると、ネットで調べたとおり、基本的には食塩水の一種だった。しかし、ドライノーズ用点鼻薬はその時だけで、長続きはしなかった。
根本的にはほとんど快方に向かうことなかった。
そこで、何に対して反応するのか検査してもらうために46日に徳洲会病院に行った。
ここからが、「脳梗塞からの奇跡の生還1」の記事です。
1週間後妻が結果を聴きに行ったところ、全くどの花粉にも反応しなかったそうです。
 呼吸困難と頭頂部付近の頭痛はいったい何に起因するのでしょうか?
過度のストレスにによるものか、
それとも脳梗塞の前兆あるいは脳梗塞の初期症状だったのでしょうか?
 もし、この症状の時に耳鼻科ではなく脳の病院に行っていたら軽く手済んでいたのかもしれません。そんなことを考えても結果論ですね。



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 救急車を呼ぶべきだった〜右半身硬直・意識混濁

急いで病院に駆け付けたにもかかわらず、受付担当に十分な連絡が届いていないのか、それとも軽いとみられたのか、受付書類に記入させられた。やっと握った鉛筆でかろうじて記入した。緊急だというのに何故こんなことをさせるのだと腹立たしかったが、怒る気力もわかない。
妻は保険証の提示を求められて自宅へ急いで取りに戻って行った。
後で思うと二人とも正常な状態ではなかったし、おとなし過ぎたと思う。こんな時にはガンガンがなり立てて、緊急性を訴えるべきだったと思う。抗議をしないで、ただ待合室でぐったりと長椅子に寄りかかっていた。結局25分ほど待たされてしまった。やはり救急車を呼ぶべきだった。そのことは後から多くの人から指摘を受けた。待っている間にも次第に気力が萎えてくるのを感じた。

名前を呼ばれて立ち上がろうとした時、右足に全く力が入らずそのまま前のめりに転倒してしまった。自分では記憶にないが、幸いにも両手をついたので頭は打たなかったとのことだ。 あわてて看護師が駆けつけてストレッチャーに乗せられて一旦集中治療室へ運ばれた後、MRIで脳の検査をけた。検査の前に、装置の中で息苦しくならないかということを心配したこと、「30分ほどで終わりますよ」という検査技師の安心させようという気づかいの言葉、12年前に受検したときよりは大分騒音が少なくなったことが、がうっすら記憶に残っている。
終了後、主に脳治療を施す西病棟の病室へ移された。ここが23日間の脳梗塞治療の拠点となったのである。
 早速、若い主治医と看護師二、三人がやって来ていろいろな問診を受けた。「あなたのお名前は?」「ここはどこだかわかりますか?」「今日は何月何日ですか?」などを聴かれたことは覚えているが、他はあまり記憶にない。
 並行して点滴が開始された。2週間の点滴治療の開始である。

 主治医は不安な顔で私を覗きこんでいる。それを見て私も不安になった。
 まず、左右の手足の動きを求められた。受付での動きと比べると、手も足もだいぶ動きが鈍くなり重くなった。それでも寝た姿勢で腕も足もどうにか上がった。手首を返してキラキラ星の手の動きもかろうじて出来た。

 しかしながら、寝ている内に右の手足が次第に重くなり動きが悪くなってゆくのを感じた。顔面も右半分がほとんど動かなくなった。手がこんなに重く感じるとは…、まるで腕に10キロほどの重りをしばりつけたようだ。
 脚が一本の棒のように感じられた。足首は伸びたままいわゆる尖足状態だ。寝返りも打てず、体全体が重くそして固くなってゆくのを感じた。体全体がいうことをきかず、まるで他人様(ひとさま)の体という感じだった。

 このようにどんどん病状が悪化し、日ごとに気力も意識も薄れてゆくのを感じた。そして三日後には意識が混濁し、死後硬直のように右半身が全く動かなくなり、口も殆ど動かず、話すことも出来なくなってしまった。数日間は様態が安定しないということはのちにわかったが、その時には次第に奈落に落ちていくような気分だった。しかし、なぜか死の恐怖はなかった。
続 く)

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