隠された経典はどうなったのか?小説『敦煌』で、主人公趙行徳が莫高窟に隠した経典は、その後どうなったのだろうか?高校生の私には、そのことがすごく興味があった。 大学生になったら絶対に調べてやろうと思った。 小説で趙行徳が隠したと設定されているが、実際には、
いつ、誰が、どのような事情で、17靴に蔵経して封じたのだろうか? 大雑把に言うと、二つの説がある。 その1 西夏が敦煌に攻めて来るというので、それに備え、仏典を護るために封じたということで、 1304,5年。 小説「敦煌」はこの説に基づいて書かれている。 その2 中国の西端のカシュガルで興ったカラハン王朝が東を攻め、当時敦煌を支配していた西夏を攻め落とそうとしていた。仏教を尊信していた西夏は、それに備えて敦煌の仏教徒に蔵経堂を封じさせた。
実際はどうだったのだろうか?
この謎はいまだに解明されていない。 敦煌の莫高窟には、4世紀から元代の14世紀までの千年の間窟が掘られ、
塑像が造られ壁画が描かれたが、唐の時代にその盛りを迎えた。 多くの王朝の消長に伴い、敦煌の地も漢民族の支配をうけたり、周辺の民族の支配下にあったりと、 めまぐるしく変転した。 それを反映して莫高窟には、唐のほか、十六国、北魏、西魏、北周、隋、吐蕃、西夏、元の各時代の特色を持った窟が存在する。 それらの石窟は、南北1600メートルにわたって連なっている。 私は3度訪れ、述べ15日見学したが、それでも半分も見ることができなかった。 小説『敦煌』で、敦煌を征服した 西夏も、熱心な仏教徒であるためいくつかの窟を造営した。←詳しくはクリック
西夏時代の壁画。
隠されてから元代までは石窟には多くの人間が出入りしたはずだが、 見つからなかったのは不思議なくらいである。 明の時代になると中国王朝の支配範囲が狭まり、仏教に熱心でない民族に支配されたため、
保護されることなく敦煌は孤立した。 そして放置され、砂に埋もれてしまったのである。 それがむしろ敦煌にとって幸いしたとも言えるだろう。 現在でも、手を施さないとたちまち砂にうずもれてしまうそうで、苦労して管理している。 砂に埋もれかけている石窟
莫高窟の発見は偶然だった。敦煌の膨大な美術が注目されるのは、二十世紀の初めの偶然の発見だった。廃虚のようになった莫高窟に住み着いていた王円籙という坊さんが十七窟に膨大な経巻、刺繍、絵画、仏典がぎっしり詰まっているのを発見した。 隠されたのが11世紀だと仮定すると、20世紀に発見されるまで、1000年近くも気付かれることなく洞窟の中で眠り続けたことになる。 外国へ持ち出された文物は?敦煌から膨大な文物が見つかったというニュースはたちまち外国に流れ、イギリスのオーレル・スタイン、続いてフランスのペリオ、さらに日本の大谷探検隊などが次々敦煌を訪れた。 持ち出された文物はいま、大英博物館、同図書館、パリ国立図書館、ギメ美術館など世界各国にあり、その数は何万点にものぼる。
この海外流出については、先進国による“略奪”という評価がある一方で、それらの流出があったからこそ、保存の手が打たれたという評価もある。 敦煌研究院莫高窟の入口のすぐそばには敦煌研究院がある。そこで、学芸員にいろいろ説明してもらった。 前身の「敦煌芸術研究所」が1944年2月に設立された。 私は1989年と2005年と2008年と3度訪れた。 最初の訪問の際に西安のPさんに紹介してもらって以来、 写真撮影に協力してもらったり、資料を提供していただいたりなど、手厚く配慮していただいている。 感謝! 感謝! 創立者の常書鴻氏は、私が最初に訪れた時、こんな話をしてくれた。 絵画の勉強に留学したパリで、ペリオの著した『敦煌千仏洞』に出会い、 故国の美術品の保護を決意した。 1942年、パリ時代の油絵を売って旅費を作り、 列車やラクダを乗り継いでやっと着いた莫高窟は荒れ果てていた。 日中戦争が終わり、「敦煌文物研究所」になったころから研究は進み始めたが、 文化大革命により敦煌市内の文化遺産は破壊された。 しかし、当時の周恩来総理の「文物保護」の命令もあって、莫高窟は被害を免れた。 |
回想シルクロード
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小説『敦煌』 への大人の恋
50年ぶりに開く2冊目の小説『敦煌』――
ページをめくり始めたとき、おそらく高校時代とは違った出会いがあに違いないという強い期待感を持った。別な恋人が見つかるような気がして…、やはりときめきがあった。
しかし…、高校生の頃のようなワクワクするしゃにむな入れ込みようとは違って、ゆったりとした地に足の着いた心のゆらぎだった。
敦煌については、学生時代から既多くの書物を読み、何度もシルクロードに関するテレビ放送を観ているし、小説『敦煌』を題材にした映画 ―― 主人公の趙行徳を佐藤浩市、西夏の漢人部隊の隊長朱王礼を西田敏行が演じた―― も見た。
だから高校生の時のような未知への憧れは薄らいでいるが、深い意味での発見があるに違いないと別な意味での期待が大きかった。
読み進めると期待通り、実際に足を踏み入れたことのある敦煌だけに、小説のなかの情景やイメージがどんどん自分の中で消化されていく。臨場感があり、自分が主人公になりきれるときもあった。
敦煌の遺物が世界に知られるきっかけとなったのは、第十七窟に埋まっていた膨大な文物が発見されたことだった。このことが、小説『敦煌』の発想になっている。 私の場合、以前莫高窟を訪問した時にすでに第十七窟を見学もしたことが記録に残っていたが、ガイドはそこが敦煌を有名にした窟だという説明もしなかった。だから私自身は当時はそれを意識した見学の仕方はしなかった。そして、後にそのことを知って記憶をたどったのだった。
作者の井上氏は、『敦煌』を書いた時点では実際に敦煌に行ったことはなかった。文献だけであれだけの臨場感をだせるのだから、描写力には改めて脱帽した。こうしたイメージ描写について、井上氏は次のように語っている。 ――私は学生時代から西域関係の書物を読むのが好きで、西域の入口である敦煌付近の都邑については、いつからともなく、それぞれのイメージを持つようになっていた。それらのイメージは書物からえたものがもとになって、ごく自然に私の心に生まれてきたものである。そうしたもので、小説『敦煌』は書かれている。
小説「敦煌」を書いてから二十年の間、自分の小説の舞台になっている河西回廊地帯に実際に足を踏み入れてみたいと思ったし、敦煌という町も、敦煌莫高窟も、自分自身の目に収めたいという気持も強かった。しかし、文字通り中国の辺境ではあるし、望んで果たしえないことだと思っていた。(NHKシルクロード 第2巻 敦煌 砂漠の大画廊)より 井上氏は、どれだけシルクロードに行きたかったことだろう。
井上氏の自身の思い入れはもちろんだが、小説『敦煌』で書いた自分の持っていたイメージが、はたして正しかったのかを見定めたいという意味もあったであろう。その想いは読みながらよく伝わってきた。
井上氏がその望んで果たしえないことが思いがけずに実現できたのは、昭和53(1978)年と54年であった。そして永年の夢がはたされたのであった。
若い頃の私は、望んでも、望んでも手の届かない存在にますます憧れを強めていった。そのギャップを埋めようと、シルクロードや西域に関する本を読み漁った。
しかしながら、読めば読むほどかえって想いは深くなり、ギャップが広がった。世界情勢を知れば知るほど、夢の実現に対する壁は厚く、高くなっていった。
シルクロード3分の2は中国とソ連(当時)を通っている。ソ連は鉄のカーテン、中国は竹のカーテンが張り巡らされ、一般人は入国すら容易ではなかった。おまけに、1979年ソ連のアフガン侵攻が開始され十年近くも続いていた。シルクロードは「夢のまた夢」だった。 わずかに光明が差し始めたのは、日本と中国が国交を結ぶ1972年であり、ソ連崩壊の1991年であった。ところが、その後、イラン・イラク戦争(1980〜88)、湾岸戦争(1991)アフガニスタン戦争(2001)、イラク戦争(2003〜)と、シルクロード周辺は物騒な状態が続き、細いローソクの炎は風前の灯となった。 しかし、なんと幸運なことか…。シルクロード全行程を歩むことができたのは、私が定年を迎えた2004年だけだったのだ。マルコ・ポーロの道を歩める幸運が、思いもかけず廻ってきたのである。 私が夢を達成した1年後には、旧ソ連領のキルギスとウズベキスタンで相次いで内乱が起きた。そして、いったん落ち着きかけたかに思えたイラクではテロが続発し、収束することなく、アラブの春後、今度はイスラム国の問題が続いている。
あのチャンスを逃したらシルクロード全行程走破はずっと先延ばしか、永久にめぐり合えなかったかもしれない。 こうした幸運を神に感謝しながら、2004年の最初のシルクロードの旅の準備に取りかかったのである。 |







