東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

私の3.11あの日あの時

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私の3.11あの日あの時記事一覧(1〜20)


 




 



















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 大曲地区は、東日本大震災により人口1,500人ほどのこの地区で、死者行方不明者の数は280人を超えた。住人の5人に1人が亡くなったことになる。

 私は鮎川の避難所で、大曲浜地区は壊滅的な被害を受けたことをラジオで聴いていたが、3月17日に大曲地区に入った時点では、詳しいことは知る由もなかった。

  道路の両側はまるで泥沼の様だった。東松島市に入ると一様にそのような景色が続いた。
 大曲から大曲浜に近づくに連れて、水没したり流出した家が目立ってきた。
中には、見かけはしっかりしているように見えても、内部が空洞化している家ばかりだ。地盤沈下のためか、水中に浮かんでいるような家が見受けられる。


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大曲浜保育所は、がれきに取り囲まれており、建物内僕は空洞化していた。
園児たちは、どうなったのかとても気になったので、時々ネットでで調べていた。半年以上経ってからyoutubに動画が投稿されていた。保育師さんによると、(www.youtube.com/watch?v=04EJh4EIs9M
―― 地震が起きたとき、子どもたち12名ははホールでお昼寝中でした。急いで子供たちを起こして避難準備をしました。
 準備中に迎えに来た保護者には引き渡し、残っている子どもたちを車に乗せ、大曲小学校に向かいましたが、道路は­避難する車でとても混んでいてなかなか進みませんでした。途中で車を乗り捨て、徒歩で小学校へたどり着きました。靴が脱げた子供は抱きかかえて後者に逃げ込みました。この保育所では、全員の子供たちが無事でした。

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        大曲浜保育所 建物内部は空洞化して、周囲はがれきが取り囲む状態

 この動画を見て、ほっとしました。

 この地区は、壊滅状態といってよいほどの凄惨さでした。 
 大曲浜には当時、中学校の同級生が数十名住んでいました。67歳(当時)という年齢だし、車を持っていない人も結構いるだろうから、この状況を見ると、はたして無事逃げおおせたのか?と、大変気がかりだった。特に、同級生同士で恋愛結婚したO君夫妻が心配だった。O君は足を怪我して歩行が不自由だったので、余計心配だった。結局O君夫妻は、しばらく後、お互いに別の日に別々の場所で、遺体で発見された。 結局同級生全体で9名亡くなりました。心からご冥福をお祈りいたします。合掌

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 大曲地区は、皇室に献上する海苔の生産で有名で、「皇室御献上の浜」として知られていた。海苔養殖をいていた姪の夫の実家も残念ながら、流出していた。

 下台地区は最も海に近いので地盤沈下も大きいようだ。海の中に家が浮かんでいる。
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 下台地区には、6mほどの津波が来たという報告がある。
 現在は、大曲浜にある共同墓地内に、東日本大震災の慰霊碑がある。
 地元の「大曲浜区委員会」が、犠牲者の供養と、津波被害の記憶を後世に残す為、建立したものです。この大震災慰霊碑は、襲った津波の高さを示すため、台座を含め、約6メートルある。これも震災を後世に遺す導となるはずである。

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水難慰霊碑の脇に建立されたこの大震災慰霊碑は、台座を含め、約6メートルあります。この地区を襲った大津波の高さに合わせているそうです。私は、もう何度もお参りさせていただきました。
 貞山運沿いの道を歩いて、松島航空基地の前を通り実家まで向かいました。 
(続 く)
 
東日本大震災祈り・伝承・防災・復興」みちのく巡礼

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石巻西高校を後にして西へ500mほど歩くと、三陸自動車道石巻港ICの出入口付近に到達した。広域農道はここで県道251号線と交差している。

 IC出口付近の信号前で大きなトラックが横転しており、その周辺には津波で流された車が数多く重なるようにして散らばっていた。おそらく、三陸自動車道に上って津波を避難しようとした車が殺到したのに違いない。残念ながら渋滞のため間に合わなかったと思われる。
 それを想像しただけでも恐ろしくなり、思わずその場に立ちすくんで合掌し、黙とうをささげていた。この時も金華山で3度も命が助かった自分が、幸運よりも不思議な存在に思えた。

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 左折して南へ800mほど歩くと国道45号と交差するが、南に向かうかうということは、海岸方向へ向かうということである。したがって水没している可能性がある。しかしながら、45号に出た方が実家に近いし、海側の大曲地区の被害状況を調べたいという気持ちも働いた。
 45号は赤井付近では定川の堤防に築かれており、平地よりもかなり高いので、震災時には冠水したとしても現在は水が引いているだろうと推測した。もしも水没しているようならば、また逆戻りすればいいやと、探求心の方がリスクよりも上回って南に向かった。
 500mほど行くと仙石線の踏切を渡った。まだ1週間もたたないのに、もうすっかり線路はさびている。塩分の腐食力はすごいものである。遠方にわずかに赤井駅が見えた。

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県道251号と国道45号が交差する信号に到着すると、予測通り道路からは水が引いていたので、徒歩での通行が可能であった。ガソリン不足のためか、車はあまり走っていないので、比較的身の危険を感じなかった。


イメージ 3 定川橋から赤井駅周辺を眺めると、この地域は国道よりもかなり低いので、現在もかなり冠水し、がれきも散在していた。
 この付近に住んでいる高校の同級生に後で聞くと、震災当日は徐々に水嵩が増えていって2メートルくらいまで達したそうだ。彼の家は2階近くまで浸水したそうで、大規模半壊だったが、結局ほぼ全面改築だった。

イメージ 4 定川を渡って坂道を下ると、いよいよ郷里の旧矢本町に入るが、まっすぐ実家へ向かわず大曲地区へ向かった。
道路の土はまだ乾ききっておらず、周辺は一面泥沼状態で、そこにはがれきが散乱している。
 大曲小学校は、まだグランドはドロドロでがれきが散乱し、入れる状態ではなかったので、そのまま大曲浜に向かった。              
大曲浜は、壊滅状態だということは、鮎川の避難所にいる時にラジオで聞いていたので、これから恐ろしいところに向かう気持ちで歩いた。この地域では中学校の同級生が9人亡くなっていることを、後に同級会で聞かされた。(続 く)


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  メロンパンで元気をもらった私は、三陸自動車道に沿った農道を故郷・矢本に向かって歩き始めた。
  道路自体は、どろどろした土に覆われているが、ぬかるみや水たまりはあまりなく、石巻市街に比べればさほどひどい状態ではなかった。だが、道の両側の田や畑はまだ水没していて、まるで沼地の真ん中の泥道を歩いているようだ。道路は田畑よりも2メートルほど高いので早く水が引いたのである。
 ここは海岸から4キロ近くも離れている。ここまで水が来たのか…と、またため息が出た。
 この地点まで水が来ているということは、近くを流れる北上運河(貞山運河)や定川を遡って来た水があふれ出たのに違いないと思った。

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 道路沿いの家の周辺もまだまだ水が数十センチほどたまっているし、いまだに床下まで水没していた。

津波からもう6日後だが、あまり人の姿はなく、時々自動車が走っているといった状態である。

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  2キロほど歩くと東松島市に入った。石巻西高校が見えてきた。周辺はまだ冠水状況にあった。この辺一帯は七反谷地と呼ばれている。谷地には「湿地」とか「水のある土地」とか「沢」という意味があるので、もともとがそのような土地なのではないだろうか?―― と思いながら歩いていた。学校はどうやら水が引いていた。田んぼに2メートル以上高く土盛りしてある。

 ちょっと立ち寄って先生に.尋ねると、避難所になっているとのことだった。3月17日の時点で避難者は265名とその先生が教えてくれた。
 また、体育館では発見されたご遺体を安置し、検視を行っている。

 赤井地区の住宅地に近づくと、自動車が水から頭をわずかに出していたり、頭から水に突っ込んでいたり,片側の2輪が水に落ちていたり、さまざまな格好で水にはまり込んでいた。

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  実家の方がここよりも海側にあるので、もっと被害が大きいのだおうなあと想像できたが、ここまでずっと悲惨な状況を見続けてきたので,そこまではひどくないだろうと、客観的な見つめるあきらめにも似た気持ちも出ていた。
 石巻西高校から赤井方面に行くと冠水が徐々に多くなってきた。これは定川や赤井堀を遡って来てあふれ出たもので、赤井駅付近は結構被害が大きかったことが家の壁や塀を見ただけですぐに分かった。ここには山仲間の一人の住宅があった。後で聞くと2階近くまで浸水があったとのことだった。(続 く)


「みちのく巡礼」の活動 主旨
   ・東日本大震災犠牲者を悼み、自らも癒され、心の拠り所となる場の創設   
・東日本大震災等の「伝承」
・「自らの命を自ら守る防災意識」の啓発
・東日本大震災の「復興」と東北の発展につながる活動

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 たった5キロほどを3時間以上掛かって、やっと三陸自動車道の石巻・河南インター近にたどり着いた。付近にはイオン石巻店がある。店の建物を見たとたん激しい空腹感に襲われた。
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 思えば、朝食前に鮎川を発って来たので、前日の夕方5時以来、ろくにお腹に入れていなかったのだ。ものすごい空腹に加えて疲労困ぱいだった。この時、戦後満州から引き揚げて来る時、極度の空腹に耐え、命の危険を感じながら、何百キロも我が子の手を引いたり、背負ったりして歩き続けた母親たちのことを想った。それに比べたら、この程度のことは何ということもないさ、と自分を励ました。

 鮎川の避難所で聞いたラジオで、―― イオン石巻店は避難所になっていて、店長が自分の判断で店の食料品を無料で避難者に配った。――という放送を耳にしていた。
〈もしかしてイオンには何か食べるものがあるかもしれない〉というほのかな希望が湧いた。半面、それを否定する自分もいた。〈食べ物なんか残っているはずはない。食べ物がなくてもとにかく腰を下ろして休みたいな〜〉―― こんな自問自答のような気持ちで、吸い寄せられるようにして建物の中に入って行った。報道されていた通り、ここは避難所になっていた。フロアーに敷かれたビニールシートの上に布団を敷いて、たくさんの人々が疲れ果てた姿で座り込んだり横たわったりしていた。
 
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 近くのおばあちゃんに「店にひょっとしてまだ何か食べるものは残っていませんかね?」と、あまり期待せずに尋ねると、
「ここの店長さんはとてもいい人でね、自分の判断で、店の商品を被災者のみんなに無料で配ってくれたんだよ。ありがたいよな〜」と感謝の気持ちを込めて言った。それを聞いた私は喜び勇んで店員さんに、昨晩からほとんど食べていないこと、これから歩いて矢本の実家の被害状況を確認し、そこから仙台まで帰らなければならないなどの事情を話した。
 すると気の毒がって、「ちょっとお待ちください。探してみます」と言って、どこからかメロンパンを持って来て、まるまる一個提供してくれた。思わず〈こんな大変な時にまるまる1個も…〉と、驚きよりも感謝の気持ちでいっぱいだった。大震災以来、パン一個なんて食べたことがない。
 終戦後で物が不足していた子供の頃ならいざ知らず、近頃はメロンパンを当たり前のようにあまりありがたみも感じないで食べていた。しかし、このパンは最高級料理よりもおいしかった。この時のメロンパンは、「一生で一番おいしいしかも感謝パンになるだろう。この一個のパンは、「幸せとは何か」を強く感じさせてくれた。
 まさに人生の恩人でもある。
 大変な時、苦しい時だっただけに、温かさがずしんと心にしみた。
 強い感謝がみちのく巡礼の活動への頑張りの後押しになっているのです。

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