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津波の悲惨な爪痕に心痛めながら石巻の街を歩く
三陸自動車道に行くにはどう行けばよいのか全くわからない。高校卒業してからほとんど石巻に来たことがない。すでに50年経つので、街の様子がすっかり変わっている。途中で何度か道を訊いたが、地元の方が教えてくれるのは、近道なのだろうが却ってわかりづらい。何度も迷ってしまった。
三陸自動車道の石巻河南インターは、山下よりは西に位置するはずなので、いくらかでも西へ進みたい―― その一心でそちらへ向かうと、未だに冠水していたり、道が陥没して深い水溜りになっていたり、がれきが道をふさいでいることもあった。
その都度、遠回りしたり、逆戻りせざるを得なかったりの繰り返しだった。。お金はあるがお店が開いていない。肉体知的な疲労に精神的な疲労が重なってほとほと参った。食べていないことも疲労をさらに大きくしていた。
私がかろうじて覚えているのは国道45号線と石巻駅だけである。そこで、悪戦苦闘の末、たどり着いたのは〈石巻駅へ行く〉という考えだった。結局、1時間以上のロスだった。
石巻駅付近までたどり着いて、〈矢本に立ち寄って仙台まで帰りたい〉と話すと、「それは無理だよ。市役所が避難所になっているからそちらに行くといいよ」親切にアドバイスしてくれた。―― 以前のさくら野百貨店が現在は石巻市役所になっている。山仲間も総合運動公園で別れるとき避難所へ行くつもりだと言っていた。 ―― しかし私は、どうしても早く仙台まで戻りたいという気持ちは動かなかった。
何人かの人に尋ねると、三陸自動車道に沿って走る農道は道路自体からはほとんど水が引いているので、そちらがよいと言う。山下で自分自身が思ったことと同じだった。とりあえず東松島市の実家までのル−トはめどがついた。今度は、多少遠くとも広い公道を教えてもらった。
それにも関わらず、地図がないのでとても不安だった。勘だけが頼りで、どこを歩いているのかよくわからなかった。もともと地理が分からないので当然のことだった。 かなりの地域でまだ水が引いていないし、未だに水没しているところや泥で覆われているところがかなりあった。 靴の中は泥水だらけで、歩くたびにピチャペチャ、グチャグチャと音がする。 現在は水が引いているところも、床上浸水した跡がくっきりと見えていた。 海から数キロも離れたこんなところまで水が襲って来たのかと、恐ろしくなるような光景の中をひたすら歩いた。 三陸自動車道石巻河南インターまで3時間以上もかかってしまった。結局、総合運動公園を出てから4時間半ほど以上歩き回っていたことになる。
疲れもだいぶ出てきた。 さすがの私も気力がなえてきた。早くどこかで休みたい。何か食べたい……。本能的な願望が、私の脳みそを占領していた。 (続 く)
東日本大震災「祈り・伝承・防災・復興」みちのく巡礼
目下、6月11日の巡礼開始に向けてけていろいろ準備を続けています。
5月30日は「みちのく巡礼札所会総会」です。 |
私の3.11あの日あの時
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高校時代のトレーニングコースを埋め尽くすがれき
市街地の見える場所から反対方向の海岸の見える場所に移動すると、日和大橋の向こうに牡鹿半島がみえた。その先端付近に金華山が位置しているが、ここからだと半島に隠れて見えなかった。大震災からのことが足早に思い出されたが、そんな余韻を吹き飛ばすように、眼下の海岸一杯に「がれきが原」が広がっていた。
この一帯はひばり野海岸と呼ばれ、高校時代陸上部の冬季練習でこの海岸と日和山のサーキットコースを走り回っていたことを思い出す。当時は砂浜ばかりだったが、その後住宅地として次第に発展し、門脇町、南浜町などの町名で呼ばれるようになった。
しかし、今は見渡すがぎり瓦礫で覆われている。
日和山のすぐ下の西光寺墓地もかなりの数の墓石がめちゃくちゃに倒れていた。
遠方には石巻市立病院が見えるが、おそらく内部はめちゃめちゃなのであろう。
石巻市立病院が機能しなくなったので、日赤石巻病院がフル稼働を余儀なくされたのだと後で知ったが、その時は想いが及ばなかった。
実家の被害が心配
仙台の自宅に早く帰りたい。元気な顔を早く家族に見せてあげたい。そんな思いが強く浮かんでくる。
東松島市の実家の家族は、一応生命は無事だと聞いているので幾分安心しているが、東松島市の津波被害も大きかったという報道を、鮎川の避難所でラジオで聴いていただけに、どうしているのか心配だ。
東松島市は石巻市から仙台へ向かう途中にある。実家は海岸から2キロ弱しか離れていないので、津波が到達している可能性が極めて高い。実家の被害状況を見るために、東松島市矢本に向かことにした。
私の母は東日本大震災より11か月前に亡くなった。こんな惨状を見ずに亡くなったことはむしろ幸せだったかもしれない…、と自分を慰めた。
そんなことを想いながら 日和山公園を後にして、海側を見ながら西に1キロほど進んだ。母校の前を通ったとき、高校2年生の時に襲って来たチリ地震津波を、グランドから半分は興味で眺めていたことを悔いの気持ちで思い出した。 山をさらに西に下って国道45号線に出るルートが東松島までは最短距離だ。だが、山下町まで下ってみると、“途中の大街道付近の道路はまだ水没している”という。仕方がないので、とにかくいったん内陸部へと向かった。三陸自動車道のすぐ脇の農道を歩こうと思った。道行く人に聞くと、「あそこもどうだかな? まだ水がかぶってるかもしれないが、とにかく行ってみらい」という。 そこで、その人の言う通り、とにかく行ってみることにした。とにかく、遠回りでもなんでもどこか通れる道を見つけて、仙台方面へ向かわなければならないのだ。選択の余地はない。
とにもかくにもそこからが大変だった。
(続 く)
「みちのく巡礼」の活動 主旨
東日本大震災「祈り・伝承・防災・復興」みちのく巡礼
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日和山公園にたどり着いてすぐさま、姉の家のある湊地区を一望できる所に向かった。そこには一面薄暗く、灰色がかった茶色の世界が広がっていた。震災前には、中瀬といわれる中洲には緑が結構見られたのに、そこからからは緑が消えた殺伐を通り越した凄惨な世界だった。まるで、戦争で焼け野原を思い起こさせた。自然が牙をむくと本当に恐ろしいと感じた。
震災後の中瀬 左上の白い丸屋根は石ノ森漫画館
北上川の対岸にある姉の家(写真右端)は, 予想通り見事に消滅していた。
がれきさえも残っていない。ますます、生存が心配になった。
1960年のチリ地震津波が日本を襲った時、最大6.1mの津波が襲った。しかし、その時姉の家は床上浸水であったが、家は無事だった。〈結果的に逃げなくてもよかった〉そと語っていた。そのイメージがあると逃げなかった可能性がある。不安が増した。
下の写真は緑があざやかだった震災2年ほど前の光景ですが、ここからは生きた石巻し甲斐が一望できました。
東日本大震災「祈り・伝承・防災・復興」みちのく巡礼
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石巻市総合運動公園(救援センター)に近いところに東松島市の弟の妻(義妹)の実家がある。おそらく、東松島市の実家は津波被害を受けたと思われるので、妻の実家に身を寄せているかもしれないと思った。
そこを訪ねれば、東松島市の実家の様子がわかるかもしれないと思ったので、義妹の実家を訪ねてみようと思った。幸い義妹の父親と兄の名前を憶えていたので、名前を頼りに探し当てた。
到着して真っ先に、弟一家の様子を訊いたところ、津波被害はあったが幸い全員無事とのことだった。とにかく無事を聞いてほっと安心した。パンとコーヒーをごちそうになりながら金華山での体験を話して、短時間でお暇して、姉一家の様子を見るために湊地区へ向かうことにした。
40分ほどかかって北上川に架かる内海橋付近にに到着してみると、湊地区へ通じる道はがれきが行く手を阻み、そこを何とか突破したが、橋は大量のがれきで完全にふさがれて渡ることはできなかった。その周辺は、まさに修羅場といってよい状況だった市街地に向かうにつれて津波の傷跡がはっきりとみえてきた。道は、まだあちこちで冠水しており、ヘドロやがれきに覆われていた。
40分ほどかかって北上川に架かる内海橋付近にに到着してみると、そこへ通じる道はがれきが行く手を阻み、そこを何とか突破したが、橋は大量のがれきで完全にふさがれて渡ることはできなかった。その周辺は、まさに修羅場といってよい状況だった。
橋の近くの中瀬にある石ノ森漫画館はどうやら形だけは残っていたが、内部はどうなったのかうかがい知ることはできなかった。
湊地区へ行くことができない。湊地区に住む姉たちのことがますます心配になった。姉の家は北上川のすぐ脇にあるので、流出は100%確実である。命だけでも助かってほしいと切に願った。
流されたにしろ、湊地区自体ががどうなっているのか知りたかった。その様子次第では、命だけは助かっていると少しは安心できるのだが…。
がれきをかろうじてわきに寄せた道路を歩いて標高50mほどの日和山へ向かった。日和山からは石巻の市街地がほぼ一望できるのである。
みちのく巡礼の活動は、
みちのく巡礼ホームページ をご覧ください |
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妻との連絡が取れてほっとした後、他の仲間とここ(石巻市総合運動公園)で別れた。
みんなは避難所になっている石巻市役所に向かうと言っていたが、私は石巻と東 松島市に住む親や兄弟の消息が心配なので、歩いてそちらに向かおうと考えていた。
その前に救援物資の仕分けセンターへ立ち寄った。
鮎川の避難所で不足していて困っていたものを伝えてあげたいと思ったからだ。
お世話になった鮎川の人たちへ恩返しという思いに加え、
「生かされた命」を被災した方々のために少しでも役立てたいという思いも強かった。
自分自身で感じていた物は、乾電池、ローソク、マスク、毛布などだった。また、何人かの男性たちからも不足を訴えられていた物品だった。 私はこれらに加えて、「燃料や食料品、日用品などはもちろんですが、赤ちゃん連れの女性は、ミルク、哺乳瓶、オムツで困っていました」と答えた。 これらは赤ちゃんの生命線である。 「あるお年寄りは、夜中にトイレに起きるとみんなに迷惑がかかるので、ガマンしてから行くと、途中で漏れてしまう」と言っていたのを思い出し、「尿漏れパットなんかもあればいいと思うのですが」と伝えると、「なるほど連絡して取り寄せ可能ならば送りましょう」と、言ってくれた。
これで救援センターで少しは役立つことができたと、多少の満足感があった。
東日本大震災「祈り・伝承・防災・復興」みちのく巡礼
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