東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

私の3.11あの日あの時

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津波記念碑の教訓と避難の心得

津波が収まってから津波記念碑がどうなったのか気になって下りて見に行った。津波は石碑よりも高いところまで来たのだから、案の定濡れてはいたが無事立っていた。
以前は書いてある内容はあまり気に留めなかったが改めて見てみると、
大震嘯災記念碑」と書かれている。
これは昭和8年3月3日の昭和三陸沖地震の折、津波がこの地点まで到達したことを示すために立てられた。今度の津波はそこを越えて来たことにになる。

 少し読みづらかったが、判読イメージ 1読することができた。
「地震があったら津浪の用心」「それや来た逃げよう五本松」
と刻まれていた。地震が来たら津波を用心せよ、津波が来たら五本松の高台を目指して逃げよ、という教えを書いたものだ。

我々の避難行動は結果的にはこの教えに適っていたのだ。
また、東北地方には、
「津波てんでんこ」という、津波避難の教えがある。
津波が来たらてんでん(それぞれ個々)に避難して身を守れ」
という教えである。
もしも私と行動を共にしていた人がいたならば、私が大岩に襲われた時、私の直前にいた人は直撃を受けただろう。   翌朝撮影した津波記念

                                  
 こうした碑は三陸各地にあるが、大きな津波がここまで上ってきたという津波の恐ろしさを知らせる警報の役割を果たしている。
しかし、私は震災後多くの被災地に出向いたが、せっかく津波の到達点を示す石碑・津波石があっても判読不能でその役割を果たしていないものを多く見かけた。         

東日本大震災の場合も当然こうした石碑が必要である。我々は維持管理が行き届いている寺院に慰霊塔や津波記念碑や教訓を書いた石碑などの建立していただく活動を継続している。


津波記念碑より高い地点まで必死に走る
南北両方向から押し寄せた二つの津波の激突によって超巨大化した津波が避難した50mほどの高台に迫って来た。高台の高い崖をよじ登って来るようにして押し寄せてくる。黒い巨大な水がぐんぐんと迫って来た。とにかく必死でより高い方へと駆け上がった。後ろを振り返っている余裕など全くない。その地点から50mほど離れた所、標高にして10mほど高い地点昭和8年3月3日の三陸沖地震の到達点を示す津波記念碑がある。とにかくその碑以上高いところまで逃げようと必死で走った。こんな時には普段ジョギングで鍛えているのが役立った。碑を通り越してさらに30mほど走ってからどうなっているのかと気になってやっと後ろを振り返ってみた。すると10数mほど手前で波が引き始めているのが見えた。〈あ〜どうやら助かったのだな〜〉という安心感とより、恐怖から解放された虚脱感に似た思いだった。まだ頭が働いていない状態だった。ただぼんやりと津波後の波のうねりを眺めていた。その後津波は次第に弱まり、結局第4波まで来たが、その様子を眺めながら次第に思考がよみがえってくるのを感じました。
 
生かされた命
その時ぼんやりとした思考の中でぽっと浮かんで来たのは

自分は目に見えない大きな力によって生かされたのではないか」ということでした。
  同時に浮かんだのは、四国遍路でお接待をしてくれたおばあちゃんの「私は人のお役にたちなさいと、お大師様に生かされています」という、優しいさの中に毅然とした思いが込められた言葉でした。
 遍路の時には時々聞く言葉だったので、立派な心がけだな〜と思う程度だったのですが、生命の危機を乗り越えたその時は、心にずしりと重みを感じました。
「人の役に立て」と、どーんと背中を押されたような気がしました。
 そして、この生かされた命を何か震災のために役立てようという思いが強くわきました。
  そのため震災後間もない時期からボランティアや慰霊のためにひんぱんに被災地を訪れています。特に東日本大震災が起こった3月11日を祥月命日、毎月11日を月命日と心に定めて慰霊に出向かせていただいております。


崖崩れ最中の津波避難
永久に続くかと思われた猛烈な揺れもさすがに峠を越し、次第に現実の世界に引き戻された。
すぐに頭をよぎったのは津波だ。海面がぐんぐんと下がって行き、砂が見えてきた。誰からともなく、「津波が来る。逃げなくちゃ!」という声が上がった。黄金山神社方面の高台へ上るのが最善だが、崖崩れがまだ続いている。しかも上り口付近の道は大岩や木で埋まり所々で半分ほど崩落している。躊躇せざるを得ない。

イメージ 1

これまで宮城県内では震度5〜6の地震が何度か起きていたが、せいぜい1、2メートルほどの津波だったので、待合室の屋根か隣のお土産屋の二階へ上ることも一瞬頭に浮かんだ。しかし、その直後、防災無線のスピーカーから「6m以上の津波が来ます。全員高台に避難してください!」という放送が鳴り響いた。これで我々の行動意志が決定した。今思うと、この放送は命の恩人と言ってもよいだろう。危険を覚悟で一斉に高台を目指して上り始めた。右側の崖からの落石をかわし、海に転落しないように注意しつつ、倒れた木や岩を乗り越えてひたすら上った。

イメージ 2

途中で何度も余震が起こり、そのたびに岩がごろごろ落ちてくる。私自身はこれまで、生活や旅の中で死と向き合うような危険に四度遭遇している。そのため比較的冷静だった。このような歴史的大地震の実態を記録に残しておかなければならない―― これが現場に遭遇した作家の使命だという意識が働き、危険を冒しながらも頻繁にシャッターを押した。

撮影のお陰で命拾いした瞬間があった。振り返りながら後方を撮影し、再び前方に向き直った瞬間、前方10m程に亘って大岩が落下してきた。思わず体は硬直し、目は見開いたままだった。撮影せずに歩いていたら確実に直撃されていたにちがいない。数えてみるとその数7個、私の直前に落ちた岩は直径2mもある大物だった。これが二度目の命拾いだった。
イメージ 3

、6分ほど上った時点で、船が再び桟橋方向へ向かって戻り始めた。スピーカーで「乗る人は急いでくださーい!」と叫んでいる。我々もいったん坂を下り始めたが、方針通りこのまま上り続けることになった。それを見た船は再び沖へ方向を変えて猛スピードで逃げ去った。後から聞くと、その船には地震前から桟橋に出ていた二人の仲間が乗っていたとのことだ。

完全に退路が絶たれた状態でひたすら上る。途中で小さな余震が何度も起こり、そのたびごとに岩や石が落ちてくる。再び大きな地震が起これば、まちがいなく岩の下敷きになるか海へ転落するだろう――そう思うと生きた心地がしない。神に祈る気持で上り続けた。上ること20分、3時15分にようやく標高50メートルほどの高台にたどり着いた。まさに「命がけの避難」だった。到着したときは安堵感のあまり気が抜けてしまった。
イメージ 4

大津波襲来
だがほっとしてはいられなかった。すでに海はどす黒く、波が異常に高くなり始めていた。案の定3分後の3時18分、第一波が襲来した。防波堤が隠れ、海面から7メートルほどある待合所の屋根、さらには10mほどあるお土産屋の屋根も次々に水面下に消えていった。
イメージ 5

それを見た時は、命がけでここまで上って来て本当に良かったと思った。約10分後の3時29分、今度は水が急激に南北両方向に引き始め、1分もたたないうちに建物や桟橋が完全にもとの姿を現した。そして33分には金華山と牡鹿半島との間の金華山瀬戸からはほとんど水が引き、壮大な枯れ河のようになった。
イメージ 6

それも束の間1分後、33時35分には30mほどもあろうと思われる第二波が南北両方向から怒涛のように押し寄せた。南方向の太平洋側(鮎川側)からの津波は鳥が翼を広げたように形で中央部分がややくぼんだ形をしており、それに対して北側(女川側)からの津波は中央部分がやや突き出たよう形をしていた。
イメージ 7

二つの黒い津波は狭い金華山瀬戸に入ると次第に高さと速度を増し、北からの津波が南からの津波に食い込むようにして中央付近から次々に激突した。それが急速にせり上がって数十メートルに巨大化してゆく。そしてこともあろうに、超巨大津波が我々のいる50m以上の高台を目掛けて押し寄せてきた。
イメージ 8





イメージ 9

もう撮影どころではない。建物崩壊とがけ崩れの危険から逃げおおせて来て、ここで津波にやられたのでは元も子もない。さらに高いところまで必死に駆け上がって難を逃れた。そして徐々に引いてゆく波を見ながらやっと自分たちは助かったのだと漠然と感じた。結局、地震、がけ崩れ、大津波で命を落としかねない場面が三度あったことになる。だがこの時、我々を襲った津波が、同時に向かい側の鮎川を壊滅状態にし、さらには三陸以外の土地まで襲って死者と行方不明者を2万人近く出していることまでは到底思いが及ばなかった。
生死の岐路                        
                                                     
わたしは震源地に最も近い島、金華山で東日本大震災に遭遇した。あの恐怖の体験から5年以上経った。震災直後には、どんなことが一番つらかったですかと訊かれて、大泣きしたことが何度かあった。未だに、体験を他人に語ったり、同じような場面をテレビで見たりすると思わず目が潤んでいる。)
イメージ 1ふたまるいちいち2011年3月11日、私が所属する山歩きの会のメンバー13名は、金華山への山登りを終えて午後2時過ぎ桟橋付近に到着した。午前中に島に到着した時にはたくさんのカモメや鹿が餌をねだって近寄って来てきたのに、その時にはまったく姿が見えなかった。彼らが好みそうなお菓子をわざわざ残してきたのになぜ、とすこし不思議に思ったが、その後に起こる身の危険は全く予想しなかった。最終便は3時出発なので、遊覧船の待合室でそれぞれゆったりとした時間を過ごしていた。私は好きなビールで喉を潤した。これは山登り後のいつもの楽しみになっている。飲み終えて桟橋の方向を見ると帰りの船が近づいて来る。そろそろ席を立とうとリュックを背負った瞬間、テーブルがガタガタと音を立てながら左右に揺れ始めた。それがマグニチュード9・0の地震が始まりだった。

出入り口付近にいた仲間は「地震だ!」と叫びながら、とっさに戸を開けて外へ飛び出した。この時点では大地震になるとは夢にも思わなかった。奥にいた私は地震マニュアル通り、とりあえずテーブルの下にもぐり込み、金属パイプ製の両脚をつかんで両ひざを着いた。するとコンクリートの床下からゴゴゴゴー、グォン、グォーンという不気味な音が続けざまに聞こえて来た。こんな音を聞くのは生まれて初めてだった。まるで地獄のうなり声のように思えた。これは恐ろしいことになるぞと直感して体がこわばり息も荒くなった。案の定、揺れが急激に激しくなり、体全体が前後に大きく振れた。下半身だけでなくテーブルの脚をつかんでいる腕にも激しい震動が伝わってくる。
同時に、金属屋根が激しく震動するガガガガガーという音、スレート壁と鉄柱が猛烈にぶつかるガタガタガターという音、そして鉄柱がきしむギーギーという音、これが入り混じって、耳を覆いたくなるような轟音が建物中に鳴り響いた。まるでMRI装置に閉じ込められ時に聞く、あの不安を掻き立てる音を何倍にも増幅した感じだ。揺れはますます大きくなり、隠れているテーブルが激しく移動する。動きに合わせて自分も動かざるを得ない。陳列棚が倒れてガラスが割れる音があちこちで鳴り響き、天井からは蛍光灯が次々と落ちてくる。それがコンクリートにたたきつけられ、破裂してバーンと割れる。音が不安を増大させた。落ち着け落ち着けと、必死に自分に言い聞かせた。何気なくテーブルの下に隠れたりしないで、すぐに外へ逃げればよかったと後悔した。恐る恐る周りに目をやると、壁板は裂けそうなほど大きく波打っている。太い鉄柱でさえ自分に襲い掛かってくるように見えた。その瞬間、自分が隠れているテーブルの後部に、ドスーン、ガシャーンという大きな音立てて巨大なものが落ちてきた。それは先ほどまで見ていた畳三畳ほどもある金華山の掲額だった。その途端、二本の脚がぐにゃっと曲がってテーブルは後方にひっくり返った。とたんに身を守るものがなくなった。そちら向きになっていたら、頭が直撃されて怪我では済まなかったかもしれない。その瞬間、私が住む仙台市泉区のスポーツ施設「スポパーク松森」で天井が落ちて26人が負傷した事故と、つい20日ほど前に多数の死者を出したニュージーランドの地震がとっさに頭に浮かび、思わず、建物が崩壊する―― という恐怖が走った。本能的に体が動いた。縦に三つ並んだテーブルの下を夢中で這いながら出口に向かい、全速力で外へ飛び出した。建物から10メートルほど離れた時、やっと死の恐怖から解放された。だがその時目に入ったのは、我々が乗るはずの船が沖へ走り去ってゆく姿だった。津波を避けるためだから仕方ないかと思いながらも、置き去りにされた不安と孤立感を感じた。

背後の崖のあちこちから、土砂崩れとともに岩や松の木がどどーっというイメージ 2音を立ててもみくちゃになりながら落下してくる。山腹にいた鹿たちがそれを避けながらさらに上へ上へと駆け上がって行く。動物的本能なのだろう。黄金山神社への上り口では、大鳥居が倒れんばかりに大きく揺れ、石燈籠や石柱がことごとく崩落してゆく。この光景が永久に続くように感じ、このままでは金華山全体が崩れ去ってゆくようにさえ思えた。イメージ 3現実離れした夢のような世界に身を置いているようで、恐怖や生死などというたかが人間が持ち合わせているちっぽけな感覚は完全に通り越していた。この間、誰ひとりとして声を発するものはいなかった。

永久に続くと思われた猛烈な揺れもさすがに峠を越し、われわれは次第に現実の世界に引き戻された。「今のが宮城県沖で起こるって言われていた巨大地震だったのかな」――と、誰かが口火を切った。それに誘導される形で「それならいいんだが、もっとでかいのが来たらそれこそ日本沈没だよ」「船が行ってしまったしどうするかな」などと、どうにかみんなの表情に余裕が戻った。それとともに今まで崖の方にくぎ付けになっていた目が、誰からともなく自然に海の方に向いた。すると海面はぐイメージ 4んぐんと下がってゆき、岸壁近くの海底の砂が見えてきた。誰かから「津波が来る。逃げなくちゃ!」という声が上がった。黄金山神社方面の高台へ上るのが最善だが、坂道は大岩や木で埋まり、所々で半分ほど落ちている。それに未だに岩が所々で落ちてくる。躊躇せざるを得ない。それにこれまで宮城県内では震度6程度の地震が何度も起きていたが、1メートルが直後、防災無線のスピーカーから「6m以上の津波が来ます。全イメージ 5員高台に避難してください!」という放送が鳴り響いた。これで我々の行動意志は決定した。危険を覚悟で一斉に高台を目指して上り始めた。右側の崖からの落石をかわし、海に転落しないように注意しつつ、倒れた木や岩を乗り越えてひたすら上った。途中で何度も余震が起こり、そのたびに岩がごろごろ落ちてくる。どっきりとした瞬間があった。振り返りながら後方を撮影し、イメージ 6再び前方に向き直った瞬間、大岩が前方10m程に亘って六、七個落下してきた。私の直前に落ちた岩は直径2mもある大物だった。思わず体は硬直し、目は見開いたままだった。撮影せずに歩いていたら確実に直撃されていたに違いない。上ること二〇分、三時十五分にようやく50mほどの高台にたどり着いた。まさに「命からがらの逃避行」だった。
 第一波が襲来したのは、三時十八分だった。まず防波堤が隠れ、待合所やイメージ 7お土産屋が次々に水面下に消えていった。約十分後、今度は水が急激に南北両方向に引き始めて建物や桟橋が元の姿を現し、さらには金華山と牡鹿半島の間は、歩いて渡れるほど完全に水が引いた。それもつかの間、三時三十五分、南北両方向から20〜30mの第二波が押し寄せ、二つが激突していまる50mもあろうかという超巨大津波となって高台に迫ってきた。我々はさらに高い所へ駆け上がって難を逃れた。
イメージ 8
 
人が生き残ったり命を落としたりするのは、運にしろ判断力や対応力にしろ、いたって紙一重のような気がする。

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