ねんねーこぉー ねんねーこぉー
寝だ子ぉへーぇー
寝んねばーぁ 山がーらぁ
もうっこぁ来らぁねーぇー
津軽の人なら誰でも知っている子守歌の冒頭の一節だ。中で怖いものの代名詞として使われている「もうっこ」が、「蒙古」に由来することもまたよく知られている。13世紀に九州の北岸を襲った蒙古軍の恐ろしさが、はるか離れた津軽にまで伝わってきたのだろうか。
だがここに一つの興味深い説がある。蒙古の襲来をより直接的に津軽の人々に伝えた者たちがいる、というのだ。それは対馬から海を渡って津軽に至り、住み着いた人々であり、今日対馬(對馬)姓を名乗る人たちはその末裔なのだ、と。
それで思い起こされるのは、十三湊を本拠地として隆盛を極めた安東氏の存在だ。彼らは商船で日本海を駆け巡り、一時は朝鮮半島や中国にまで交易の足を延ばしていたというから、対馬にはもちろん行っていただろう。当時、津軽と対馬は意外に近しい関係にあったのかもしれない。対馬の人々が島の外に新天地を求め、その一部が津軽にたどり着いたとしても何の不思議もない。
対馬は、第一次元寇の際、真っ先に襲撃を受けた島だ。蒙古軍はこの地の守備隊を全滅させ、多数の島民を殺し、捕虜にした女性たちの手に穴を開けて紐で数珠つなぎにしたというから、その残忍さは半端ではなかった。津軽衆にその恐ろしさを伝える対馬者の言葉にも熱がこもっていただろう。かくして子守歌「もうっこ」の誕生となった・・・。
対馬者が津軽に渡ってきたとすれば、その時期は安東氏の栄えた14、5世紀ということになるだろう。その後、彼らは津軽の地に根を下ろしていくのだが、その中で最も栄えた家として知られるのが中津軽の豪農、對馬家だ。彼らは津軽藩政時代に大庄屋を務め、明治に入ってから敷地内に壮麗な庭園を築いた。今日の「瑞楽園」(弘前市宮舘)だ。
桜会議は、この5月、市民参加のイベントで瑞楽園を訪れる予定にしている。これを築いた對馬家が対馬からの渡来者の末裔だ、というのは単なる憶測にすぎないが、それでもいいではないか。庭園を眺めつつ、対馬者の苦闘とその後の繁栄に思いを馳せるのも一興ではないだろうか。
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