|
「イングリッシュペイシェント」のアルマシーとキャサリン、 「ブロークバックマウンテン」のイニスとジャックのように、いつまでも忘れづらい恋人たちがいます。 映画「つぐない」のロビーとセシリアもそう。 私の心の片隅に残っているかのようで、 この本も去年の秋に読んだのになかなか文章になってくれませんでした。 アムステルダムでブッカー賞を獲ったイアン・マキューアンの「贖罪」が映画になると聞いて 映画を珍しく観にいったのですが、これがまた素晴らしかったです。 そして、この原作。かなり忠実に映画化したことがうかがえますが、 原作ならではのそれぞれの登場人物の心理の書き込みなども堪能できます。 少女ブライオニーは劇を書きあげた。 兄リーオンが友人ポール・マーシャルを連れて久しぶりに帰ってくるのにあわせ、 しばらく一緒に住むことになる従姉弟たち(ローラと双子のジャクスンとピエロ)と共に演じて 兄の賞賛を得ようとしたのだ。しかしブライオニーの描いていたように物事は進まず、 また姉のセシリアと兄のように慕っていた使用人の息子ロビーは、 窓から眺めていたブライオニーには理解しがたい振る舞いを噴水の前で繰り広げている。 そして、晩餐の席で双子達が逃げ出したことが、彼らの運命を大きく狂わすことになるのだった… 劇の題名は「アラベラの試練」。 邪悪な伯爵に捨てられた女主人公アラベラがコレラに病み打ち捨てられた後に、 赤貧の医師に身をやつした王子に癒され、その医師王子とめでたく結婚するという子供っぽいストーリーです。 アラベラは、ブライオニー自身が「彼女の思いは自分の思い」で「自分こそがアラベラ」と思っており 「アラベラにそばかすがないことが彼女の気品のあかし」とまで感じたように、 けして年上の従姉ローラにその役を奪われるなどということは考えられないことだったのです。 しかし、アラベラはローラが演ずることとなります、そばかすの従姉が。 そして彼女の設定した王子は医師王子。これはケンブリッジを主席で卒業し これから医学を学ぼうとしているロビーがモデルではないかと思われます。 ブライオニーはこの恐ろしい何日間の間に、自分の分身でもあるヒロインのアラベラを奪われ、 そして彼女の医師王子をも奪われることとなったわけです。 ロビーへの愛憎は時系列的には密やかに隠されています、映画でもそうでしたが原作でも。 原作ではロビーがダンケルクへ向かう路上での回想としてその場面があらわれます。 ブライオニーが見てないものを見たというあの執拗な悪意に満ちた嘘をついた心理として、 ブライオニーが10歳そこそこだったろう夏を思い出します。 「愛しているの」と「愛している。これであなたにもわかったわね」と告げるブライオニーと 「それは愛とは違うよ」と諭すロビー。 独りよがりに、子供っぽい愛情でロビーを愛することを楽しんでいたブライオニーは 自分には理解しがたいあの噴水での姉とロビーの振る舞い、 そしてロビーから姉に渡すように頼まれたあの恐ろしい手紙、図書館でのワンシーンによって、 ロビーに憎悪をたぎらせ、従姉に、「あの人は偏執狂ね」と定義され、 その高級な響きにすっかり飛びつきます。 彼女の中ではもうロビー=偏執狂なのです、医師王子ではなく。 とはいえ、私達が読んでいるこの作品はあくまでブライオニー・タリスの書いた第5稿。 おそらく1稿目となる「噴水のそばの人影二つ」では、5稿と同じく、 噴水前の出来事が窓辺の少女の視線、男の視点、女の視点で語りなおされているものの、 少女の誤解が「ふたりの大人の生活にいかなる影響」を与えたか、 「ふたりのあいだを割く災厄」となったかどうかは描かれていませんでした。 フィクションもそう。1稿の折には子供っぽい劇と共に捨て去っていたフィクションを、 5稿では取り入れているのです。そういった構成の巧みさはもう、圧倒的に見事です。 そして、「アラベラの試練」で幕を開けたこの物語が、 ようやく、64年遅れで上演される「アラベラの試練」で幕を閉じるというあたりも圧巻です。 ブライオニーが思うように、小説家がその作品で贖罪することはできません。 この作品で二人の運命をどう変えようとも、 それは本質的な贖罪にはならないことはブライオニーには痛いほどわかっているのです。 少女から少しずつ大人になり、あの噴水のワンシーンの意味をようやく理解したブライオニーは、 自分の犯した罪と自分が引き裂いた恋人たちを忘れることをけして許されなかったのです。 これは贖罪というよりも彼女の慟哭であり謝罪なんですね、けして償うことができない罪への。 輝かしいロビーの未来を、彼を愛したセシリアの願いを踏みにじったのは自分で、 そして償いを許さなかったのは戦時下という時代と、それに伴う人間の非人間的所業で、 それらを紙の上で見つめ続けるだけしか許されなかったブライオニーの悔恨がなんとも切なかった… マキューアンを読んだのは初めてでしたが、惚れ惚れするような作品でした。 「愛の続き」やさらっとしているらしい「アムステルダム」も読むのが楽しみです。 『贖罪』 イアン・マキューアン
|
全体表示
[ リスト ]



長い作品でしたが、質の高い力作でしたね。私は、映画の最後があまり好みではなかったので、原作を読みましたが、すばらしかったです。簡単な感想ですが、TBさせてくださいね。
2009/1/27(火) 午前 0:21
どうも、原作を読むしかないですね。次回の購入予定に入れておきます。TBさせてもらいます。
2009/1/27(火) 午前 0:48
オネムさん、私は文庫で読んだのですが、上巻のタリス邸での出来事から下巻で急激に場面が変わっていて、ロビー・ターナーが置かれた戦場の過酷さがより、運命の残酷さ、罪の重さをまざまざと感じさせられたように感じました。
原作のラストは重厚で素晴らしかったですね、本当に素晴らしい作品でした。
2009/1/27(火) 午前 1:22
genteelさん、映画もとても好きでしたが、
この原作は本当に読み応えがあり、素晴らしいです。是非!
トラバ、ありがとうございました。
2009/1/27(火) 午前 1:29
ついに読まれたのですね。
とても魅力的な本のようで食指が動きますが、これだけの長編を読破するのは体力も気力もいりそうだし・・でも、読んでみたい!
映画のもやもやが消えるなら、読む価値ありそうですね?
2009/1/28(水) 午前 0:00 [ パリは恋人 ]
エピローグが衝撃的でしたよね。「作家の贖罪」というテーマで貫かれている小説ですが、読者としては「感情移入」の意味を考えさせられてしまいました。真実が「第三部」のようだったら本当に良かったのに・・という思いはむなしいものだったのか、意味があったのか。作家の立場と読者の立場は裏腹ですもんね。映画のDVDも図書館に予約中ですが、なかなかまわってきません。
2009/1/28(水) 午前 6:27
『つぐない』は昨年観た映画BEST3に入る作品だったので、原作も読んでみたいと思いながら日々が過ぎております・・・^^;読み応えありそうですね、いつか是非トライしたいと思います!
2009/1/30(金) 午前 1:04
パリは恋人さん、これはもうものすごく良かったです〜
確かに長いですし、心理描写も濃厚な印象です。
もやもやは消えるんじゃないかなと思います、機会があれば是非♪
2009/2/5(木) 午前 1:54
ribbonさん、本当にエピローグはなんと言っていいか…でした。
映画とは終わり方、特に終章はかなり違うんですよね、そのあたりが先に原作を読んでいると肩透かしにあうかもしれません。
でも、こんなに素晴らしい作品は久しぶりというくらい堪能できた原作でした。トラバ、ありがとうございました♪
2009/2/5(木) 午前 1:56
Mさん、読み応えはありましたよ〜
本当に素晴らしい作品だと思いました。
映画もよかったですけど、映画以上に描きこまれていて、
堪能できました。機会があれば、是非!
2009/2/5(木) 午前 1:58
はじめまして♪(でしょうか?以前お邪魔したことがあるような気もするのですがどうも忘れっぽくてすみません^^;)
これは読み応えのある素晴らしい小説でしたね〜
映画もよかったけれど、それ以上に原作のラストには感動しました。「アラベラの試練」のシーンはグッときますね。
そしてブライオニーにとっては決して贖罪として完結はしていないというところも深くて「そうだったのか」とうならせられました。
ちょっと難しい文体でしたが読む事ができてよかったです。
こちらからもTBさせてくださいね♪
2009/2/7(土) 午後 11:35
もしブライオニーが本当のことを言っていたらローラとチョコレート王がどうなっていたかと思うと、本当に彼女の嘘は人々の運命を狂わせたんですよね。色々考えさせる作品ですね。原作は繊細で深そうですね。
2009/2/9(月) 午後 4:14
choroさん、ご訪問ありがとうございました、多分はじめましてのように思います!
そうですねぇ、最初に映画を観たときには映画のラストシーンが心に突き刺さりましたが、この原作を読んだら原作のラストは重々しくってまた素晴らしかったですね。
そうなんですよね、いかにしても時は戻らず、彼らが虚構の中で生き続けようとも、ブライオニーの罪は消えないんですよね。
それを背負い続ける彼女の人生もまた切なかったですね。
トラバ、ありがとうございました!
2009/2/13(金) 午前 0:57
物語の世界さん、本当に取り返しのつかない嘘だったんですよね。
それがわかる年齢になった時には、もう手遅れで多くの人、
しかも彼女の最愛の人々の人生を狂わせてしまいましたね。
原作はロビーの心情、ブライオニーの感情もよく書き込まれていて、
ボリュームはそこそこありますが、昨年一番感銘を受けた作品でした。
機会があれば是非!
2009/2/13(金) 午前 1:00