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源氏北へ

1051年(永承6)藤原登任が鬼切部での大敗を喫し朝廷は源頼義を陸奥守に任じ安倍頼良追討のため奥州に赴つかせたことに始まる前九年の役で源氏の北進は幕を開いたのであろう。
2009年8月に訪れた多賀城跡。前九年後三年の役で重要な軍事的拠点であった。イメージ 1
後三年の役では左兵衛尉の官職を捨て兄八幡太郎源義家の陣中に馳せ参じた弟新羅三郎源義光の伝承は有名である、この義光こそ清和源氏義光流の祖である
茨城県ひたちなか市にある武田氏館内に展示されている笛(笙)を奏でる絵画。
後三年の役へ出兵の際笛(笙)の秘曲を豊原時秋に伝授する場面。2012年5月撮影
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1180年(治承4年)義光の曾孫武田信義は富士川の戦いで武功をあげ甲斐源氏の武名をあげた。
山梨県韮崎市役所の武田太郎信義之像と武田信義館跡。
2008年6月撮影

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義光の玄孫南部光行は1189年(文治5年)奥州平泉にて藤原泰衡軍との合戦での戦功で陸奥国糠部郡を賜り甲斐源氏の北進が始まった。
青森県八戸市にある南部の総鎮守櫛引八幡宮2008年1月撮影


江戸初期の南部浪人福士右馬丞長俊が書き記した「田名部御陣日記」通称「東北太平記」は1457年(康正3年)下北半島で勃発した戦乱を記したものだ、護良親王の系統をおす南部(政経)と後村上天皇の系統をおす武田(五郎蔵人信純)との北部王家をめぐる政治的な紛争である。
また、北海道で1457年(康正3年)にコシャマインとの戦闘で功績をあげた若狭武田の信広は有名である。
北海道上ノ国町にある武田信広を祀る「夷王山神社」
2006年5月撮影
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多少横道に入るが津軽為信の実父とされる大浦守信(甚三郎)は赤石城武田筑前守の養子となり武田紀伊守を名乗っていたが実兄為則(彦六郎)に呼ばれ堀越城に入り堀越城主大浦(武田)守信となった、後に九戸の乱で壮絶な戦死を遂げている。
購入した古書、著者吉村和夫氏の金木屋物語には金木屋武田の先祖は武田勝頼の落胤とある。白山友正氏の著書は昭和42年発刊で私の生まれ年であった。イメージ 6
<私事>
明治期に高祖父は海を渡り函館に着き津軽海峡を舞台に富を得た、祖父の代にそれまでの富はかげり樺太(サハリン)の事業者より跡継ぎとして呼ばれた。理由は定かでないが事業を継がず北海道へ帰ってきた。太平洋戦争前の事である。祖父が一番北進していた。
さくらさく武田
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