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甲斐武田十二代当主陸奥守信春の子武田信久が北浦両宿に下ったのは応永24年(1417年)以降であり背景には上杉禅秀の乱がある。応永23年(1416年)に起こった上杉禅秀の乱は禅秀(氏憲)の一門及び禅秀と姻戚関係にあった甲斐守護武田次郎安芸守の信満(信久の兄)、下総の千葉介兼胤、上野の岩松満純、下総の那須資之、そのほか鎌倉府及び足利持氏に不満を持っていた奥州の篠河足利満貞、常陸の山入(佐竹)与義・小田持家など関東の豪族や国人層が集結した内乱であり京都の将軍足利義持の弟義嗣が黒幕である。
この乱で禅秀(氏憲)は敗死し武田信満は上杉憲宗率いる追討軍に敗れ応永24年2月6日木賊山(天目山)で自害した。
信久の長兄13代当主信満の墓(甲州市 大和町栖雲寺)2011年6月撮影
信満の弟信元は高野山にて剃髪して空山と号し閑居し、信久は下総に逃れその後北浦両宿に潜伏した。 ※後に信元は幕府の命により守護補任として帰国している。
信久が北浦両宿に下ったのは共に禅秀(氏憲)側に付いた大掾満幹を頼ったのか、それとも常陸の山入(佐竹)与義の影響があったのだろうか。
※山入(佐竹)与義は征夷大将軍と直接主従関係にある京都御扶持衆のため重い処罰を免れている。
信久の子孫達はここ北浦に城を構え天正19年(1591)の佐竹氏による常陸南方三十三館主謀殺まで当地を武田郷と称し統治おこなった。
神明城跡(武田城跡)にある社(2代成信築城と伝わる) 2013年5月撮影
8代通信築城の木崎城跡 2013年5月撮影 香取神社内に小さな社がある。木崎城跡に関して平成19年度行方市文化祭で配布された北浦今郷土文化研究会資料には次のように記されている。
木崎城趾(武田城趾)行方市指定文化財
所在地 行方市内宿字御城
文化財指定年月日 昭和61年7月28日
築城者城主名
8代 武田民部大輔通信(武田通信)
9代 武田七郎五郎淡路守信房(武田信房)
遺構 土塁 空堀 水濠
城館跡の歴史
「戦国期に甲斐の武田一族武田信久が当地に移りその支配者を武田郷と称し、居所とした。 木崎城はその子孫8代民部大輔通信が築城と伝えられる。天正15年(1587)、府中の大掾清幹が玉造に出兵し、武田城まで攻め入り、高岡砦を攻略したが武田氏滅亡まではいたらなかった。天正19年(1591)、常陸一国の支配権を掌握した佐竹義宣は、府中の大掾清幹を滅ぼし、さらに大掾系氏族33館を粛清したが、そのとき佐竹氏は大掾氏の外様大名であった武田信房をも誅殺して、中世以来の武田を滅亡させた。」
配布された資料の他にも1566年8月10日武田通信が鹿島領侵入などの資料があり南方三十三館主の間で度々所領境界紛争があり江戸氏や佐竹氏に度々頼る事になったのだろう。
そもそも常陸南方三十三館とは鹿島及び行方地域の 国人衆や一揆であり武田と相賀以外は大掾氏系で、三十三とは館の数ではなく後世江戸期に付けられた名称である、戦国期には古河公方や佐竹氏からは鹿島衆や行方衆と呼ばれていた。
ちなみに大掾氏の「掾」とは四等官制の一つの国司でいわは警察権を行使する官位である。承平年間(931)平国香(くにか)が常陸大掾に任官し、多くの私領を蓄えて土着し孫の維幹(これもと)以後官名大掾を名字とした。
佐竹氏謀殺事件の南方三十三館主
行方衆
武田城主 武田信房
玉造城主 玉造重幹
手賀城主 手賀高幹
永山城主 永山知幹
行方城主 行方忠幹
富田城主 富田昌幹
島崎城主 島崎安定
小高城主 小高刑部少輔
大生城主 大生弾正
麻生城主 麻生常安
芹沢城主 芹沢国幹
相賀城主 相賀詮秀
羽生城主 羽生
鹿島衆
蕨城主 武田信家
鉾田城主 鹿島三郎
鹿島城主 鹿島治時
宮ヶ崎城主 宮ヶ崎幹顕
徳宿城主 徳宿矩幹
沼尾城主 沼尾行幹
安房城主 安房幹連
粟生城主 安生幹実
烟田城主 烟田通幹
札城主 札幹繁
下吉影城主 野口右兵衛
林城主 林時国
田野辺城主 田野辺胤幹
梶山城主 梶山掃部介
阿玉城主 阿玉
用次城主 持寺
石神城主 石神二郎
中村城主 中村弥太郎
※北浦郷土文化研究会誌参考
南方三十三館の仕置とは天正18年豊臣秀吉による後北条討伐の際に江戸氏及び大掾氏が小田原不参だったため佐竹義宣が真崎兵庫助重宗及び和田安房守昭為に命じて江戸重通の根城13と館8ヶ所を焼き討ちし、大掾清幹を府中城で自害させ、その後三十三館主を呼び出し謀殺した事件である。
しかし、小田原では島崎安定らも佐竹義宣とともに秀吉に謁見しており小田原不参が要因とも言い切れない。
佐竹義宣は石田三成に取り入り秀吉より常陸一国を与える旨の宣言をもらい、さらに三成より「太閤殿下の伝達通り常陸の面々を成敗されるも可なるべし」との書状をもらい謀殺実行に至った。
三十三館主謀殺後は領国化を促進するため佐竹配下のものを配置し支配拠点を確立しようとしたのである。
一説には島崎城主島崎安定の嫡子徳一丸に佐竹義宣の娘を嫁がせると偽り佐竹氏の太田城に三十三館主を招き酒宴の席で招待客を襲撃殺害したともある。
※このような陰謀でも生き延びた者がいる。
札幹繁や青柳村堀野之内館の大膳武田勝信は佐竹氏が国替えとなるまで身を隠し難を逃れている。
武田信久が北浦両宿に至り武田信房が陰謀で落命するまでの174年間この地で「北浦武田戦記」が繰り広げられた。現在も近隣には武田川が流れ武田小学校があり当時の影響力が偲ばれる。
余談だが近隣の鉾田市二重作(旧大洋村)に武田次郎左衛門尉の武田城があった。
武田次郎左衛門尉は甲斐騒乱期に流れて来たとも、常陸武田の一族とも説があるが佐竹氏が転封になるまで服属した。城跡の近くには末裔の方なのか「武田製材所」がある。
多分このあたりが武田城跡 2013年6月撮影 |
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