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千利休の師、茶聖武野紹鴎
その紹鴎の経済的基盤は父武田信久(1457‐1539)の功績が大きく、武田を武野に改姓したのもこの信久である。
南宗寺紹鴎の墓・四角いくり抜きは風が通るとピューピューと茶が湧く音がするという。
利休の墓もこの珍しい四角いくり抜きがある。2013年9月撮影イメージ 1

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改姓には諸説あり田も荒廃して野となるという意味で応仁の乱で荒廃した京の町とその後の信久流浪時における苦悩を忘れぬためという説、または堺に落ち着き豪商となった信久が甲斐及び若狭武田家の武力的影響が商いの障害とならぬよう改姓したとされる説がある。
紹鴎は若狭武田の後裔である。しかし安芸武田4代当主武田信繫の子武田信栄(1413‐1440)が祖となる戦国大名若狭武田氏ではなく、甲州武田家と姻戚関係にあった阿野廉子が後醍醐天皇の寵愛を得て准后の地位に付き、皇族との繋がりができた武田光綱が軍大将左衛門少将に出世し建武二(1335)年に若狭を平定して若狭国守護となった、この光綱の系統が紹鴎の祖先となる。 
そもそも甲斐源氏武田氏は6代当主武田信政( ‐1265)の子で安芸守護職を継承した信政長子の武田信時(信時流武田氏)と甲斐に留まった信政次男の武田政綱(石和流又は政綱流武田氏)に別けられる、信時・政綱とも母は平賀修理権大夫惟義の娘である。
平賀修理権大夫惟義の祖父盛義は新羅三郎源義光の四男である。
源義光が元服した京都新羅善神堂2013年9月撮影イメージ 3
武田信時( ‐1289)は執権北条時宗の幕命により蒙古襲来に備え安芸の地に移住、甲斐の守護職には弟の武田政綱とその子孫が就いた。
南北朝時代に信時流武田氏は一貫して北朝方に属したが、石和流武田氏は政綱の曾孫政義( ‐1343)が北朝から転じ南朝方に荷担して敗死する、紹鴎の先祖は宮方と親密な関係にあったことから南朝方に転じた石和流の系統であったのであろうか、いずれにしろ甲斐守護は北朝方の信時曾孫の武田信武(1292‐1359)が継承することになる。
法泉寺 武田信武の墓2013年11月撮影
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慈徳院 石和流武田信武の孫 信春の墓2013年11月撮影
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その後、南北朝合一(1392)の際に南朝の後亀山天皇が神器を北朝の後小松天皇に渡すため京都に行幸した際に武田光政と武田為信( ‐1438)の兄弟が後亀山天皇の廷臣が供奉した、この武田為信が紹鴎の直祖先である(紹鴎の曽祖父であろうか)。先の述べた軍大将左衛門少将武田光綱の子孫であるから通字は「光」であろう、光政が家督と継ぐ立場であり為信は分家扱いであったのではないか。
南北朝協議のうえ国衙領は南朝の国司に戻された、そこで武田光政は丹波守に任じられ武田為信は若狭に戻り国司の職に就いく、やがて旧宮方の武田家は足利幕府の近習として組み込まれていく。
紹鴎の祖父仲清も因幡守に任じられ幕府に出仕していたが応仁の大乱が勃発し東軍の細川勝元に属していた仲清は洛中で討死した。この大乱で信久は父の仲清と兄を亡くし各地を転戦して流浪の果て堺に付くことになる。流浪する信久は兵力立て直しの呼びかけに騎馬百騎及び長槍の歩兵など総勢四百人以上を収集した程であるから仲清の権力は絶大であったであろう。
堺の貿易の総元締めは細川家であり三好家はその被官であった。三好家は信久の軍力を確保するために信久の堺移住を承諾し交易事業を任せた。信久は三好家の保護のもとで泉州堺のこの地に名百余町を有し商業と農業で巨万の財を築いてゆく。屋号は革屋。
また信久の妻は大和国吉野郡の豪族奈良中坊氏の娘である、信久流浪から堺移住に中坊氏の力も働いていたであろう。
この豪商信久の唯一の男子が(千利休)の師である
茶聖・武野紹鴎である。
臨江寺・紹鴎の墓碑 2013年9月撮影
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墓碑には武田菱が刻まれている。

北浦武田戦記

甲斐武田十二代当主陸奥守信春の子武田信久が北浦両宿に下ったのは応永24年(1417年)以降であり背景には上杉禅秀の乱がある。応永23年(1416年)に起こった上杉禅秀の乱は禅秀(氏憲)の一門及び禅秀と姻戚関係にあった甲斐守護武田次郎安芸守の信満(信久の兄)、下総の千葉介兼胤、上野の岩松満純、下総の那須資之、そのほか鎌倉府及び足利持氏に不満を持っていた奥州の篠河足利満貞、常陸の山入(佐竹)与義・小田持家など関東の豪族や国人層が集結した内乱であり京都の将軍足利義持の弟義嗣が黒幕である。
この乱で禅秀(氏憲)は敗死し武田信満は上杉憲宗率いる追討軍に敗れ応永24年2月6日木賊山(天目山)で自害した。
信久の長兄13代当主信満の墓(甲州市 大和町栖雲寺)2011年6月撮影 
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天目山棲雲寺は貞和4年(1348)元から帰国した業海本浄が創建した臨済宗の名刹。
信満の弟信元は高野山にて剃髪して空山と号し閑居し、信久は下総に逃れその後北浦両宿に潜伏した。 ※後に信元は幕府の命により守護補任として帰国している。
信久が北浦両宿に下ったのは共に禅秀(氏憲)側に付いた大掾満幹を頼ったのか、それとも常陸の山入(佐竹)与義の影響があったのだろうか。
※山入(佐竹)与義は征夷大将軍と直接主従関係にある京都御扶持衆のため重い処罰を免れている。
信久の子孫達はここ北浦に城を構え天正19年(1591)の佐竹氏による常陸南方三十三館主謀殺まで当地を武田郷と称し統治おこなった。
神明城跡(武田城跡)にある社(2代成信築城と伝わる) 2013年5月撮影イメージ 3
8代通信築城の木崎城跡 2013年5月撮影 香取神社内に小さな社がある。
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木崎城跡に関して平成19年度行方市文化祭で配布された北浦今郷土文化研究会資料には次のように記されている。
木崎城趾(武田城趾)行方市指定文化財
所在地 行方市内宿字御城
文化財指定年月日 昭和61年7月28日
築城者城主名
 8代 武田民部大輔通信(武田通信)
 9代 武田七郎五郎淡路守信房(武田信房)
遺構 土塁 空堀 水濠
城館跡の歴史
「戦国期に甲斐の武田一族武田信久が当地に移りその支配者を武田郷と称し、居所とした。 木崎城はその子孫8代民部大輔通信が築城と伝えられる。天正15年(1587)、府中の大掾清幹が玉造に出兵し、武田城まで攻め入り、高岡砦を攻略したが武田氏滅亡まではいたらなかった。天正19年(1591)、常陸一国の支配権を掌握した佐竹義宣は、府中の大掾清幹を滅ぼし、さらに大掾系氏族33館を粛清したが、そのとき佐竹氏は大掾氏の外様大名であった武田信房をも誅殺して、中世以来の武田を滅亡させた。」
配布された資料の他にも1566年8月10日武田通信が鹿島領侵入などの資料があり南方三十三館主の間で度々所領境界紛争があり江戸氏や佐竹氏に度々頼る事になったのだろう。
そもそも常陸南方三十三館とは鹿島及び行方地域の 国人衆や一揆であり武田と相賀以外は大掾氏系で、三十三とは館の数ではなく後世江戸期に付けられた名称である、戦国期には古河公方や佐竹氏からは鹿島衆や行方衆と呼ばれていた。
ちなみに大掾氏の「掾」とは四等官制の一つの国司でいわは警察権を行使する官位である。承平年間(931)平国香(くにか)が常陸大掾に任官し、多くの私領を蓄えて土着し孫の維幹(これもと)以後官名大掾を名字とした。
佐竹氏謀殺事件の南方三十三館主
行方衆
武田城主 武田信房
玉造城主 玉造重幹
手賀城主 手賀高幹
永山城主 永山知幹
行方城主 行方忠幹
富田城主 富田昌幹
島崎城主 島崎安定
小高城主 小高刑部少輔
大生城主 大生弾正
麻生城主 麻生常安
芹沢城主 芹沢国幹
相賀城主 相賀詮秀
羽生城主 羽生
鹿島衆
蕨城主 武田信家
鉾田城主 鹿島三郎
鹿島城主 鹿島治時
宮ヶ崎城主 宮ヶ崎幹顕
徳宿城主 徳宿矩幹
沼尾城主 沼尾行幹
安房城主 安房幹連
粟生城主 安生幹実
烟田城主 烟田通幹
札城主 札幹繁
下吉影城主 野口右兵衛
林城主 林時国
田野辺城主 田野辺胤幹
梶山城主 梶山掃部介
阿玉城主 阿玉
用次城主 持寺
石神城主 石神二郎
中村城主 中村弥太郎
※北浦郷土文化研究会誌参考
南方三十三館の仕置とは天正18年豊臣秀吉による後北条討伐の際に江戸氏及び大掾氏が小田原不参だったため佐竹義宣が真崎兵庫助重宗及び和田安房守昭為に命じて江戸重通の根城13と館8ヶ所を焼き討ちし、大掾清幹を府中城で自害させ、その後三十三館主を呼び出し謀殺した事件である。
しかし、小田原では島崎安定らも佐竹義宣とともに秀吉に謁見しており小田原不参が要因とも言い切れない。
佐竹義宣は石田三成に取り入り秀吉より常陸一国を与える旨の宣言をもらい、さらに三成より「太閤殿下の伝達通り常陸の面々を成敗されるも可なるべし」との書状をもらい謀殺実行に至った。
三十三館主謀殺後は領国化を促進するため佐竹配下のものを配置し支配拠点を確立しようとしたのである。
一説には島崎城主島崎安定の嫡子徳一丸に佐竹義宣の娘を嫁がせると偽り佐竹氏の太田城に三十三館主を招き酒宴の席で招待客を襲撃殺害したともある。
※このような陰謀でも生き延びた者がいる。
札幹繁や青柳村堀野之内館の大膳武田勝信は佐竹氏が国替えとなるまで身を隠し難を逃れている。
武田信久が北浦両宿に至り武田信房が陰謀で落命するまでの174年間この地で「北浦武田戦記」が繰り広げられた。現在も近隣には武田川が流れ武田小学校があり当時の影響力が偲ばれる。
余談だが近隣の鉾田市二重作(旧大洋村)に武田次郎左衛門尉の武田城があった。
武田次郎左衛門尉は甲斐騒乱期に流れて来たとも、常陸武田の一族とも説があるが佐竹氏が転封になるまで服属した。城跡の近くには末裔の方なのか「武田製材所」がある。
多分このあたりが武田城跡 2013年6月撮影イメージ 6

源氏北へ

1051年(永承6)藤原登任が鬼切部での大敗を喫し朝廷は源頼義を陸奥守に任じ安倍頼良追討のため奥州に赴つかせたことに始まる前九年の役で源氏の北進は幕を開いたのであろう。
2009年8月に訪れた多賀城跡。前九年後三年の役で重要な軍事的拠点であった。イメージ 1
後三年の役では左兵衛尉の官職を捨て兄八幡太郎源義家の陣中に馳せ参じた弟新羅三郎源義光の伝承は有名である、この義光こそ清和源氏義光流の祖である
茨城県ひたちなか市にある武田氏館内に展示されている笛(笙)を奏でる絵画。
後三年の役へ出兵の際笛(笙)の秘曲を豊原時秋に伝授する場面。2012年5月撮影
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1180年(治承4年)義光の曾孫武田信義は富士川の戦いで武功をあげ甲斐源氏の武名をあげた。
山梨県韮崎市役所の武田太郎信義之像と武田信義館跡。
2008年6月撮影

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義光の玄孫南部光行は1189年(文治5年)奥州平泉にて藤原泰衡軍との合戦での戦功で陸奥国糠部郡を賜り甲斐源氏の北進が始まった。
青森県八戸市にある南部の総鎮守櫛引八幡宮2008年1月撮影


江戸初期の南部浪人福士右馬丞長俊が書き記した「田名部御陣日記」通称「東北太平記」は1457年(康正3年)下北半島で勃発した戦乱を記したものだ、護良親王の系統をおす南部(政経)と後村上天皇の系統をおす武田(五郎蔵人信純)との北部王家をめぐる政治的な紛争である。
また、北海道で1457年(康正3年)にコシャマインとの戦闘で功績をあげた若狭武田の信広は有名である。
北海道上ノ国町にある武田信広を祀る「夷王山神社」
2006年5月撮影
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多少横道に入るが津軽為信の実父とされる大浦守信(甚三郎)は赤石城武田筑前守の養子となり武田紀伊守を名乗っていたが実兄為則(彦六郎)に呼ばれ堀越城に入り堀越城主大浦(武田)守信となった、後に九戸の乱で壮絶な戦死を遂げている。
購入した古書、著者吉村和夫氏の金木屋物語には金木屋武田の先祖は武田勝頼の落胤とある。白山友正氏の著書は昭和42年発刊で私の生まれ年であった。イメージ 6
<私事>
明治期に高祖父は海を渡り函館に着き津軽海峡を舞台に富を得た、祖父の代にそれまでの富はかげり樺太(サハリン)の事業者より跡継ぎとして呼ばれた。理由は定かでないが事業を継がず北海道へ帰ってきた。太平洋戦争前の事である。祖父が一番北進していた。

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