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私の母は 昭和15年生まれで 女3人男3人の6人姉弟の末っ子で 長女とは20歳離れています
私が小学生の頃に よく空襲の話をしていまして 未だに耳に残ってますが 昨日 あらためて聞きました
昭和20年 4歳だったのに 祖母(母の母)から聞いた話と相まってものすごくリアルに記憶が残っているようでした
母の家は大阪の難波の高島屋付近で宮内省御用達のお箸問屋の末娘として生まれ なに不自由なく育っていたようですが
昭和20年の大阪大空襲で 一家が一時期バラバラになり すべてを失い 貧乏のどん底に180度変わりました
同年の3月 毎日米軍のB29が飛来していまして ある日の夜中に空襲警報と共に
地域の防災長のような事をしていた祖父が町中に大阪に爆弾が落ちるから防空壕へ逃げるように呼びまわりました
深夜の寝静まる時間帯に空襲が始まり そのうち高島屋を狙ってくるという噂が広がり
防空壕から出て 避難することにしました
その頃 母の家族は母ともう一人の姉を残し その他の兄弟や丁稚など従業員は全員疎開していて
家には祖父母と母と姉の4人でした もう一人の姉は女学院生でしたが 風船爆弾工場に動員されていました
しかしこの空襲の前に工場も爆撃を受け 避難する際に兵士から
「大和撫子たるもの 米兵に捕まったら これを飲め」と一人一人に青酸カリを配られたといいます
空襲の日 4人一緒に逃げると 全員一度にやられるので 二組に分かれ
また高島屋の前に集まろうと約束して 逃げました
当時は防火用の水槽が街のあちこちにあり 綿が沢山詰まった厚めの冬用の布団を 水槽に浸して
祖母は母をおぶって その上からその布団をかぶって 逃げます
焼夷弾で町中が焼けていて すぐに布団が乾いてしまうので 用水路などを見つけてはまた布団を浸して 被って逃げたと言います
女性が4歳の子供をおぶって水に浸した冬用の布団をかぶって走るということを 今思えば 想像を超える大変なことと思います
別の防空壕に逃げましたが 兵隊のような人がこんな所すぐにやられると言い
また逃げることになりましたが 高齢の人など転倒してしまうと 構うことなく むしろまたいで逃げていたのを見たとも
そして銀行の地下にまた避難しました 祖母が地下に煙がすうすうと入ってくるのを見つけ
ここは危険だから外に出た方がいいと言いましたが 皆は外の方が危ないと言って 祖母を引き留めようとしましたが
振り切って祖母は母をおぶって外へ出て 焼夷弾の雨の中を逃げました
焼夷弾のカラカラカラカラと鳴りがら落ちてくる音や 町中の家が燃え 炎がもうもうと燃える音も未だに耳朶に残っていると言います
3月に水にぬれた布団をかぶっても 街が炎の海なので 全く寒くなく むしろ暑かったそうです
後日の報道で地下に逃げた人は 煙にやられたり シャッターが開か無くなって 蒸し焼き状態になって
全員が亡くなったというのを 祖母が母に語っていたと言います
逃げ遅れて亡くなった人が沢山倒れている街の中を 走りぬき 母がおしっこをしたいと言っても
祖母はおぶったまま そのまま出させて 安全な所までたどり着いたと言います
陽が昇って 空襲が収まり 焼け野原になり 遠くから高島屋の建物が見えたと言います
それを目指して歩いていきました
やっと高島屋に着くと 母達が遅く着いたようで 祖父と姉は死んだのではないかと 半ば諦めかけていたと言います
乾パンを配りに来る人が来て 祖母がこの子(母)にあげて と言うと 配ってる人が母の手にわずかな乾パンを
渡そうとすると 横から母の手をはらって その乾パンを奪っていった大人もいました
家も焼かれ 祖母方の実家のある奈良へ向かいました かろうじて動いていた電車も 一駅か二駅で止まってしまい
線路に降りては歩き 電車が動いて乗っても すぐに止まってしまうので また歩く ということの連続で
奈良の道すがら ススで顔も服も真っ黒になった母達をみつけた 見ず知らずの人が
大阪で空襲をうけたんやなあ かわいそうに と言っておにぎりを差し入れてくれた人なども 大変よく覚えています
もっともっと比べ物にならない大変な体験をされた方や地獄から生還された方は何万とおられますが
4歳の女の子の脳裏に65年経っても 未だに記憶を残す この体験がどれほど凄まじい事だったのかと思います
戦後 母の家族の中で最初に仏法に巡り合ったのが その時祖父と逃げた姉(私の伯母)でした
その姉の折伏で母が入会しました 子供 孫へと信心が継がれているのも 母と姉の子供 孫で
そして 今 生きているのも 空襲を経験した 姉と母の二人になりました
昨日 私が母に空襲の話しを聞いた時に言ってましたが
先月 母は82歳の姉と会い たまたま空襲の話もし 兄弟で空襲で命の危機を経験した二人だけになった事や
仏法とのめぐり合わせや使命をつくづく感じたと 語ったそうです
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春光さん☆
貴重なお話、ありがとうございます☆
じっくり読まさせていただきました。
この時期、戦争について考える機会がたくさんあります。
本当に戦争は絶対悪だと感じます。
春光さんのお婆さまが、必死に守りぬいたお母様から命がつながり
春光さんが生まれ、縁あってこうして交流させていただいてます。
他人を大事にしなかったり、1日を大切に生きないことは、戦火を生き抜いてこられた方に失礼だと感じるようになりました。
これからは私たちが語っていかなきゃですもんね!
もっと勉強しておかなきゃ・・・
長文すみませんm(*- -*)m
2010/8/15(日) 午後 3:59 [ よぴ ]
私の父は、通信員として、兵役で満州に行きました。
戦後ぼろぼろになった身体で、子供も全員亡くなり、働けず、どん底で十数年、やっとバイトについた先(リッカーミシン)の上司から折伏されて、仕事を続けたいが為、仕方なく入信。
でも、真剣には活動してなかったけど、反対した母が頑張るようになって、十数年ぶりの子供として私が生まれたんです。
で、あまり熱心に活動しなかったにも関わらず、いつも死ぬ死ぬ言ってたくらい身体が弱かったにも関わらず、言論問題の時は、先生の批判記事本を密かに買っていたにも関わらず^^;
父は母より長生きしたんですよね。。。(>▽<)
一家の宿命転換に踏み切った人が、物凄い功徳を受けるんですね^^
2010/8/15(日) 午後 6:41
よぴたん
>他人を大事にしなかったり、1日を大切に生きないことは、戦火を生き抜いてこられた方に失礼だと感じるようになりました
自分もこのことを ついつい見失いがちです
ありがとう
戦争をする時 命に変えても護るものがあると言い
戦争をやめる時 命をほど尊いものはないと言います
戦争をするのも 平和を創出するのも人間ですね
観心本尊抄に「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」
とあります 正しい生命観にたって 対話を持続していき
一人一人に平和の砦を築くしかないですね
隣人を愛する たったこれだけの事ができないで
平和をきれい事だというのが勇ましいと思う思考の人も多いですね
先生が親孝行ということを徹底して仰いますが
一見当たり前のようですが 「親孝行」ができる人 親孝行ができる状態とはどういう状態か
「親孝行」という言葉からものすごい広がりを感じざるえません
今 一番危惧するのは OO人だから OOの宗教を信じている人 OOはできない人
だから中傷しても構わない 何を言っても許されると言う風潮です
いじめは虐められる側も悪
2010/8/15(日) 午後 9:45
500文字超えてました(^^;
いじめは いじめられる側にも問題がある
いじめられる方も悪い という風潮こそ
一番憎むべき 思考で 転換しなければいけないと 思ってます
長文 短文 関係無く 歓迎です(^^)
2010/8/15(日) 午後 9:48
Likaお母さん
私が子供の頃は 町中や銭湯などで 戦傷を負った おじさんが沢山おられました
今でもはっきり覚えているのは 銭湯で片腕の無いおじさんが
「僕何歳? ええなああ おっちゃんの若い頃は戦争で 楽しいことなんか一つもなかったで
戦争が終わっても 苦労ばっかりやったで うらやましいなあ」
としみじみ語っていました
そのおっちゃんとは 何度も銭湯で戦争の話を聞きましたが
急に顔を見なくなりました
国名は忘れましたが 東南アジアのどこかに戦争で行っていた方で
ずっと独身を通していると言ってました
Likaさんのお父さんと同じ世代なのでしょうか
Likaさんの出生にもそういう背景があったんですね
口にするのも 思い出すのも嫌だという人も沢山いますが
知っている限りのことは 多くの人に知ってほしいと思います
なにか知識のある人の専権事項になるものコワイです
内容がずれてすみません(^^;
2010/8/15(日) 午後 10:04