|
16年も経ったとは思えないほど 鮮明にその日の事は覚えています
私がいた地域は 当初震度4と言われてましたが 後に震度5に訂正されました
地の底でゴ―――という音が聞えるような気がして 目覚めた瞬間に
一回突き上げられ すぐに横に何度も揺れました
遠くでしたが あちこちで ガラスが割れる音や女性の悲鳴も聞えました
未だにガラスの割れる音や女性の大きな声
ヘリコプターの音を聞いたり また冬の寒さを感じると
その時が蘇ります
1〜2日 震度3〜4程度の余震も続きました
電気ガス電話は使えました 1時間もしないうちに男子部の部長から電話があり
会館で毛布を集めて南港に運ぶ人手がいるので 差支えなければ来てほしいとのこと
会館に行くと そこから車で30分ほどの別の会館に行き
数百人でしたでしょうね 沢山の男女壮婦が 規律よくすでに作業をされてました
思えば地震発生からまだ数時間も経ってなかった午前です
前日まで大地震が発生するなんて 誰もが思ってもいなかったのに
短時間でこんなに沢山の毛布や食料品 水 カイロが集められ
当然のように皆が規律正しくものを運んだり 作業をしている光景に
ただただ すごいとおもいました
その時点では 神戸の惨状はまだ実感がなく
ラジオが鳴らされていましたが 作業に夢中で耳に入りません
砂利運搬船を何隻かチャーターし そこに物資を積み 人も一緒に乗り込みました
六甲山方面から煙がもうもうと見えていて
船上は寒かったですが それよりも何が起きているのか・・
見たいような見たくないような不安がよぎり
誰もが小さい声で題目をあげていました
神戸港に近づくと 煙の匂いかなんの匂いか 火事現場の匂いのような
不思議な匂いと 沢山の人が動いていました
でも 町が止まっている という感じがするほど 妙な静けさも感じました
いくつかのグループに分かれ
私はポートアイランドというところの病院に行きました
地面一帯が泥水で洪水かと思いましたが 埋立地特有の「液状化現象」というものでした
これが 大好きな神戸か?と思うほど 別世界のようでした
余震が来るたびに 避難されていた方々が怖がるので皆で声をかけ
手をさすったり 話しをしたり 皆が皆 体験したことの無いことへの
戸惑いと不安の中 戦争を体験された年輩の方は進んで
作業を手伝っていました
しかし この地域はまだましな方でした
その後 歩いて橋を渡り 兵庫池田文化会館へ行き 物資の仕分けを手伝い
借りていた砂利船の出発時間になり夕方には大阪に帰りましたが
大阪でも まだまだ作業は続いていました
バイクを持ってる男子部が集まって トラックでは行けない地域に物資を届けてる話しや
学会の文化祭の時に協力してくれた お弁当や衣類縫製の会社
レンタル会社なども物資提供に協力してくれた話を聞き
組織の訓練がこう言う時に役に立つことの重大さを実感しました
後に問題となった 過剰な物資の譲渡や関わりすぎるボランティアはなく
被災者を自立させることを目的とした 必要な時に必要な援助
が当時からなされていました
また モノクロで見る 戦争のフィルムがそれまでと違い
リアリティを持って観るようになりました
職場や大学時代の友人など 何人かの知人が亡くなり
家が全半壊した人など さまざまでした
自分だけとっさに逃げて 弟を死なせてしまった後悔から
今でも引きこもって定職につけずにいる友人もいますし
5年前までホームレスだった人もいます
その他のことや後のことは ご存知の通りです
心の整理がついていない人は 沢山おられます
まだまだ阪神淡路大震災は終わっていないのが現状です
復興住宅の今
16年経っても まだ復興がままならないまま 今も耐えて生活されている方が多くいます
今でも復興住宅に住む方が5万戸近く
震災で住む家を無くした人の為に県などが用意した
公営住宅
約4万2千戸 その内の6割が65歳以上の人達になっていってます
民間の
借り上げ住宅
約5000戸に今でも住まわれています
期限が来たら出ていかなければならないんですが
経済面や体力の問題から現実的に不可能な人が多く
県は買い取る方針を示していますが・・・
被災時に、健康で仕事もあった人は それなりの生活に戻れていますが
被災時に弱者だった人は、16年過ぎても 生活の復興は進んでいません
ニュースなどでは、立ち直った人がよく取り上げられていますが
まだまだ立ち直れていない人が多くいるのも現状です
♢ ♢ ♢
先日 大阪のテレビで 一人の方が紹介されていました
その方は今年で還暦の男性
大阪生まれ 関西の名門大学で法律の勉強中に
音楽と出合います 友人に誘われたまたま聞いたパイプオルガンに魅了され
独学でピアノを学び 上達し アルバイトで学生にピアノを教えた所
芸術大学に次々に合格者を出し いっきに評判になります
大学卒業後もピアノを教え 声楽家の女性と結婚し
35歳で神戸に音楽教室を開きます
当初は厳しかったものの 8年目から軌道にのり
バブル期ということもあり 収入が月に100万円を超えるほど順調に
しかし 1995年1月17日から すべては一変しました
音楽教室は撤退せざるえなくなり 倒産に
まさか自分が失敗するとは思っていなかったと語ります
結局 奥さんとも離婚 借金の取り立てに追いかけられる状態に
家族も財産も失い ネットカフェで夜を明かすこともしばしばで
気がつけば 大阪の釜ヶ先(あいりん地区)に
日本で最大の日雇い労働者の町です
ここには 震災で行き場を失った人が数多く路上生活をしていました
この方も釜ヶ先にダンボール二枚を敷いて寝る生活に その時は48歳
ここの生活は厳しく 毎年100人以上の人が病や寒さなどで
誰にも看取られないまま 命を失う方があとを絶ちません
何度か炊き出しに行ったことがありますが
毎年顔ぶれが変わっていきます
新聞紙を敷いてガレージで寝ていると 虫が飛び跳ねているのを見て
自分も虫と同じように生きる人間になってしまったと 思う日々
そんなある日 路上生活4年目に もう ひく事は無いと思っていた
キーボードを見つけます
釜ヶ先の路上で バッハをひきはじました
すると 周りのおっちゃん達は最初は鳩が豆鉄砲をくらったような顔していましたが
拒否することもなく うるさいと苦情を言うでもなく 聴いてくれました
次第に 拝む人 ワンカップをくれる人 100円玉を並べてくれる人が増え
震災で苦労した人が支援してくれるようになり
ホームレス生活に終止符をうしました
今でも夏には釜ヶ先でピアノをひき続け 路上生活者に寝袋や食べ物を配りつづけています
コンサートもひらけるようになりました
まだまだ切り詰めて生活する状況ですが
震災は多くの事を学んだ大事件だったが どこにいっても人の温かさを感じた
まだまだしんどいが がんばって生きていきたいと 淡々と語っておられました
どんな状況になっても 希望を失ってはいけないですね
私達が使命を使う場所は いくらでもあります
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- ブログバトン




思い出しますね
今だ震災住宅にたくさん住んでおられるのですね
報道されないので私たちは知りませんでした
春光さんたちも活躍されていたのですね
岡山からも支援に行ったと聞いています
学会の素早い支援体制に賞賛があったと聞いています
それに比べミンスの口先だけには嫌気がさしますね
2011/1/17(月) 午後 5:08
春光さんが語ってくださらなかったら、ずっと知らないこともありました。感謝。
今朝の聖教は、きちんと当時と今を伝えていますが
TV等は、触れただけという感の報道ばかりでしたね。。。
私の国際部の先輩にも、震災の後、居を札幌に変えた方がおり、頑張っておられます。
2011/1/17(月) 午後 11:38
無冠の父さん
岡山も揺れましたんですよね
何も積んでいないトラック救援物資搬送中と書いて
ウロウロと走り回ってる団体や政党がありました
あちこちの目撃で明らかになっています
宗門の寺も閉まったまま 被災者一人っこも受け入れていません
人間もそうですが いざという時に 本物かどうか解りますね
2011/1/18(火) 午後 1:13
Likaのお母さん
エピソードは五万とありますが
発達した日本の神戸でも大変ですから
ハイチやインドネシア イラン また台湾 イタリア 中国
など もっともっと大変で長い年月にかけて苦しい想いをされると思うと いたたまでないです
転居された方も多く 神戸の人口の4割は
震災を経験していない人になってきました
2011/1/18(火) 午後 1:20