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東日本大震災 長野県栄村大震災 東京電力原発事故 から1年10カ月 670日
3・11あの日から【宮城・気仙沼の秋】
<残された2人> 家族、夢なら会える(2011/10/30)
3.<残された2人> 家族、夢なら会える(2011/10/30)
午後6時、気仙沼市の高台にある一戸建ての掘りごたつで、3人が夕食を囲んでいた。 気仙沼中3年の横田敬(けい)君(15)、同1年の万弥(まや)さん(13)のきょうだいと、大叔母でこの家の主人とく子さん(77)。(すべて当時) 敬君はしきりに「疲れる」と繰り返した。吹奏楽部の練習から帰ってきた万弥さんは、ほとんど何も話さない。食べ終わると、2人はジャージー姿で塾へ急いだ。 両親の迎えなく 「生意気盛りだから」。とく子さんは笑いながら、2人の制服をハンガーに掛けた。 2人は震災前まで漬物・青果物店「麻布屋」を経営する父勝(まさる)さん(49)、母香也(かや)さん(49)、姉莉奈さん(17)、祖父啓三郎さん(84)の家族6人で暮らしていた。 3月11日、敬君は中学校、万弥さんは小学校にいて無事だった。学校で家族の迎えを待ったが、翌日になっても来なかった。 親戚の車に乗せられ、とく子さん宅に来たのは2日後。両親がそこにいるかもしれないと思っていた敬君はいないことを知り、叫んだ。「俺も死ねば良かった」。とく子さんは「そんなこと言わないの」と励ますしかなかった。 家族4人は4月下旬までに相次いで遺体で見つかった。車で避難中、津波にのまれたようだった。 「震災孤児」になった2人は、とく子さん宅で暮らすことになった。宮城県によると、震災のため、両親か、ひとり親を失った18歳未満の子どもは県内で126人。このうち17人が気仙沼に住む。 万弥さんは少し前まで、毎日のように家族の夢を見ていたという。「居間でテレビを見ているような、普通の夢」。家族に会えるのがうれしかった。 つらい授業参観 万弥さんの思いは揺れ動く。 1学期の授業参観。これまでは「母に見られるのがいやだった」が、今年は見られていないのがつらかった。 9月の運動会。競技が午前中で終わり、昼食は教室で生徒だけでとった。「正直、ほっとした」 給食のない日。野菜炒めと卵焼きの弁当を作った。「お母さんに近い味が出せるかな」。教室では、友人の弁当との見た目の違いが気になった。 万弥さんがそんな悲しさや不安を話すと、友人や先生は優しく寄り添ってくれた。でも「空気が重くなるっていうか、またその話って思われるのもイヤ。遊ぶ時はワイワイやりたい」。最近はそんな思いも芽生えてきた。 10月に入り、友人が泊まりに来た。季節はずれの線香花火が楽しかった。「お母さんは厳しかったから、友達が泊まるなんて絶対に許してくれなかった」 万弥さんは当初、友人らに「親戚の家に住んでいる」と説明した。それがいつの間にか「うち」に変わった。 敬君は1度、学校の授業を抜け出したことがある。向かったのは両親の墓地。敬君は「授業が面白くなかった」とだけ言った。敬君はいま、「震災のことは、あまり考えないようにしている」。 肌身離さぬ毛布 2人とも寝るとき、厚手の毛布を離さない。両親らが避難しようとした車から見つかった。避難先で子供たちが寒くないよう、運び出したらしい。 「自分でもよく分からないけど、この毛布にくるまって寝ている時間が好き」。万弥さんが少し恥ずかしそうに言った。 |
要談「気仙沼市」
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切ないです。
敬くん、どうか無事でいてください。
万弥さん、一人になっちゃうから、帰ってきてください。
2013/1/10(木) 午前 4:26 [ tetsumama ]
こんな思いをしていたんですね。。
敬くん、早く見つかりますように。
2013/1/10(木) 午前 6:57 [ 麻巣 ]
最初に不明の報を聞いたのは
大震災前に麻布屋のお隣さんだった、現在は鹿折のマルシェでお店をされている小野寺商店の奥さんからでした。
我が子のように心配をされていて、他人事と思えなくなりました。
未だに手掛かりが無いようです。
お婆ちゃん、万弥さん、どんな気持ちだろうかと思うと、胸が痛みます。
こうしても書いているばかりで、何も手掛かりに繋がりませんが。
2013/1/10(木) 午後 2:52