「従軍慰安婦」「憲法改正」など、人権意識が問われるニュースが相次いでいる中
政治家の発言に対してばかり矛先が向けられているのも、違和感を感じる時があります。
「ヘイトスピーチデモ」などは、堂々とあんなことができる社会に、私たちが許してしまったと考えています。
子どもの暴力を「イジメ」と捉えて表現するのと同じです。
表現の自由というものは、権力に対して訴えるものですが、
自分より弱いと思う者へのバッシングに使われていて
差別はいけません、という行政のポスターのような、単にそういう言葉の問題ではないですね。
あれがアメリカで行われたら、どうなったでしょう。
その根底に悲観的なものの捉え方、考え方、悲観主義を感じます。
相手を包み込む楽観主義、人間中心主義の思想、哲学が求められていると思います。
下記の岐阜新聞(5月27日付)の社説は硬骨な内容で、一読の価値があります。
ヘイトスピーチ 言葉の暴力 法的規制も
東京・新大久保などで繰り返されている在日韓国・朝鮮人らを標的にしたヘイトスピーチ(憎悪発言)デモは「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」「東京湾に沈めろ」など驚くべき言葉を白昼堂々と投げ付けている。
その中心となっているのはネット右翼とも呼ばれる「在日特権を許さない市民の会」(在特会)だが、右翼というよりもレイシスト(人種差別主義者)と呼ぶべき団体だろう。彼ら、彼女らの行為は言葉の暴力であり、脅迫に近い。
韓国、中国などのネットサイトでは、在特会の映像が翻訳付きで紹介され、反日感情を刺激している。「例外的日本人」の行動だとしても、周辺諸国は日本社会全体のムードを何かしら反映した言動と受け止めている。
このような言葉の暴力は、それを浴びる人々に、単なる不快感を超えた恐怖感さえ植え付けている。韓国料理店が立ち並ぶ商店街の客足への影響など経済的被害もある。
「こんな連中の言動はまともに相手にせず、徹底して無視すればいい」との意見もあるが、被害が厳然と存在している以上、何らかの対応を考えるべきだ。
法的な規制を求める声に「表現の自由が脅かされる」との慎重論が法律専門家の間では根強い。言論には言論で対抗すべきだとの原則論もある。
しかし、そもそもこれは「言論」の問題だろうか。論理を超えた言葉の暴力は言論の名にすら値しない。集団によって目の前で罵倒される被害者の状況を想像すれば、まともな言論で対抗し、被害を回復することはほとんど不可能だ。
ドイツ、フランス、イタリア、米国など欧米諸国の多くは、憎悪発言をヘイトクライム(憎悪犯罪)として規制する法律を持つ。ユダヤ人虐殺の過去があるドイツは特に厳しく、公的な場所でナチスを礼賛する言動をしただけでも、処罰の対象だ。
国際人権委員会、国連人種差別撤廃委員会なども憎悪発言を規制するよう各国に要請している。
日本は1995年に人種差別撤廃条約に加入したが、条約内容を徹底させる国内法は未整備だ。
日本政府は人種差別撤廃委員会への今年1月の報告書で次のように書いている。
「処罰立法措置を取ることを検討しなければならないほど、現在の日本が人種差別思想の流布や扇動が行われている状況とは考えていない」
在特会だけでなく、憎悪発言がネットにあふれている現状を思うと、残念ながらこの認識は一時代前の認識になりつつあるようにも思える。
脅迫、威力業務妨害など既存の罪による処罰が十分に行われていない状況も考えれば、「人種差別禁止法」の制定を検討すべきだ。法の下の平等を定めた憲法14条が禁じる人種による差別とは何かを具体的に法で定義する必要がある。
ただちに罰則を設けるかどうかは慎重に考えたいが、禁止法があれば、人種差別デモを実質的に規制することが可能になるし、損害賠償など民事訴訟の根拠にもなる。
文学や映画、演劇などにおける個別表現までも「言葉狩り」のように規制する必要はない。
表現の自由を萎縮させない十分な配慮をしつつ、憎悪犯罪に該当する最小限の範疇(はんちゅう)を定めるだけでも抑止効果はあるはずだ。
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