|
なぜ大阪には在日朝鮮・韓国人、沖縄出身者が多いのか 日本で唯一、国境なき医師団が入り、世界のスラムの中で、最も社会からの眼差しが厳しいと言われる釜ヶ崎の成り立ちを、大変長いですが是非お読みいただきたいです。 これで全てが分かるものではないです。 紙芝居劇「むすび」公演 むすびのスタッフでもある、アクティビスト友岡雅弥さんの講演から
▼30年・40年前に、釜ヶ崎(かまがさき)では冬の間に200人の凍死者が出たことがあった。 色んな団体が夜回りをして「越冬闘争」を行うようになる。3月になれば寒さも和らぎ、また公共事業の駆け込み需要があるが、4月になると一気に仕事が減る。そういうことから、2月までの寒い時期に毎日夜周りをする。2009年、3月を迎える時、そろそろ夜周りも週一回だけと思っていたら初めて釜ヶ崎に来たという4人の方に出会った。30代と40代の方で、それぞれ面識もなくバラバラの所から来られた。話をきけば滋賀県の大きな企業で雇止めになり、住まいも追われ、新今宮駅までの片道の運賃だけもらって来たと。これは初めての事態、大変な事だと思い、初めて釜ヶ崎に来られた方が、どこに行けばいいのか、生活や医療のことを相談できる場所などを記した案内チラシを作り、寒さに対する夜周りだけでは無く、初めて来られた方のためにチラシを配ることが始まった。その4人の方が来られた翌日も2人来られ、その月は計8人となった。 ▼「釜ヶ崎」と「あいりん」地区を同じと誤解されている方が多いが、住んでいる方々は「釜ヶ崎」と呼び、行政は「愛隣・あいりん」と呼ぶ。 釜ヶ崎と山王町を合わせて「あいりん地区」という行政の呼び名。なので釜ヶ崎はあいりん地区の一部のことで、住んでいる方は「釜ヶ崎」の呼び名に親しみを抱いている。実際には「釜ヶ崎」という地名は今は無い(1922年に消滅)。 由来は大阪湾が上町台地にまで広がっていた頃、「鎌」のように突き出た形の半島の岬、ということから付いた地名で、炊き出しのお釜が先という都市伝説は間違い。現在の地名では、主に萩ノ茶屋(はぎのぢゃや)1丁目〜3丁目、また北天下茶屋(きたてんがちゃや)1丁目・2丁目を含むこともある。 ▼釜ヶ崎という町が、なぜこういう町になったのか。 一つは堺筋の西、銀座通りは江戸時代の紀州街道で、紀州に繋がっている。そして奈良・御所(ごせ)に繋がる街道が交差している。 紀州といえばその昔は、みかん、なたね、綿花、また干物などが流通して大変繁栄をしていた。 奈良街道の先には、木綿の一大生産地の河内(かわち)、薬で繁栄した郡山・御所があった。そうした商品作物などが街道を通って天下の台所・大坂に流通し、その交差する場所に安い宿屋が集まっていた。 江戸時代の末期になると、天保・天明などの大飢饉が相次ぎ、お米を作っていた人達が、暮らせなくなったきた。その時代というのは、職業と身分と住んでいる所が全部一体であったため、農業ができなくなったから都会へ行って一旗揚げようとと思っても、その人は戸籍をはく奪される無宿人、欠落(かけおち)者となる。 それでも、そのままでは餓死してしまうために、街道を通って人々が流入してきた。そこで天下の台所大坂は、それらの人々を安い労働力として使おうと考える。昼間に仕事を沢山与える、夜になると木戸を閉めて、木戸の外に追い出す。その木戸は今の日本橋の北側にあった。それら無宿人が集まる宿屋街が一帯にできてきた。 ▼今放送中のNHK朝ドラ『ごちそうさん』の時代がまさにそれですが、関東大震災が起きた後、約20年間の大阪は、人口でも、また鉱工業生産も東京をはるかに上回り、世界でも第5位4位にくいこむ日本最大の都市であった。その大都市大阪はどこまでであったか、それは日本橋よりも北側だった。日本橋よりも南側は大阪市ではなく、西成郡。 大都市大阪を繁栄させる為のいわゆる3K(汚い、きつい、危険)労働に従事する人達を、西成郡の一帯にかためられていく。つまり大都市大阪の繁栄を支えているが、大阪市には住んではいけないとされた。 大阪の西側に造船鉄工の日本最大のプラントができる。その労働を維持するために、大工場労働者を大正区に集められていく。 どこから集められてきたか、朝鮮半島・済州島と沖縄からであった。大正区小林町に朝鮮人街(当時は韓国は無かったため朝鮮と呼ぶ)と沖縄人街ができてきた。 やがて、東成(ひがしなり)・生野(いくの)の運河の掘削のために、朝鮮半島から連れてこられた人達と共に東側に移住することになり、大正区に残った沖縄の人達によって日本最大の沖縄人街となる。 東成、生野区には日本最大の在日韓国朝鮮人の町ができた。 また大都市には必ず大量のゴミが出る、その処理に従事させられ、さらに亡くなった人を火葬したりなど、死者に関わる仕事、人が嫌がる仕事に従事させるために、一つの地域に人が集められてくる。そうして、いわゆる日本最大の被差別部落ができた。 また、大都市大阪を支える、建築を扱う人達を土方と呼び、運輸を扱う人達を仲仕(沖仲仕)と呼び、それら肉体労働に従事する仲仕と土方の人達が集まる町が、釜ヶ崎に成立してきた。 さらにそのころ身分が低いと言われていた、芸人達が「てんのじ村」を形成していく。天王寺(てんのうじ)とは違う。ひらがなしか読めない我々は、いつか天王寺のようになっていくという思いから「てんのじ村」として山王町辺りにできていく。 こうして大都市大阪の周辺部に、大都市の様々な問題の仕事をさせられてる人達が集められてきた。 大都市があるとスラムができてくるが、大阪の中で暮らせなくなってきた人達が、現在の日本橋1丁目〜4丁目に集まってくるようになり大阪最大のスラム街がつくられる。 こうしてきて、釜ヶ崎が成立してきた。 2に続く。 現在の大阪 古地図 山王町 てんのじ村記念碑 |
放談 「貧困・差別・ホームレス」
[ リスト ]




釜ヶ崎の歴史から詳しく教えて下さってありがとう。(=^0^=)ノ
これまで路上生活者のことをよく知らないで偏見で見ていました。
でも、彼らは自分で望んで選んだ道ではなく、社会からいきなり切り捨てられた人たちだと知りました。
その人たちの抱いている感情や誇り、置かれている状況や問題など、読むと言葉になりません。
ありがとうございました。
2014/1/20(月) 午前 11:05 [ 麻巣 ]
ますピーどん
こちらこそ、長文を読んていただき、おおきに。(^。^)
鶴姫さんの感想といい
ますピーどんの感想といい
なんだろう、うまく書けませんが、捉え方、眼差しが違うなあと思います。
普段の生活で理屈ではなく
同苦し、共感して協働されているからでしょうね。
パッと反応し行動を起こす。
そこに、高尚な理論や理屈など挟まないシンプルさ。
こちらこそ、ありがとうございます
です。
2014/1/20(月) 午前 11:44
釜ヶ崎についてわかりやすく説明されてて参考になりました。
ありがとうございます。
2014/10/5(日) 午後 11:12 [ gen**s_m*ms_28 ]
お読みくださり、ありがとうございます。
2014/10/6(月) 午前 2:02