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1からの続き
▼そのころ、大阪市が新世界にまで拡張されたが、今からちょうど100年前のこと。新しい都市計画にもとづいて、新世界がつくられ、初代通天閣ができて今年で100周年となる。 その時に勧業博覧会が開催され、天皇が訪問することとなり、天皇が通る両脇にスラムがあることは見苦しいということで、スラムの人達が追い立てられていく、そして安い宿などがある釜ヶ崎に人が押し寄せてきた。 大都市を支える安い賃金で建築業と運輸業に携わる人達の安宿街に、追い立てられたスラムの人が流入してきて、釜ヶ崎が成立してきた。 それはどういうことか、家族がいる。しかし現在の釜ヶ崎にいる人の約97%が男性。家族が住んでいた釜ヶ崎が、なぜ97%の男性の町になったのか。そのヒントは1970年、万国博覧会に。 ※釜ヶ崎の男性平均寿命が67歳。ということから、どれほどハードな仕事をされてきたのかが解かる。ちなみに釜ヶ崎といえば、怖い所、というイメージが大阪で広がってますが、過去30年で凶悪犯罪は3件のみ。その3件が異様に大きなこととして取り上げられるので、怖いというイメージを持つ人が多い。釜ヶ崎は縦に約1km、横に約600m、人口約3万人。日本で一番人口密度が高い地域。また世界最大の結核罹患率(10万人あたり516.7人、全国平均の28倍で、モザンビークとほぼ同じ・大阪府も20年以上全国ワースト1)だったが、この2〜3年で改善されてきている。国境なき医師団(MSF)は今回東北に行きましたが、基本は第三世界に行く。発展途上国などに行くのが基本的なミッションだが先進国にはじめてミッションを送ったのが、釜ヶ崎だった。釜ヶ崎は先進国として初めてMSFの医師を受け入れた。その時に来ていた医師がこう語っていた。「他の地域も、非常に大変だ。しかし、釜ヶ崎がさらに大変なのは、まず状況が大変だ、しかも社会が大変だと思わない。怖い人達、変な人達と社会から偏見で見られているので、二重の意味で大変だ」と。 【釜ヶ崎の今の姿は、20年後の私たちの町の姿】 家族が沢山住んでいた釜ヶ崎が、なぜ97%男性の町になったのか。そのライフスタイルとは? ▼1970年といえば、万国博覧会(大阪万博)が開催されました。万国博覧会が開催される前までは、大阪は「南高北低」だった。 しかし今は「北高南低」ではないか。どういうことと言えば、昔は泉州など南から様々な文化が発信されていたが、万国博覧会以降、北摂から新たな文化が発信されはじめ、いつしか北がハイソな町になった気概を感じる。東京はオリンピックを機に、発展を続け戦後はおわっていった。大阪は実質まだ戦後が続いていたため、万国博覧会で一気に立て直そうと、人をかき集め土木作業を進めた。 その時に大阪府及び大阪市は、沖縄を除く日本全国すべての地域に、今でいうハローワークの分室を作り、「大阪に行けば沢山仕事がある」とふれこみ、集団就職の方々や、農家の次男三男など、とにかく人を集め、10万人と言われる人達を大阪に連れてきた。しかし、それだけの人が一度に泊る場所が無い。 しかも大阪府の人達は分かっていた「万博の工事が終われば、この人達は要らない」と。 それは何を意味するのか、作業に従事する人達を恒常的に、永住する所を作るのはもったいないと考え、釜ヶ崎に目を付けることになる。 しかし釜ヶ崎は家族がいる町、まさに「じゃりんこチエ」の町。府や市はそこで何を考えたか・・・そこは「賢い」いわゆるドヤ街、非常に小さく狭い家に子どもがいるのは危険、火災が起きたらどうするのかと建築基準法を見直し、そういう所に1人以上が住むことを禁止した。そうすると、大家さんは家族を追い出していく。沢山の空き家が生まれ、そこへどっと単身生活者が流れ込んできた。現在、前大阪府知事は、その場所を家族のいる町にしたいと言って、今度は独身高齢者が居られなくなってきている。 結局、行政側の色んな思惑などで、町の形が急速に変えられると、とにかく大変だ。色々なことがあり、やっと安住していた人が、また落ちていくということが、実際に起こっている。そういうことで、釜ヶ崎は単身・独身の男性の町になっていった。 釜ヶ崎には昼間から大勢の人がいる。南海電車の乗っているとそういう光景が見えるが、母親がわが子に「勉強しないと、あそこで寝てるおっちゃんみたいになるよ」と言われていくようになる。実際は夜に空き缶を集めに行く人が多いためで、それは昼間だと嫌がらせにあうからだ。空き缶は現在、1kgで85円〜93円になる。東大阪のある地域だと、1kg=115円になるので、元気な方はそこまで行っておられる。夜にそういう仕事をされているので、昼間は寝ていることが多い。 ▼日本の巨大土木建築業はどこから始まったか、それは北海道開拓である。北海道開拓にどういう方が建築労働にあたられたか、それは網走刑務所の囚人。刑務所の囚人だから、悪いことをした人ばかりと思うかもしれないが、決してそうではない。その当時の重罪の囚人の多くは、自由民権運動などで政府に抵抗をした農民達である。当然、犯罪を犯した囚人も含まれるが。脱走をはかってもすぐ解かるように、赤い囚人服を着せられて、鉄の玉と鎖を取り付けられて強制労働をさせられた。その結果、北海道の線路には枕木の数だけの死体が埋まっている、と言われている。 ちなみに、九州の炭鉱も同じである。最初に山に入れられた人達は、西南戦争で西郷隆盛側で戦った人達が国賊として、炭鉱労働を強いられた。さきほど紙芝居劇に出られていた故佐野さん(享年93歳)は元炭坑夫でタコ部屋の経験もある。そこにはドーベルマンのような大きな犬が2匹飼われており、脱走をはかるとその2匹に噛み殺されるという。朝鮮半島から連れてこられた労働者をそのようにしてきたことを、佐野さんはその目で見てこられた。その中で佐野さんはどうしたか、夕食には必ずメザシが2尾出る。そのうちの1尾を毎日食べずにとっておく、そして集めたメざしでメザシボールを作って、逃げる時に犬にめがけてメザシを投げて、犬がメザシに気がいっている間に走って、九死に一生を得た。そういう体験をされてこられた方だ。 戦時中も同じシステムで戦地に動員された経緯もある。しかし戦時中は鉄は貴重であるため、鎖は無くなったが、その代わり恐怖によって逃げられなくしたのだ。すなわち逃げたら殺すということで、リンチなど見せしめにした。(2003年に発覚した朝日建設事件のように、それに近いものも未だに残る場合もある。http://matome.naver.jp/odai/2131870003046074601しかし、釜ヶ崎の中では、噂がすぐ広まるので悪徳な業者は無い。) 戦後もしばらくは、そういうことが続いた。しかし日本は曲がりなりにも民主国家なので、少しずつは改善されてきた。恐怖から逃げられなくした時代から、次にどうしたのか。依存をさせることで逃げられなくした。例えば、『OO県でダム工事があるよ、3ヶ月働いてみないか?寮では炊事、洗濯、掃除、布団のあげおろしまで、やってくれる人がいる、だから何も心配は要らない』と口説く。楽でいいのだが、そこから離れた生活が考えられなくなってくる。 実際に釜ヶ崎で出会うおっちゃん達は態度が大きい。 「わしは自分の力でここまでやってきた」となかなか生活保護を受けようとしない。身体もボロボロで、限界を超え働けなくなってると諭しても、自分が1人で生きてきたという意識が強烈にある。しかし現実にはその時点で初めて自分で洗濯機を動かした、ということがあり生活スキルが全くない。 また、文字を読めない方が10人に1人おられる。たとえ読めても役所の書類などの表現は非常に難しい、私たちでも難しい事が多いので、同行して手続きをしてあげる必要もある。確かに1人で生きてきたのだが、全部代行の人がやってあげてきたので、親分肌の面はあるが、生活スキルが全くない状態に落としこめられてきた。それは決してその方々の責任ではない、そうすることで、これ以外の人生は送れないような形に自動的になってきた。 さらに、覚せい剤も勧められてきた。かつてヒロポンなど覚せい剤は普通に売っていたが元々は特攻隊用のクスリであった。私の父は特攻隊であったので、よく知っている。また高い酒やギャンブルを勧められ、集団の中では断れない状況で手を出し、給料から天引きされるケースもあり、覚せい剤依存、アルコール依存、ギャンブル依存、が釜ヶ崎では3大依存症と言われるようになった。しかし、それらはその人達の責任というよりも、その人達が陥った社会のシステムの中で、それ以外は考えられないというように、社会のシステムが、その人達の生き方に大きく影響を与えてしまったという部分でもある。昼間から酒を飲んで!と思うかもしれないが、その人達をそのようにしているのは、我々の社会が刻印を押した、刻みつけものである、ということではないか。 3に続く |
放談 「貧困・差別・ホームレス」
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