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サンフランシスコ条約で日本の独立のためにアメリカに身売りされた沖縄は、1972年昭和47年の5月15日
その執政権が日本国に返還され、再び沖縄県となりました。
島津侵入 薩摩藩の侵攻による第一琉球処分から数えて、4度目の『世変わり』琉球処分とも言えるこの日。
復帰すべき国は「日本国」だったのか、という論調もあります。
自分が沖縄に関心を持ち始めたきっかけは、中学時代の授業でしたが
さらに強くなったのがウルトラマンでした。
そのウルトラマンの再放送を大人になって観た時に、子どもの頃とまったく違うものに見え、それを作った人が沖縄の人で、時代の流れの中で苦悩し続けた人だということを知ってから、沖縄の歴史をもっと知りたいと思いました。
▼沖縄が米軍支配下にあった昭和40年代のはじめ(1960年代後半)
ウルトラQ ウルトラマン ウルトラセブンが放送されました。
そのウルトラマンを作った男として知られているのが「金城哲夫」さん。
光の国の使者 光線 地球滞在時間三分などのアイデアをはじめ、多くの脚本も手がけました。
金城哲夫は昭和13年東京生れ、翌年に沖縄に帰郷し戦時下では米軍収容所にいました。
高校は東京の玉川学園に入学、24歳で脚本家デビュー
28歳時にウルトラQ ウルトラマン その後ウルトラセブンの企画立案・脚本などを手掛け
31歳で円谷プロを辞めて沖縄に帰郷、ラジオやテレビの司会、沖縄海洋博の開会式の演出を手掛けた直後、自宅の階段から落下して37歳の若さで亡くなっています。
ウルトラマンが放送されだした頃、佐藤首相の沖縄訪問を機に、一気に沖縄返還への機運が高まります。
▼ウルトラマン史上屈指の名作と言われる「まぼろしの雪山」
雪山怪獣ウーが登場する回。単なる勧善懲悪を描くのはではなく
怪獣ウーの正体を知る少女が正義のため、人類のために戦うヒーロ
ウルトラマンに対して
「なんでもかんでも怪獣呼ばわりして 殺してしまう 恐ろしい人たちだわ」と言い放つ。
正義とは何か、なんのために戦うのか・・・そんなテーマも。
子どもの向けの娯楽だからと、「子ども扱い」しない姿勢があります。
●メフィラス星人が登場する「禁じられた言葉」の回では
言葉によって人間の心を支配するメフィラス星人とウルトラマンの一対一の対話のシーンでは地球を売り渡す人間はいない と言うウルトラマンに対して
「黙れウルトラマン 貴様は宇宙人なのか? 人間なのか?」というセリフを盛り込む。そこには金城哲夫が自分はウチナンチュかヤマトンチュかという自分への問いかけも。
沖縄が変わろうとしている時、沖縄人の哲夫が東京で仕事をしている自分はどっちの人間かと悩む。そのころ、沖縄在住の米兵によるレイプ事件をテーマに、米軍支配下の沖縄の苦しみを描いた大城立祐の「カクテル・パーティ」が芥川賞を受賞。
哲夫に大きな影響を与えたと言われる。
沖縄人として自分を常にみつめ、心に期するものがある半面、周囲の人間には沖縄の話しを一切しなかったという。
こうしたシナリオに対する意義づけも、後付けではないか、と言われるほど
哲夫はまったく沖縄のことを口にしなかった。
同じ沖縄出身の脚本家も
哲夫は普段から政治色もなく、沖縄のことをまったく話したことがなかった。酒が好きでお茶目な男と言う印象。しかし 戦時下、よく生きていた という体験をしてきただけに、傷が深いほど口にしたがらないものだ、だからウルトラQシリーズにそういうことを盛り込むわけがないだろう
と語る人たち。
この心情が非常に理解できます。
▼哲夫の父は腕の良い獣医、誕生翌年に沖縄の南風原村(はえばるむら)に帰郷。
数年後、太平洋戦争がはじまり父はビルマに出征。
そして米軍が沖縄本島に上陸。母や米軍の小銃機に左足を撃たれ膝から下を切断。
家族バラバラに逃げ、やがて捕虜収容所で生き延びました。
母とも再会でき、終戦後は復員した父と弟妹共にもとの生活を取り戻す。
哲夫が高校に進学する時、地元の学校の受験に失敗した時、母の勧めで東京の玉川学園に進むことに。
哲夫の母親はペルー移住からの帰還者。移住先のペルーで標準語のできないことで差別を受けた経験から、高い教育を受けさせたいという強い思いがあった。
哲夫が高校2年の時、哲夫の影響で沖縄に対する関心が高まった学園では
「本土」では初めて沖縄に学生が渡る「玉川学園沖縄慰問団」が結成されるまでに。
玉川大学に進んだ哲夫は、劇団に所属しやがて脚本家を目指すようになり、そして円谷プロに入社。
▼ウルトラマンの放送後、半年してウルトラセブンが放送開始。
その傑作の一つ「ノンマルトの使者」
海底の楽園に暮らすノンマルトと、海底開発を進める人間との戦い。
元々地球に暮らしていたノンマルトは、人間に追いやられて海底に住むことになる。
人間は自分たちが地球の先住民だと思っているが、本当は侵略者だ という
ウルトラセブンはノンマルトと戦うべきか苦悩する。
静かに暮らしていた場所に侵略者がやってきた怒り。
琉球と日本 沖縄と米軍 様々な想いをこめて
子ども番組の枠を超えたテーマが沢山描かれていた。
自らが「本土」で生み出したヒーロー ウルトラマンに沖縄人としての思いを反映させてきた金城哲夫。
ある日、「沖縄人沖縄人というけれど、君は沖縄のために何をしてきたのか?」と同僚に突きつけられ、入社3年で円谷プロを退社し沖縄に帰郷。
そのころの沖縄は、どのような形で日本に返還されるのか
基地の無い沖縄としてか、本土並の返還か、返還後なにが起るのか
沖縄は混とんとしはじめていた。
哲夫はラジオのDJとして人気を博すようになり、テレビ番組の司会なども受け続け
それが災いとなっていく。
やがて、沖縄芝居の脚本も手がけるようになり、沖縄はこれでいいのか、という強いメッセージを盛り込むも、大和口(標準語)でしか脚本を書けず、芝居の段階で自分で書いた脚本が沖縄の言葉に訳されるという事態になり、沖縄の人々との間にも違和感が生まれ始めた。
本土にいても本土人になりきれず、沖縄に帰っても沖縄人になりきれず
哲夫の苦悩は続き、やがて酒の量が増えていく。
▼沖縄人としての心を掴みなおそうと悪戦苦闘を続ける中
昭和47年 5月15日 沖縄は沖縄県になり核抜き本土並みという日本政府のシナリオ通り。
そのころ、自衛隊問題が沖縄で渦巻いていたころ、自衛隊機に乗ってラジオ中継をしたことが批判の的となり、ラジオやテレビから姿を消し、酒の量がさらに増える。
「本土復帰」を記念した「沖縄海洋博」の開会式 閉会式 ジャパンデーの演出の担当を引き受けることになる。
しかし、海洋博は環境破壊しか残さないという県民がほとんどであった。
閉会式では、会場の海を沖縄の漁船で埋め尽くそうというプランをたてるも
沖縄の漁師からはほとんど賛同を得られず、海洋博終了後も哲夫は沖縄社会で良い評価がされない状態に。
哲夫はさらに酒の量が増え、専門の病院に入院することに。
家族は福岡の病院に入院させようとした時
泥酔した哲夫は自宅の階段で転落して病院に搬送され
海洋博終了後のわずか40日後の1976年昭和51年2月26日永眠した。
哲夫と親しかった人たちは、日本と沖縄の懸け橋になりたかった
日本人 沖縄人 両方の心が分かるだけに 優しさが強い人間だった。
と語る。
「無くてはならないものは そう多く無いはずだ
いや それは一つしかないと 思えばよろしい」と書き記した。
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要談「琉球 沖縄県」
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