あれほど 命が目に見えたことも無かった東日本大震災
あれほど 生きろ 生きろと全国 全世界から声を届けた東日本大震災と
それを見守る社会が無かったかのように、人の命が簡単に奪われ続けている私たちの社会。
外国メディアが、発災当時 礼節をわきまえて世界中から称賛を浴びた同じ国民なのか?と報じるほど。
人を傷つける人は、自分の思い通りにいかないというエゴで傷つけます。
いつ自分が被害者になるか、あるいは加害者になるか
あるいは、いつ家族が被害者、そして加害者になるか分かりません。
そして、決して大都会だけでもないし、スラムでおきるわけでもありません。
佐世保でおきた事件で、今報道されて漏れ伝わる高校生の加害者の声は
本心なんだろうかと一歩引いてみています。
加害者は神戸の酒鬼薔薇の事件を知らない世代。
母との死別、その半年後の父の再婚から、色々と自分みたいな大人は察して考えるけども
誰も犯罪者として生まれる人などいないわけだし
加害者の心の闇に誰も光を送れなかったことを考えて、自分の身の周りの人に思いを巡らしました。
行間を読まずに必ず加害者をかばうのか?という意見が来るけど、当然ながらそんなことはないので、書いておきます。
しかし、あまりにも身勝手で、残酷で悲惨でおぞましい事件。
加害者を責めて、こき下ろすのは簡単だけど、事件には表面的なことだけでは分からない沢山の要素があり、私たちとも無関係ではないと捉えていきたいと思っています。
辛い事件なだけに向き合っていかないと、また繰り返されてしまうし、こうした加害者の年代などで特化した事件に限らず、世の中でおきることに対して、突き放さずにいけたら、少しは事件も減ると思います。
子どもの貧困の記事を途中ですが書かせてもらって
この事件も、とても突き放して考えられないんです。
地続きの問題というのは、こういう意味もあります。
人は一人では生きていけないんですから。
私の意見なんかより こちらを紹介させていただきます。
夜周り先生で有名な水谷修さんの言葉
「周りのみんなに優しさを配ってごらん」
(「死にたい」「手首を切った」、そんな相談に水谷さんはどのように答えているのですか、の質問に)
「水谷です。君が死ぬのは哀しいです」
...
それだけです。
すると大体
「ごめんね、先生を哀しませて。でも死にます」
と返ってくる。
これでこの子は死にません。
(なぜです?)
意識が外へ向きます。
彼らの意識構造は閉鎖的で内へ向いていますから、それを外に向けさせる。
それだけでとりあえずは助かります。
そして僕は一つのお願いをします。
「周りのみんなに優しさを配ってごらん。何でもいいんだよ。お父さんの靴磨きでもいいし、洗濯物を畳むのでもいい」
「そんなことして何になるの」
「いいから、まずやってごらん」と。
二、三日後には、心ある親なら子どもの変化に気づきます。
「先生、お父さんが靴を磨いていたのを気づいてくれて、ケーキ買ってくれた。ありがとう」
というようなメールや電話がくる。
そこで今度は親と話します。
お母さんに毎晩一緒に寝て、触れ合ってください、とお願いするのです。
日本の小児科医の父と呼ばれた内藤寿七郎先生は、「子どもは三歳までに決まる」と言いました。
三歳までにどれだけ触れ合って、抱っこしたかで人生が決まると。
いま、子どもを全然抱いていないでしょう。
保育園に預けても、数人の先生では子ども全員を十分に抱くことはできない。
車ではチャイルドシートなんかに乗せて、全然抱いていないですよ。
たとえ十代になっても二十代になっても遅くはないから、お母さんに彼らと触れ合って、抱き締めてほしいとお願いするのです。
抱き合えばいいんです。
触れ合えばいいんです。
言葉は要りません。
大人たちは頭を使い過ぎますよ。
子どもたちが待っているのは、考えてもらうことじゃない。
そばにいてくれることです。
それを頭で考えて、言葉でこね繰り回すから、むしろ言葉で子どもたちを傷つけて追い込んでいる。
いま世の中、ハリネズミだらけだ。
教員と生徒も、親と子も、社会全体がそうです。
愛し合って認め合いたいのに、針を出し合う。
例えば、娘が深夜一時頃帰宅した。
親はもう泣きたいくらい心配なんですよ。
玄関のドアが開いた瞬間、本当は、「やっと帰ってきた。心配していたんだぞ」
と言いたいのに、「何やっていたんだ、こんなに遅くまで!?」と言ってしまう。
一方、娘は家に帰ったら、「遅くなってごめんね」と言おうと思っていたのに、親に強く言われたものだから、「うざいんだよ!!」と言ってしまう。
「何だ、その口の利き方は。おまえなんか帰ってくるな!」
「分かったよ、出てけばいいんでしょ!!」……。
素直になればいいんです。
そして、言葉を捨てればいい。
教育に言葉は要らないのです。
水谷修(元高校教諭)
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