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昨日に飛び込んできた、キューバとアメリカの国交正常化交渉へ、というニュース。
キューバといえば、カストロ、チェ・ゲバラや、野球、高度で充実した医療で有名ですが、90年代から文化、教育、平和外交に取り組んでおり、日本と交易も続いています。
90年代半ばには、日本の平和運動家と会見する折に、カストロ議長は、シンボルとも言える軍服を着ないで、スーツの正装で迎えたということもありました。
でも、日本人にはなかなか馴染みが薄い、教科書で習う国、遠くて遠い国というイメージの人も多いかも。
●そんなキューバと日本との交流の一番最初は、今からちょうど400年前で
あの慶長遣欧使節団でした。
もちろんキューバが目的地では無かったのですが、ご存知サン・ファン・バウティスタ号は1613年10月、石巻・牡鹿半島月ノ浦を出発し、艱難辛苦の末に太平洋10000kmを渡りメキシコのアカプルコに到着。
ソテロ宣教師と支倉常長ら一行は、バウティスタ号を下船ししばらく滞在、スペイン艦隊の船に乗り込みアカプルコを出発。
そして1614年7月ハバナに寄港し、2週間ほど滞在した後、スペイン本土(当時)に向かっています。
400年近くを経て
2001年には仙台育英学園がハバナに、支倉常長の像を寄贈建立しており、400年目の今年に記念の行事が催されていました。
慶長遣欧使節団の派遣には、慶長地震大津波が関係しているというのが、最近の研究。
駿府記で文献上はじめて「津波」という言葉が出てきていますが、慶長の大津波で三陸沿岸が被害を受けたことが、伊達政宗が使節団を派遣しようと思う要因の一つであるとすると、駿府記などの文献がすべて裏付けられていくと。
大震災からの復興のために米の増産をはかるために、新田開発に力を注いだ政宗は、北上川河口の石巻村に着目。
将来の物流の拠点となるよう、港を築く工事を始めます。
そして、震災のわずか2年後に、いちはやく実行に移したのが、慶長遣欧使節団でした。
なぜ、スペインに派遣しようとしたのか。
政宗は、慶長の震災復興の大きな柱として、
またいつかまた来るであろう、震災や災害が起きた時のための備えとして
当時の世界一の大国スペイン(南蛮国)の植民地メキシコと交易で得た富を
被災地の復興に、人々の希望に変えようと
港建設や使節団の早期派遣などからも本気で考えていたと推察される
と、2011年の大震災を経験したことで、研究者たちの間で政宗の言葉や行動の解釈ができるようになってきたようです。
ただ、当時にしたら、前代未聞の大事業だったと思いますが
「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を照らしてぞ 行く」
南蛮のことも 夢のまた夢
結局スペインとの交渉は失敗し、7年後に支倉常長は帰国
しかし、石巻の漁港は新田開発で増産された米が江戸へ運ばれ
豊かな富をもたらし、石巻を一つの拠点に仙台藩は復興を果たしていきます。
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要談「石巻市」
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