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100年少し前に、ハンセン病の方々を隔離する法律ができて
(その法律には、治っても隔離施設から出られるという規定はありませんでした)
全国に5ヶ所の隔離施設ができ、大阪にもその一つがありました。
それらすべての施設の所長は警察官でした。
つまり、ハンセン病は医療案件ではなく、警察の公安事案だったということです。
大阪の隔離施設は、「外島」と呼ばれた、人が暮らしていない低湿地に建てられ
「外島保養院」と名付けられました。
(阪神高速神戸線中島出入り口外側)
そこは普段から、少し大潮とかの干満で、水付きになるほどの低湿地。
入所者は高潮になると大変なことになると移転を願い出て
堺や北摂(ほくせつ)など、色々な場所が候補になりましたが反対運動が起こりました。
政府も、国民、大阪府民も薄情でした。
この反対運動には、もう一つの理由があり、大阪の施設の2代目の院長村田正太氏が
入所者の自治や自由を認め、また手紙が検閲されていたのを、緩和してきたことが
「アカ」=「共産主義」=「危険思想」というレッテルを貼られていったのです。
外島保養院の移転は「ライとアカの伝染」と決めつけられて暗礁にのりました。
そして、1934年(昭和9年)9月室戸台風の直撃で高波(津波)で施設は壊滅。入所者と職員、職員の家族11人を含む、187人と、たまたま工事に来ていた関係者9人が亡くなる大惨事にいたりました。
生き残った入所者は、また同じ悲劇が起こると、移転を願い出ましたが
薄情な大阪府民は結局大阪から追い出してしまい、各地の療養所に仮入所したのちに
すでに長島愛生園があった岡山県の邑久町島(おくちょうしま)に
邑久町光明園が作られ、そこに収容されました。 私たち、大阪府民は、ハンセン病隔離の歴史において、
どのような役割を担ったかについての、 集まりが開かれます。 |
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このような集まりが開かれることはいいいことですね。
2015/2/6(金) 午後 10:19 [ tetsumama ]
> tetsumamaさん
ありがとうごぜえます。
なんでもそうですが
まずは、知ろうとすること
そして、知ること
そこから 自分で考えること やと思ってます。
色々な運動論も転換期を迎えてますが。
2015/2/7(土) 午前 4:00