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岩手県の田老、記録に残るだけで平安のはじめの貞観から何度も何度も大きな津波被害に遭ってきた地域で、「津波太郎」と呼ばれたことも。
そして、「三陸」という言葉は、明治三陸大津波、昭和三陸大津波、これらの大津波が襲来してからできた言葉で、それから広く「三陸」「三陸」と使われだしたんですね。
岩手の閉伊川を境に北と南でリアス式の海岸の違い、三陸で採れたアワビやフカヒレなどが長崎俵物として日本を救い、三閉伊一揆が南部藩、そして徳川幕府を揺るがした、明治維新の本当の立役者だった歴史。
「白川以北 一山百文」という言葉があるように、藩閥政府に対抗して自由民権運動の結社が150も生まれたのも東北、しかも農村にできた。
民主的で先進的な憲法草案を作った、植木枝盛、五日市憲法の千葉卓三郎や久慈出身の小田為綱
工場制手工業も農村で生まれた、地方分権を先取りしたのも東北でした。
知れば知るほど、現代に投げかける様々なヒントを歴史から学ぶことが多い東北。
東日本大震災の復興を考える上でも、重要な示唆を与えてくれます。
しかしこの4年間、地質学、風土、そして歴史などを無視をした支援や復興案が押しつけられる傾向があったのも事実。
▼明治三陸大津波では1867名、昭和三陸大津波では911名の方が亡くなった、田老。
最も多くの犠牲者が出たのが田老でした。
昭和8年1933年の昭和三陸大津波を経験された方が、今も田老に何人かおられますが、90歳前後の方々ですが、80年経とうが「忘れられない」と当時のことを詳細に覚えておられます。
田老を知るきっかけになったのも、津波被害
あの「万里の長城」と呼ばれる「防浪堤(防潮堤)」の存在が入口でした。
昭和三陸大津波で被災した翌年から建設が始まった「防浪堤」
その先頭に立ったのが、当時の田老村長だった関口松太郎。
着工から実に24年後の昭和33年1958年に最初の防浪堤が完成、その2年後にチリ地震津波が襲来、津波はこの防浪堤には到達しませんでした。
しかし、この防浪堤が津波を防いだと報道されてしまい、高度成長政策とともに、三陸の各地に防潮堤が作られることになり、津波対策=防潮堤となり、完成すればそれで終わり、津波は土木工事で防ぐものとなってしまいます。
田老の防浪堤も二つ目、三つ目と作られ、あのX字の全長2.4kmの防潮堤が完成。
それから33年後の2011年に東日本大震災が発生、巨大津波が防潮堤を越えました。
●昭和三陸津波は宮城県の現山元町から北海道のえりも町までが被災し、犠牲になられた方は3000人にのぼり、その3分の1の犠牲者が出たのが田老。
その3ヵ月後に国が出した復興計画には「もっとも推奨すべきは高地への移転」とされ
つまり海で生計をたてる田老の人々に高台移転を勧めました。
しかし田老では国の方針とは別の道を模索します。
当時、県の議会などでは「田老満州移転論」まで出てましたが、関口村長は被災のわずか三日後に
「堅牢たる防波堤を適所に築造し、安全なる小漁港たらしむる」と綴っていた記録があるように
関口村長の念頭にあったのは海で生計をたてる人々の家が、海に近いことは重要なことでした。
ここで思い出されるのが、柳田国男の「雪国の春・二十五箇年後」の一文ですね。
アワビの口開け、ウニの口開け、ワカメの養殖、昆布の養殖、と1年を通して、ほとんど浜で暮らすような生活の田老の人々は、翌年から次々と海の近くに家を建てて戻ってきました。
やはり元の場所に村を復興させるしかないと、県知事をせっとくし、関東大震災の復興に携わった人材を東京から呼びよせ、村の人たち漁師さんに土盛りをすることで働いてもらいました。
海からの高さが10.4m地上からは5m〜6m、なだらかなスロープのある台形の防波堤建設がはじまります。
そこには若い女性たちも働きました、「そ〜ら よいとまけ」と声をかけながら丸太を埋めていったと。
しかし、昭和12年に関口村長は亡くなります。
時代も太平洋戦争へと突入し防浪堤の建設は中止されました。
そして田老の男たちは生きて帰られないと言われたニューギニアに動員され、多くの田老の男たちが戦死しました。
田老には熊野神社が三つあります。熊野神社といえば紀州。紀州の漁師が日本の漁を教えたと言われていますが、海路を通じて紀州と田老は交流があったということです。
しかし、東京を中心とした道路網や鉄道網が作り上げた不便から、陸の孤島という偏見を植え付けていきます。そこにはもともとの豊かな地域であった三陸の各地でしたから、外から誘致していた企業がなく、田老にも一つもないまま、漁業を中心にやってこれました。
そこに作られた防潮堤は、船のへさきの形をして、津波を左右にわけて、受け流す形になっています。
津波をガンと防ぐのではなく、自然の力に逆らわず、長内川と田老川に受け流すという、とても知恵と経験が反映された防潮堤ですが、関口村長が東京から呼び寄せた、後藤新平のもとで関東大震災復興に尽力した技師二人の力もありました。
つづく
田老町立(宮古市立)田老第一中学校の校章には
一中の文字を、防浪堤が三角で囲み、まわりに波をあらわすデザインがされて
堅牢な防浪堤が津波から守ることが込められていると。
さらに、校歌には
「防浪堤を仰ぎ見よ 試練の津波幾たびぞ 乗り越えたてし 我が郷土 父祖の偉業 跡つがん」
と綴られている。
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要談「宮古市・田野畑村」
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とても勉強になりました


ってか、素晴らしすぎます
とーほぐを学ぼうとして下さるのがまた嬉しくて嬉しくて
※ ところで!!
女川町立病院のとこの神社も 『 熊野神社 』なんですよ〜なんか繋がりがあるんですかね
2015/4/5(日) 午前 11:34 [ 鶴姫 ]
> 鶴姫さん
いんやあ まんだ まんだだす
広島に達人もいてはるし 笑
4年前まで東北にそれほど関心を寄せなかったのは、人生を損したような気持ちになるほど、奥深い歴史と魅力と魅惑にあふれてます。
関西も歴史で学ぶことが多いと思いますが、権力の側の描写が多いけど
東北の歴史は庶民の側から描かれているものが多いので
とても学びになります。
熊野神社が沿岸部に多いのは、やはり紀州から派遣されたり、交流が深かったみたいだすな。
2015/4/5(日) 午後 10:55