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昭和33年 1958年万里の長城と呼ばれることになる、田老に防潮堤(防浪堤)は完成。
船のへさきの形をしていて、襲い来る津波を左右に分け、長内川と田老川に受け流す、とても知恵が絞られた堤防でした。
津波、いわば自然の力に逆らうのではなく、受け流す、「いなす」発想で波の勢力を弱める
このことで、最初にみんなで作った防潮堤は、2011年の津波にはビクともしなかったんです。
しかし、破壊はされなかったけども、津波は堤防を乗り越えてしまった。
防潮堤が高すぎて、津波がまったく見えなかったという負の面がありました。
昭和35年 1960年5月24日のチリ地震津波の時は三陸沿岸部に大きな被害が出て、大船渡や女川では、数十人の方が亡くなった。
その中で田老は大丈夫だったことが、あの防潮堤のおかげ、「津波くじく防波堤」と報道されてしまったことで、三陸沿岸を中心に日本中で、防潮堤・防波堤が作られていきます。
所得倍増・高度経済成長で公共投資をバンバンやれの時代だったことが助長しました。
しかし、実際にチリ津波を見た田老町の人々は「新聞はデタラメを書くな」とも。
安保闘争の騒然とした環境の国会では田老や三陸を視察した議員から
「田老のような防潮堤を是非頼む、というのが合言葉であった」と答弁されているのですが
しかし、この時に日本中にできた防潮堤・防波堤の形は、波に逆らう遮へい型、断面が台形ではなく、丘、壁です。田老に作られたのり面のあるものとは似て非なるものであったことが、問題でした。
国は、「百の財産よりも、ひとつの堤防」と津波対策をこれらの防潮堤など、コンクリートの構造物を作ったことでよしとして、政策は終了。
津波常襲地の三陸の沿岸にも、田老とは似て非なる、波に、自然に逆らう、海に挑むかのような遮へい型の防潮堤ばかりが作られて、三陸の津波対策は万全とされました。
チリ津波で大きな被害を受けた大船渡でも19億円かけて防波堤が作られ
三陸沿岸に総延長50kmに及ぶ防波堤が作られていきました。
すべての事業が終了した翌年、昭和43年1968年十勝沖地震津波が発生。
最大6mの津波が三陸に到達しましたが、防潮堤が津波を防いだんです、そのことで、特に若い人たちの間に、津波は防潮堤で防がれるとの意識が植えられていきますが
2011年の巨大津波では完全に粉砕されてしまいました。
▼このことにより、どうなったのか?
●田老の防潮堤・二期工事で作られたところは木っ端微塵に破壊され、関口村長の時代に作った防潮堤を乗り越えた津波が、引き波となって返ってくるのですが、受け流しの防潮堤はそのままあるので、それを越えることができなくなったために、水たまりのような形になり、ガレキがプカプカとたまり、じっちゃん、ばっちゃんが海に流されずに助かった、屋根に上がって助かった、ということがあり、実際にNHKのインタビューも受けておられました。
ところが、田老の浜の東、最初にできた防潮堤の外側にあたる野原地区、乙部(おとべ)・青砂里(あおざり)には、遮へい型の二期工事で作られた防潮堤しかなかったために、今回の津波で破壊され、引き波によってすべて海に流されてしまい
田老の行方不明の方々の7割が、野原、青砂里地区の方々です。
この地区には以前ほとんど家が無かったのですが、核家族化や土地不足から、先に防潮堤が作られて、野原地区の市街地造成が進められ昭和50年頃盛んに家が建つようになっていきました。
さらに野中地区も造成され、第三期の防潮堤が作られ、
昭和三陸大津波から70年目の2003年、田老は津波防災の町宣言に至ります。
その背景には、防災意識の薄れ、風化、津波避難訓練を実施しても、参加者は訓練対象地域の町民の1割を下回るところまできたからでした。
●もういちど関口村長が考えたことに戻りますが
村長が考えたことの一つに津波は抗うものではなく、受け流すことだが、しかし、乗り越えてくる津波もあるだろうと想定しました。
そこから、町の道路を真っ直ぐに整備していきます。
町のどこからでも、まず外で出て、すぐに高台につながるまっすぐな道に出られるように区画整理し
5分から10分あれば高台に逃げられるようにしました。
広い道路が山にぶつかるところから、山を登る道を作った。
田老村再建時に、村民から二割の土地を提供してもらい、道幅も広げて、京や奈良の都のように、碁盤状に区画したんです。
この災害に強い町づくりに至った原因とは
昭和三陸津波の直前に日本でおこった大きな災害、それは10年前の関東大震災でした。
東日本大震災後に注目された、当時の内務尚・後藤新平によって、帝都復興が進められました。
しかし、予算規模が大きすぎ、軍事体制が進む中で復興予算が削られ、すべてがうまくいきませんでしが、関口村長は後藤の復興計画に着目し、後藤のもとで図面を描いた技師・平間米吉ら二人を、東京から呼び寄せて共に復興プランをねりあげて、漁民を守るため、村の平年の予算の十数倍の予算がかかることを、丁寧に理解を得ながら
「村費でやっぺし」と、国に「現地復興を成すほか道なし」と言わせ、後藤新平が果たせなかった東京の都市計画を田老で実現するに至りました。
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要談「宮古市・田野畑村」
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震災以降メディアは「田老の防潮堤でも津波は防げなかった」と報じましたが、これは正解でもあり間違いでもあるように思います。
国の防災計画というと沿岸部を一律に防潮堤で囲んでしまおうと考えているようですが、その構造や位置などを設置しようとする場所に合わせて細かい配慮をしなければならないでしょう。民主党政権時代には「脱・コンクリート」が盛んに言われましたが、自民党になってからは「まずは土木工事ありき」に戻っているように感じられますね。
2015/4/12(日) 午後 10:45 [ スタリオン ]
> スタさん
いつもありがとうございます。
正解であり間違いである
の指摘は同感です。
また、ある意味深い言葉であり、思いやりも感じる言葉です。
人間の顔が見えていれば、なんでも一律で語れないし、決められないはずですが、福島県のことでもそうですが
まず その地を知ることから始めてほしいです。
民主党の理念は良かったのですが、あとは 言うまでもなくですね。
自民になってから、強靭政策に振りましたが
我々国民の振り幅の広さがもたらしたのかも と感じてます。
復興も 結局土木の復旧が復興と勘違いされている現状を思って
田老を取り上げました。
2015/4/13(月) 午前 8:51