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僭越ながら当ブログでも、2011年から幾度か紹介させていただいた
田野畑の岩見ヒサさんが亡くなられました。
お金より、原発に頼らない道を選んだ田野畑、岩手県。
1981年昭和56年
「岩手県議会史」によると、中村直知事(当時)はこの年の10月、県議会でこう述べた。「原子力を含む大規模電源の立地促進に積極的に取り組んでまいる」「大規模電源立地可能適地調査を実施して、立地可能適地の有無を早急に把握する必要がある」 県は東京の財団法人に原発立地の適地調査を委託する。そして明戸が「有力候補」と取りざたされるようになった。 岩見ヒサさんはそのとき、反対運動の中心にいた。田野畑村役場のそばにある宝福寺。岩見さんは戦後まもなくこの寺の住職と結婚し、大阪から移り住んだ。そのころの田野畑は無医村。看護師の資格を持っていた岩見さんは、村から「開拓地の保健指導」を頼まれる。村内には当時、12の戦後開拓地が点在し、1200人余が暮らしていた。
岩見さんは保健師の資格も取り、「開拓保健婦」として開拓地に歩いて通った。出産の介添え、病人の世話、育児指導、料理教室。そこの人たちの健康の向上に必要だと思うことは、なんでもやった。 「つらくはなかった。田野畑には本当の空、本当の川、本当の花がある。わたしはその自然の美しさに酔っていました」 保健所を定年退職後、村の婦人団体連絡協議会の会長になった。そこに降ってきたのが原発立地の動きだった。「村の男の人たちは、ほとんどが賛成でした」と岩見さん。県側は、原発が建設されれば「31億5千万円」が交付されると強調した。当時、村の予算規模は20億円ほど。交付金は魅力的だったに違いない。
しかし、女性たちは岩見さんのもとに集まる。健康な暮らしを求め、苦楽をともにしてきたからか。「汚れのない自然を守ろう」。女性たちは「反対」を貫いた。82年3月、県は調査の結果を発表した。原発の適地とされた三陸沿岸の4地域のなかに、田野畑の名はなかった。 岩見さんたちの反対運動が奏功したためかどうかは、わからない。岩手県ではその後、適地とされた4地域も含め、原発が建設されることはなかった。岩見さんが「酔った」自然が、いま村の観光を支える。
田野畑は「一揆」の地でもある。江戸後期の19世紀半ば、人びとは2度にわたり盛岡藩に対して一揆を起こした。「三閉伊(さんへい)一揆」とよばれるこの民衆蜂起は仙台藩までをも巻き込み、要求の大半を認めさせた。一揆を率いた畠山太助の5代目の子孫で、村職員を長くつとめた畠山吉郎(きちろう)さんは、原発反対を訴えていたころの岩見さんのことをよく覚えている。
「岩見さんたちは毎日、原発の問題と真剣に向き合っていた」
畠山さんによると、一揆の精神の原点は「勇気」「情熱」「団結」。その精神があのとき、村の女性たちの心の中で花を咲かせていたのか。畠山さんは言う。「大切なのは、金だけではない。明戸に原発ができていたら、われわれはいま、遠くに避難しているのかもしれない」 戦後、無医村だった田野畑村で山間の開拓保健婦として活躍した岩見ヒサさんが亡くなった。97歳だった。退職後の1980年代初頭、県の原発立地調査に反対して中止させた活動が、東日本大震災後、再び脚光を浴びた。 |
要談「岩手県 全般」
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