こんにちは、ゲストさん
ログイン
Yahoo! JAPAN
すべての機能をご利用いただくためには、JavaScriptの設定を有効にしてください。設定方法は、ヘルプをご覧ください。
[ リスト ]
災害直後、医療関係者によって、トリアージが行われる。 トリアージにおいては、もっとも重篤な人を最優先で、助ける。 その人が、なぜ、そこにいたのかとか、逃げなかったのかとか、 健康保険に入ってるのかとか、人種がどうとか、性別がどうとか。 そういうことは、まったく関係ない。 重篤かどうかだけが問題である。 ならば、精神的な苦しみ、また、社会生活においての苦しみにおいても、「トリアージ」がなされるべきではないのか。 もっとも、苦しい人に対して、人種、性別、家族構成などに関係なく、もっとも手厚い支援が必要でなないのか? フーコーが指摘するような、規律権力のまなざしは、 災害などの緊急事態においては、 「命を助ける」という本能的な意志において、 破綻にさらされる。 同じように、規律権力のまなざしが、精神的、社会的苦しみの渦中にいる人に対して、ゆらがないのは、おかしい。 (ただし、ここでいうのは、ちょっとしたしんどさは、トリアージで、ほっとかれる、とかいう意味ではないですよ) 身体的な苦痛と、精神的・社会的苦痛がなぜ違うのか。 その上で、苦しみには、トリアージで区別できる「程度の差」があるのか、ということ。 この二段階で考えたいと思います。 ジョンズ・ホプキンス大学の、ヴィーナ・ダス博士が、デリーなどの貧困地域を歩き、見て、考えた、その成果が興味ある。
すべて表示
スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!
シルク
福田麻貴
小川菜摘