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大阪市の人口は、大正時代末からしばらく、東京をぬいて日本一となり
「大大阪」と呼ばれた時期がありました。
産業革命で繁栄を誇ったイギリスの都市になぞらえて「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほど。
当時のこと様子を伝える展示が、大阪歴史博物館にありますが
しかし、繁栄の裏には必ず影があります。
●繁栄の光に恵まれない底辺で今日の暮らしもままならない人々も多くいました。
昼間は「大大阪」内で働き、夜は「大大阪」を追い出されてスラムに。
大阪の西側に造船鉄工の日本最大のプラントができ
その労働を維持するために、大工場労働者を大正区(大阪市西部湾岸)に集められていきます。
どこから集められたか、朝鮮(当時)半島・済州島と琉球・沖縄からでした。
大正区小林町に朝鮮人街と沖縄人街が出来て行きます。
やがて、大阪市の東部内陸の東成(ひがしなり)や生野(いくの)の運河掘削のために
朝鮮半島から連れてこられた人たちと共に、東側に移住することになり
大正区に残った沖縄の人たちによって、日本最大の沖縄人街となります。
東成・生野区には日本最大の在日朝鮮韓国人の町ができていきます。
また、大大阪には必ず大量のゴミが出る、その処理に従事させられ、さらに亡くなった人を火葬したり
など、死者に関わる仕事、人が嫌がる仕事に従事させるために、一つの地域に人が集められてきます。
やがて日本最大のいわゆる被差別部落ができます。
大大阪を支える、建築を扱う人たちを「土方」と呼び
運輸を扱う人たちを「仲士(沖仲士)と呼び
それら肉体労働に従事する仲士と土方の人たちが集まる町が、釜ヶ崎に。
さらに、そのころ身分が低いと言われていた芸人たちが「てんのじ村」を形成していきます。
「天王寺」とは違い、ひらがなしか読めない我々は、いつか「天王寺」のようになっていく思いから
「てんのじ村」として山王町辺りにできていきます。
こうした大大阪周辺部に、大都市の様々な問題の仕事をさせられる人たちが集められてきて
スラムができてきますが、しかし昼間は大阪市内で働き、夜は追い出され、大阪の中で暮らせなくなってきた人たちが、現在の日本橋1〜4丁目に集まってくるようになり、大阪最大のスラム街がつくられ
こうして、釜ヶ崎が成立していきます。
テレビなどでは、大阪の反映に力を注いだ誰誰・・・と紹介され、ドラマになったりしますが
繁栄の裏には必ずこうした影があります。
●「貧しい人の救済はお上がやることと、みんなは言うけど、せやかて涙がとまれへん」
これは今は世界的に企業となった大阪生まれのある食品業店主の言葉。
この店主は福祉事業に乗り出します。
他にも立ち上がる人々が。
乳飲み子を背負い、幼子の手を引き路上に立つ貧しい母
その暮らしの有様を切々と記した、一巡査がいました。
その報告から今も続く、民生委員や児童委員制度ができていきました。
100年ほど前に、市民が自主的に地域の困窮者の自立を助けるセツルメント(隣保組織)が
欧米で始まりましたが、日本ですぐに確立したのは大阪でした。
「せやかて、涙がとまれへん」
この同苦の心は、本来大阪人に脈々を流れているはず。
●昨日、久しぶりに大阪市内でも身体に感じる地震がありましたが
その揺れ方が、ゆっくりした横揺れ、5年前の3月11日と同じ揺れ方でした。
あの時、大阪ではめまいがしたのかと勘違いした人も多かった
私はたまたま家にいて、やはり目まいかと勘違い。
船に乗っているように、横にゆっくりを長い時間揺れた
テレビでは地震の速報があり
これほど大きくゆっくり揺れるのは、外国かどこか遠くでとても大きな地震では、と科学的根拠もなく思ったのを覚えています。
それが宮城県沖と知り、発生から10分後に、ブログで津波への注意を呼び掛ける投稿をしていました。
その後のことは、言うまでもありませんが
当初は現地が受け入れられないから、ボランティアは控えるように呼びかけがありました。
毎日毎日大震災のニュースに接し、毎日大震災の情報を投稿し続けていても
当時、それまでの私には、東北は遠い未開の地のイメージ
「せやかて涙がとまれへん」、「じっと してられへん」
遠いとか、知らない地とか、自分が行ってもよいのか、とか、もうそういうことは何も無くなっていました。
多くの人が同じ気持ちだったことでしょう。
同苦し共感するという、他人事にしない気持ち、そこから義援金や支援の寄付、ボンランティアへと協働へ動きました。
同苦・共感から協働へ、今の政権が嫌がるのはこの市民の連帯。
自己責任として突き放し追い詰めるのが、今の政策であり社会の流れ
「せやかて涙がとまれへん」という理屈ではない人の心こそ、戦う武器なんでしょう。
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放談「文化・歴史」
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