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東日本大震災、原発災害が発生して7年
同じ7年前の3月、中東シリアが戦禍にのみこまれていきました。
シリア危機も8年目に入りますが、昨年一年で910人もの子どもが犠牲になり
前年より50%も増えたとのこと。
さらに子ども兵は3倍に増え、シリア危機発生以後最悪とユニセフは伝えます。
シリアでは空爆などによる民間人虐殺が今も続いているという現実。
73年前の今日、1945(昭和20)年 3月13日の深夜から翌日未明にかけて
大阪大空襲と呼ばれる、大阪中心部へ奇襲空爆による民間人虐殺が行われました。(第一次大阪大空襲)
前年の12月から空襲が始まり、敗戦前日まで 大阪は空襲を受けることになりますが
中でも45年の3月13日から14日にかけての大空襲がもっとも甚大な被害が出たとのこと。
この3日前には東京で、前日には名古屋、そして大阪にはこの後も続き、一般市民を狙った空爆は日本全国で行われました。
大阪大空襲の時、今の大阪市難波に暮らしていた私の母は、焼夷弾の雨の中を祖母(母の母)におぶられて奈良まで逃げました。
わずか4歳だった幼女の脳裏にはっきりと記憶され、のちに祖母が母に伝えたことも含めて
その時の生々しい体験を私は小学生の頃から何度も聴いてきました。
過去にも書いたことがありましたが、後年に聞き直した話しと
昨年に久しぶりに会えた伯母から聴いた話しを加味して母の表現で書かせていただきます。
母は6人きょうだいの末っ子
家は難波高島屋のすぐ近くで、大正時代は宮内省御用達の箸問屋を営む大きな家だったそうです。
姉2人兄3人でしたが、男は兵役と疎開で家におらず、姉の1人は風船爆弾工場に動員され
もう1人の姉は女学生。家は祖父母(母の両親)と母と姉と従業員(丁稚さん)で暮らしていました。
1945年、丁稚さんたちも全員疎開し、家は家族4人と番頭さんだけでした。
3月13日の深夜、警鐘が鳴り始め母は起こされて祖母と一緒に防空壕へ。
祖父は警防団だったので、近所にBが来る防空壕へ逃げるように叫びながら走ったと。
やがて空襲警報が鳴り、高島屋が狙われるという噂があったので、家を捨てて逃げる事に。
全員一緒に逃げたら、全員一緒にやられてしまうということで
祖父と伯母(母の姉)、祖母と母、番頭さんに分かれて逃げて、おさまったら
高島屋に集まることを約束して、違う方向に逃げました。
この時13日、アメリカ軍の爆撃機 B(ボーイング)29はグアムを発ち
深夜に西から大阪湾に飛来、その数274機
低空飛行で焼夷弾を人口密集地の大阪市に次々と投下していきます。
祖母は母をおぶって、綿が沢山詰まった冬用の厚手の布団を水槽に浸けて
水を吸った重い布団を母をおぶったまま被って、そのまま避難を始めます。
しばくして防空壕に逃げますが、こんなところはすぐにやられるという声に
防空壕を出てさらに逃げます。B29は母たちの頭上を飛び、クラスター焼夷弾を容赦なく人間の上に落としてきます。
頭から被っていた重い布団は、家屋が焼ける炎の熱ですぐに乾いてしまい
川を見つけては、その布団をつけてずぶ濡れの重い布団をまた被って逃げます。
女性の体力で大変だったと思います。
その時、必死に逃げる人たちは、転んでしまう高齢の人をまたいで、お構いなしに逃げていた光景を
母はよく覚えていました。
焼夷弾が落ちる音、爆発する音、油の匂いや焼ける匂い、煙の匂いなど
嗅いだことのない匂いも覚えていると語っていました。
祖母と母は、銀行の地下に逃げるように促されて一旦入りましたが
祖母は煙が地下に入るのを見て、ここは危ないと思い、頼み込んで反対を押しきってそこを出ました。
日付が変わって、深夜の1時から2時と思われる時間帯ですが、炎で昼間のように明るく
そしてとても暑かったと。
母は祖母におしっこがしたいと言いますが、祖母はおぶったまま、そのままするように言ったと。
時間が経つにつれて、逃げ遅れて路上に沢山の人が倒れていましたが
2人はその合間を逃げきることができ、やがてB29の飛来音もしなくなり、日が昇り始めると
大阪市は焼け野原となり開けてしまい、高島屋が見えたそうです。
しばらく休んで、祖母と2人で高島屋を目指し、母たちは先に到着しました。
祖父と伯母がなかなか来ないので、亡くなったと半ば諦めていたようですが
やがて乾パンを配る人が来て残りが少ないと告げるので
祖母が母にあげてほしいと言い、母が手を出すと、突然母の手を払ってその乾パンを奪って逃げる人がいたそうです。
家は全焼してしまい、祖父たちも現れないので、祖母の実家のある奈良に行くことに。
電車も一駅二駅で止まり、そこから電車を降りて線路を歩き、また電車に乗れてもすぐに止まってしまい
また歩く、という繰り返しの中、道すがら顔も服もススだらけの母娘を見て、昨夜の空襲を逃げてきはったんやな、かわいそうにとおにぎりを差し入れてくださった方もいたと。
万が一は奈良に行くと祖母が言っていたらしく、祖父たちも奈良に向かい、やがて家族は再会でき
そして、祖父方の実家のある滋賀県に移り住み、母は二十代半ばまで滋賀に暮らします。
滋賀でも攻撃があり、母や伯母は米軍の機銃掃射で狙われた経験もあり
伯母は未だにアメリカ人を見ると、腹がたつことがあると言ってました。
終戦後、兵役を終えた兄や空襲を逃げた番頭さんも含めて、一家は全員無事でした。
この日の空爆は3時間以上続き、21平方キロメートルが消失し
約4000人の方が犠牲になり、50万人以上が被災しました。
低空飛行による焼夷弾投下で焦土化する奇襲作戦は、夜間に遂行されましたが
これは対空砲火を避けることもあったようで、実際に大阪から高射攻撃をしましたが
一機のB29を撃墜したに終わりました。
計8回の大阪への空襲で、府内で1万5000人以上が亡くなり、120万人以上が被災しました。
また、空襲を受けた旧大阪市電路面電車の車両が復興されて
現在、広島市内を現役で走っています。
大空襲とは別に
1945(昭和20)年7月20日午前8時半ころ
私が現在暮らすところから、自転車で15分ほどの場所に
模擬原爆が投下されました。
これは、実際の核攻撃の予行演習で、長崎に使われたプルトニウム型原子爆弾と同じ形状の爆弾に
通常の火薬を詰めて投下したものです。
この日を皮切りに、8月14日まで全国で50回近く模擬原爆が投下され、約400人の人が
犠牲になりました。
このことは、また投稿しますが、この最初に投下された地点に
その記憶を留める碑がひっそりと立っています。
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放談「文化・歴史」
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このような生死に関わるような体験を全ての人が話してくれるとは限らないし、聞いた側がそれをきちんと受け止めて次の人(世代)に伝えるというプロセスは非常に困難なことだとあらためて感じます。どこかで断ち切られればその記憶は伝わらなくなってしまいます。
自分が子供の頃はまだ身近に戦争を体験した人たちの証言を直接聞く機会がありましたが、今ではそれも困難になってしまいました。
2018/3/13(火) 午後 10:51 [ スタリオン ]
> スタさん
そうですね、戦争の話しはとても身近でした。
召集令状を受け取って、帰国した人が大勢いましたし
街に出れば、戦傷を受けられた方が、路上で演奏をしたり、援助を請う姿をよく見ました。
空襲の中逃げた方、沖縄戦、日中戦争、戦場で戦った人、在日コリアン
中国残留孤児など、今思えば色々な人たちから、生々しい体験を聴いてきました。
スタさんの言うように、断ち切ってはいけません。
ネットのツールもその一つとして利用できますね。
先日もスタさんとこでコメントさせていただきましたが
映画「この世界の片隅で」はとてもリアルで傑作です。
もっと多くの人に観てもらいたいと思います。
2018/3/13(火) 午後 11:12