エクセルシア Season 12

大震災 原発災害 東北を忘れない

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母の空襲体験 2

5年前に一度書かせていただいたことがありますが、加筆してまたブログに残しておきたいと思います。
私の父は昭和11年生まれで、敗戦後まで当時の中国(中華民国)大陸を転々としていました。
通った幼稚園や小学校は「大日本帝国北京第一小学校」ということや
小学生の父がバスに乗ると、日本人の大人が中国人に対して「そこをどけ」と父に席を譲らせた話しなども聞いていました。
祖母からは逆に中国人に優しくされ、守られて日本に帰国できたことなども聞いています。
祖母も、また父は今も中国や中国人を「シナ」「シナ人」と言います。
ネトウヨのように悪意で言うのではなく、当時そのように口にしてきたことで、染みついてしまってます。


母は昭和15年生まれ、6人姉弟の末っ子で、長女とは20歳離れています。
小学生の頃から、よく空襲の話しを私にしていまして、未だに耳に残っています。
5年前にあらためて聞いて記事にしました。
それは1945・昭和20年 3月にあった、第一回目の大阪大空襲の話しでした。
同年3月13日の深夜から未明にかけて、米軍のB29(Bはボウイングの略)が274機も飛来し
現在の大阪市の都心部の一般民家に対して焼夷弾を夜間に投下した、無差別攻撃でした。


母の家は、難波の高島屋の裏手にあった箸問屋で、大正天皇御用だったと聞いており
当時はお金持ちだったそうです。
しかし、空襲によって全てが焼き払われ、滋賀の田舎に疎開してからは、貧乏暮らしだったとのこと。

1945年3月母はまだ4歳、後に祖母(母の母)から聞いたことも含めて、4歳の少女の脳裏に、記憶として鮮明に刻まれた大空襲。
3月13日日付けが変わる直前、空襲警報が鳴り響き、祖父(母の父)は地域の防災長のような事をしていたので、町中を走って大阪に爆弾が落ちるから防空壕へ逃げるように、呼びまわりました。
深夜の寝静まった時間に空襲が始まり、高島屋を狙ってくるという噂が広がり、母の家族は防空壕から出て、避難することにしました。

母の家族は当時、母ともう一人の姉と、祖父母の四人家族、出兵した長兄以外の番頭や丁稚などの従業員と男兄弟は全員疎開、長女は女学院生でしたが、風船爆弾工場に動員されていました。
その風船爆弾工場も爆撃を受けることになりますが、避難する際に兵士から
「大和撫子たるもの、米兵に捕まったら、これを飲め」と一人一人に青酸カリが配られていたと聞いています。

B29飛来の爆音が聴こえると、家族4人が一緒に逃げると、全員一度にやられてしまうから
と、祖父と伯母、祖母と母、の二手に分かれて逃げることにし
空襲が止んだら、また高島屋に集まろうと約束をして、それぞれに逃げました。
当時、防火用水が町中にあり、綿が沢山詰まった厚めの冬の布団を、その水槽に浸して
母をおんぶしたその上から水を浸した布団をかぶって、逃げたとのこと。
それだけでも、想像以上に大変だったと思います。
しかし、それでも焼夷弾によって町中が燃えていて、布団がすぐに乾いてしまい、用水路を見つけては、その布団を浸して、おぶった母の上から重い布団をかぶり、また逃げるということを繰り返していました。

しばらく走って、一旦防空壕に逃げますが、兵隊からこんな所はすぐにやられる、と言われ
また逃げることになりました。
その時に母が見たのは、転倒した高齢の方は、みんな構うことなく、むしろまたいで逃げていたと。

さらに銀行の地下に避難しましたが、祖母が地下に煙が入って来るのを見て
ここは危険だから外に出た方が良い、と言いましたが、皆は外の方が危ないと、祖母を引き留めようしましたが、祖母は振り切って外にでて、焼夷弾の雨の中を逃げました。
母の耳には、焼夷弾のカラカラカラという音、深夜なのに、すべてが見えて、家が燃え、煙がもうもうとあげて燃える音が、今だに残っていると言います。

3月の深夜に水に濡れた厚い布団をかぶっているのに、町が炎の海なので、寒いどころか、むしろ暑かったそうです。

後日の報道で、地下に逃げた人は、煙にやられたり、シャッターが開かなくなって、蒸し焼き状態で全員が亡くなったと、祖母から聞いたようです。
祖母が逃げている間も、逃げ遅れて亡くなった人が沢山倒れている町の中を、避けながら走り
母がおしっこをしたいと言っても、祖母はおぶったまま、そのまま出させていたと言います。
やがて、焼夷弾が落ちてこない場所にたどりつき、陽が昇り始めた頃には、B29も見えなくなり
逃げてきた大阪市内が焼け野原のなり、遠くから高島屋が見えたと言います。
そこから、また高島屋を目指して歩きはじめました。
おそらく往復で30kmはあると思いますが、母をおんぶして、水に浸した布団をかぶったまま15km走ったのではないかと察しています。

高島屋には母たちが先に着きました。なかなか祖父と伯母が現れないので、亡くなったと半ば諦めていたといいます。
母たちがいる場所に、乾パンを配りにくる人がきて、祖母がこの子(母)にあげて、というと
配っている人が母にわずかな乾パンを渡そうとすると、横から母の手をはらって、乾パンを奪っていく人がいたそうです。

難波の家は全焼し、祖母方の実家のある奈良へ向かうことにしました。
かろうじて動いていた電車も一駅か二駅で止まってしまい、そのたびに線路に降りて歩き
電車が動いても、またすぐ止まってしまうので、また歩くということの連続でした。
そうした奈良への道すがら、ススで顔も服も真っ黒になった母娘を見て、見ず知らずの人が
ゆうべの空襲をうけたんやなあ、可哀そうに、と言っておにぎりを差し入れてくれた人もいたと、母は覚えていました。

やがて、祖父と伯母とも再会でき、父方の実家がある滋賀に疎開し、母は23歳まで滋賀県で暮らしました。
母は、疎開先でも機銃で狙われて、九死に一生を得た経験もあります。

現在、母とその伯母の2人になりました。

もっと、もっと比べ物にならない大変な体験をされた方は何万とおられますが
4歳の女の子の脳裏にはっきりと刻まれるほどの、この体験も、どれほど凄まじいものだったのかと考えます。

この空襲ですが、アメリカ軍はあえて空襲をしないでおいた地域があるといいます。
京都や新潟や広島など。
それは、日本への原爆投下を決めた1944年、原爆の威力を知るために、投下目標候補の都市には空襲をせずにおいた、という恐ろしい話しがあります。
戦争や大義とは、それほど人間を残忍にするのですね。

わざわざ、戦争はいけない、とは言いたくないんです。
それが、特別な考えや思想ではなく、当然の常識でなければならないからです。

平安法制とか言われていますが、自衛隊の派遣手順を厳格に決めたことは、「戦争法案」です。
二度の大戦を引き起こしたのも、相互防衛、集団安全保障でした。
後方支援こそ、最も危険に晒されます。
しかし、そうした社会、国になった時、どうするか、何をするか
戦前の国防婦人会は「暴走」と「同調圧力」が生み出しました。


写真は拾いもの 削除する場合があります。

空襲後の大阪市 今のアメリカ村あたりからの撮影でしょうか
奥に旧十合大阪店と大丸心斎橋店が見えます。
イメージ 1








かつて、邑久長島大橋がないとき、
日生や虫明から、船で、もう二度ともどれない「旅」に、
ハンセン病患者さんは、出ました。
収容桟橋で、家族と永遠の別れを告げて。
その足取りを辿る「クルージング」が、開催されます。
イメージ 1

イメージ 2


経産省が電源交付金(電源立地地域対策交付金)の「みなし稼働率」を現在の81%から
70%に引き下げを検討していると発表したことについて
立地自治体へ再稼働圧力か、という見方も強まっています。
原発が稼働していなくても、現在一律81%動いているとみなして、交付金を立地自治体に支払うもので
今後は、東電の事故をおこした原発の、事故発生前の稼働実績に基づいて、原発ごとにみなし稼働率を定めて、交付額を見直そうという案。
その事故発生前の稼働率が、全国平均70%だったために、交付金減額がされることに。
これが発表されたのは、11日の川内原発が再稼働された日という。
動いていなくても、支払われる膨大な交付金、単に地元が潤うなどという次元ではなく
ジョブカフェの運営費に、不妊治療の助成金まで、この交付金、原発マネーに頼っていて
交付金無しではどうしようも無いところまで、持っていかれています。
それをしめす福井県のケースの資料

つまり、原発が動かなければ苦しくなる、再稼働を急がねば、と自治体に圧力をかけるようになっていきます。

▼原子力に限らず、その発電所が建設される市町村など自治体のデメリットを補うために様々な交付金があるのはよくご存知と思います。それが「電源三法交付金」
早い話しが迷惑料の交付金もさまざまで
①発電所のある市町村に直接渡るお金や
②発電所のある近隣市町村や
③その都道府県にいくお金もあり、支払い先もいろいろ。
「電源立地地域対策交付金」と呼ばれるものは6種類ありますが
中でも、やはり原子力発電所のある市町村は額が多く
例えば「東京電力の事故を起こした原発」のある福島県双葉町・大熊町
双葉町の年間の収入58億8087万円のうち、3分の1にあたるおよそ19億5300億円が電源三法交付金
大熊町は71億1744万円の収入のうち、4分の1にあたる16億9600万円が電源三法交付金(いずれも2009年度)
これの他に原発の固定資産税や法人町民税も交付金とは別に町に入ってきますので、けっこう大きい額です。
そのお金で町に色んなものを作り管理していかないといけませんが
このお金は恒久ではないので、いつか無くなる・・・でもお金は要る・・・そうすると
1号機に対する交付金が終わりそうになれば、2号機作りましょか・・次3号機作りましょか・・となってきた
そういう仕組みだったそうです。そのおかげで都市部への電力が供給されてきました。
 
▼一方こちらの関西には福井県の若狭湾沿岸に14基の原発があります。
日本の原発で最も古い美浜原発1号機、1970年に運転開始
大阪万博をご存知の方は「原子の灯」という展示があり、それはこの原発からの電源だったそうです。
この美浜町には現在三基ありますが、電源交付金以外に、町の収入の1割を超える巨額の匿名寄付が毎年寄せられているとの報道があります。
美浜町は人口およそ1万人、毎年の平均収入は80億円
これまでに国から219億円の交付金が支払われてきました。
そのお金で町民の暮しに密着した施設などを建設し、町を発展させてきました。また関西電力からの固定資産税や法人町民税を入れると、町の収入の半分を関西電力に依存してきたことになります。
町民や町議の中には反原発を訴える人もいますが、原発マネーが地域に席巻する中、その巨額なお金の流れを淀ます発言はタブーとされてきたといいます。
報道によると町には表立った収入以外に、10億円を超す匿名の寄付がなされています。
町の人も匿名といえども、だいたいどこからか察しがつくと言いますが、町長は決してだれからかは言えないと語っていました。
これは美浜町に限ったことではないようですが、この振り込まれてくる時期と言うのが
会計年度末の後、出納整理期間(現金の未収未払の整理を行う4月1日から5月31日まで)に10億円以上のお金がどっと振り込まれます。この整理期間中の入金というのは、議会で事前に審議がされず、議員は決算書で初めて目にするので、狙ってるのも見え見えです。
これに対して批判をするとかしないという事ではないんですが
原発のある自治体への交付金は、現状ではあぶく銭になっていると言われ、過疎の問題も進んでいます。
10年後20年後の町をどうするのか、今後住民と考えていく場が必要になってきます。
そうは言いつつ、今年の1月のニュースでは、福井の電源三法交付金、7年ぶりに前年割れ
電源三法交付金の2009年度県内交付額が確定し、県全体で203億8661万円が配分されたとの報道も。
 


◇電源立地地域対策交付金とみなし規定 

 円滑な原発の設置や運転を目的に1974年に制定された電源3法に基づく交付金のうち最大の交付額で、国から立地道県や市町村に交付される。 
電気料金に上乗せされる電源開発促進税が財源で、2014年度の交付総額は1059億円。 
稼働率(年間の発電電力量を、フル出力で1年間運転した場合の電力量で割った割合)などで交付額は決まるが、安全確保のため原発を停止した場合は 
立地自治体に不利益を与えるべきでないとの考えから、03年に停止中でも稼働率100%(10年度から81%)とみなす規定ができた。

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