▼家が津波で浸水する直前まで避難せず、部屋にこもっていました
女性は、それまで20年あまりにわたって、ひきこもり生活が続いていたと。
あの日、両親は仕事にでかけていて、女性は家で1人。
当時住んでおられたのは、防潮堤がすぐ目の前にある町営住宅の一階
地震が発生し、その揺れの大きさに、とっさに津波のことを考えたとのこと。
『避難した方が良いのは分かっている
でも、外に出られない 出るのが怖い・・・
いざ外に出るとなっても 何を着ればいいのだろう
靴はどこにしまってあったっけ?
そんな状態でした』
●外に出ることを躊躇していると
町の防災無線から津波警報が聞こえてきます。
それは、志津川の防災庁舎から避難を呼びかけるE.M.さんの声でした。
【ただいま 宮城県内に 10m以上の 津波が 押し寄せています 高台へ 避難してください】
『上ずったような、切羽詰まったような、そういう声で、必死で「避難してください」と呼びかけていて
それを聞いて、本当にこれはまずいんだなと・・・』
防災無線の声の異変に気づいた女性は
その声に背中を押されるようにして、ドアを開ける覚悟を決めました。
『玄関をあけると、人に会うかもしれない・・・怖いけど とりあえず出てみよう
それで、なんとも無かったら、また戻ろう、まずかったら避難しようと思って
玄関の扉を開けたら、(津波が)防潮堤を越えて、水が流れ込んでいる状態でした。』
4.6mの防潮堤を越えた津波、瞬く間に、町営住宅の一階にまで達しました。
その光景を目にした女性は、人への恐怖も忘れ、必死で屋上にかけあがりました。
そこには44人の方が避難しており、屋上で一夜を明かしました。
●しかし、避難を呼びかけ続けた、防災対策庁舎では、多くの犠牲者が出たことを後日知ります。
部屋を出るきっかけを与えてくれた、防災無線の声の女性も亡くなりました。
『防災庁舎に居た方は、みんな助かってほしかったんです・・・
「あなたの放送のおかげで、助かりました」
って、言えたらよかったなと、今でも思います。
『何か恩返しをしたいんですが、どうしたらいいだろうと考えて
それは、まず、自立することだ
自分の事を自分で、しっかりできるようにすること』
そう決めた女性は、大震災発生後、親元を離れて、仙台市内の自立支援施設で
職業訓練を受けはじめました。
さらに、ひきこもりの子どもを持つ親たちの助けになればと
自分の体験を話す活動も行っています。
『私はすごく苦しかったので・・・苦しくて、自分が嫌いで、いやで
そういう状況から抜け出したいと思っている人がいたら
何か手助けをできる人間になりたいですね・・・
あの時(3月11日)に、私を助けてくれた人たちのように・・・
そのことで、一生かけて、恩返しをしていこうと思っています。