エクセルシア Season 12

大震災 原発災害 東北を忘れない

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気仙沼 ー 高村光太郎

青空文庫様から



気仙沼 
            高村光太郎

女川から気仙沼へ行く気で午後三時の船に乗る。
軍港の候補地だといふ女川湾の平和な、澄んだ海を飛びかふ海猫の群団が、網をふせた漁場のまはりにたかり、あの甘つたれた猫そつくりの声で鳴きかはしてゐる風景は珍重に値する。
湾外の 出嶋 いづしまの瀬戸にかかるとそこらの小嶋が海猫の群居でまつ白だ。
此鳥の蕃殖地としては青森県の 蕪嶋 かぶしまが名高いが、此の辺にもこんなに沢山棲んでゐようとは思はなかつた。
彼等はいち早く魚群を見つけて其上に円陣をつくる。
彼等と漁船とは相互扶助の間柄だと人がいふ。
「名ばかり」といふ礁を通り過ぎて外洋に出ると、船は南方二十余キロの金華山を後ろにして針路一直線に北に向ふ。
水温二〇度、気温二七度、東方右舷の水平線に有るか無しかの遠洋航路の船が数分間置きに一定の煙を空に残してゆく。
この水平線上の電信記号がいつまでも消えない。暮かかる頃、岩井崎から奥深い気仙沼湾にはひる。
湾内は浅瀬で、もう暗やみの水路が甚だ狭い。大浦の陸とすれすれに進み、浮標の灯をたよりに入港する。午後七時半。

 船から見た気仙沼町の花やかな灯火に驚き、上陸して更にその遺憾なく近代的なお為着せを着てゐる街の東京ぶりに驚く。
賑やかな海岸道路の宿屋には、もう渡波から此所に来てゐる虎丸一行御宿の大きな立札が出てゐる。
玉錦一行の割当人名が出てゐる。私は或る静かな家に泊つたが、夏に旅行する者の必ず出会ふ旅館の普請手入といふものに此所でも遭つて当惑した。
勉強な大工さんが夜でもかんかんやるのである。さうして在来の建方を「改良」して都会風な新様式に作りかへる。

 柳田國男先生の「雪国の春」といふ書物をかねて愛読してゐた私は粗忽千万にも気仙沼あたりに来ればもうそろそろ「金のベココ」式な遠い日本の、私等の細胞の中にしか今は無いやうな何かしらがまだ生きてゐるかも知れないなどと思つてゐた。
気仙沼には近年大火があつたといふ。大火はほんとに業をする。

 翌日は朝からがんがん暑い此新時代の町を歩き廻る。
社会施設の神経がひどく目につく。さういふ事に余程熱心な自治体らしい。
古刹観音寺にゆけば婦人会の隣保事業があり、少林寺の焼あとにゆけば託児所で子供が鳩ぽつぽを踊つて居り、天満宮の山に登れば山上に公衆用水道栓があり、海の見晴らしにゆけば日本百景当選の巨大な花崗石の記念碑があり、あらゆる道路に街灯が並び、大きな新築の警察署があり、宏壮な小学校にはテニスの競技があり、学術講演会があり、一景嶋近辺へゆけば塩田何々町歩を耕地に整理して水田の何々町歩を得たといふ立札が立つて居り、夜になれば鼎座に 浪華節 なにはぶしがあり、シネマがあり、公娼が居なくて御蒲焼があり、銀座裏まがひのカフエ街には尖端カフエ世界、銀の星、丸善がある。
「車引いて商売する。悪いことあるか。」朝鮮人のアイスクリイム行商が反抗する。「ある、ある」とお巡りさんが腕をねぢつて連れて行つてしまふ。
おそろしく至れり尽せりの外客整備に旅人はただ茫然として突き放されてゐる。
此日小高い山腹の曹洞宗木食上人道場自在庵を訪ふ。洒脱な住職が慧海師将来の 西蔵 チベツト仏などを見せてくれた。
「私は山形の画かきでありますがごらん下さい。お志があれば紙代でよろしい」と突然縁がはに軸をひろげた人がある。住職は、「此寺は貧乏寺でな、お盆前では御交際も出来ません、お盆にでもなれば何ぼか貰ひがありませうが」と断つてゐる。画家は又軸を包んで横に背負ひ「御縁があつたらまた」といつてとぼとぼ山を下りて行く。

 私は忽ち海が恋しくなつて其夜十時、遂に気仙沼の新調の洋服を見ただけで、釜石行の船に乗る。
第二次世界大戦末期、本土防衛の捨て石とされ
住民を戦闘に巻き込んだ沖縄戦から73年。

那覇市から西へ約四十キロ、慶良間諸島の東端に位置する渡嘉敷島。
中央にある村役場に近い山裾に、その穴は残っている。

1945年3月23日から、同諸島を取り囲んだ数百の艦艇が空襲と艦砲射撃を始めた。

26日には座間味島に、27日には渡嘉敷島に米軍が上陸。
逃げ場を失った島の人々は山の中に集められ、軍の手りゅう弾を使い、肉親の間で手にかけていった。

本土決戦を覚悟した日本軍部が時間稼ぎのために沖縄を捨て石としたとされる戦闘。
県民の四人に一人が亡くなった「鉄の暴風」の中で、悲惨さを象徴する集団自決である。

イラク戦争開始から15年
日本人にも責任はあります。


今上天皇の意思の強さを感じる沖縄訪問の成功を祈っています。


発災後の 「前を向こう  がんばろう  笑顔で 」 という県外からの投げかけは
すでに向き合わず、ひとの苦しみから目を背ける意思だけが蔓延していたと痛感します。



『記憶の風化と呼ばれるものは
記憶そのものが薄れることであるよりも
自らの記憶・経験に向き合う意志の弱体化を示してるように思われます。
あの出来事は一体なんだったのか。
この問いに答える知性の力を私たちは鍛え続けなければなりません。』


転載元 立教大学様

東日本大震災から7年が経ちました。復興庁発行の『東日本大震災からの復興の状況と取組』(2018年1月)に記された、死者19,533名(災害関連死を含む)、行方不明者2,585名、住家被害(全壊)121,768戸(2017年3月8日現在)という数字を見ると、想像を絶する被害にいまも呆然となります。改めて犠牲となられた方々への哀悼の意を表するとともに、ご遺族の方々に心からお悔やみを申し上げます。

この7年間に、避難者数は発災直後の約47万人から約8万人まで減少したとのことです。困難な復興作業にあたられている皆さまの努力に敬意を表するとともに、なお避難生活を余儀なくされている8万人の方々が、1日も早く平穏な日常に戻られることをお祈りいたします。

震災の記憶の風化ということがしばしば言われます。しかし、2011年3月11日の大地震と津波、そしてそれに続く東京電力福島第一原子力発電所の事故は、いまでも私たちの心に深く刻み込まれています。あの日、いつもの日常の中で突然起こった地震で東京の交通機関は麻痺し、立教大学の池袋キャンパスは、水と食糧、そして暖と休息を求める人々で溢れました。テレビに映し出された巨大津波、原子力発電所の爆発の映像は見た時の感情と共に目に焼き付いています。繰り返される余震、通信の不全や正確な情報の入手困難、目に見えない放射性物質。私たちはそれぞれの場所で、それぞれの3.11とそれに続く日々を経験しました。

それら私たち一人一人の経験は、被災地の惨状と被災された方々の避難生活の苦難へと思いを至らせる想像力の要でもあるのです。

東日本大震災と原発事故は、文字通り私たちの日常生活の基盤そのものをつき崩しました。 近代文明は自然を人間のコントロールの下に置き、そこから多くの便益を引き出す技術を発達させてきました。しかしそれが果たして私たちを幸福な未来へと導くのか。人間は自然にどこまで手を付けてよいのか。3.11はその根本的疑問と不安を露わにしました。

記憶の風化と呼ばれるものは、記憶そのものが薄れることであるよりも、自らの記憶・経験に向き合う意志の弱体化を示してるように思われます。あの出来事は一体なんだったのか。この問いに答える知性の力を私たちは鍛え続けなければなりません。立教大学が岩手大学と陸前高田市と共に設置した「陸前高田グローバルキャンパス」は、まさにそのためにつくられたのです。

この3月に大学を卒業していく学生たちの多くは7年前の春、中学校の卒業式や高校の入学式に中止や延期等の影響があった学年に属します。15の春に震災を経験し、いま晴れて社会に出て行く青年たちを心から祝福いたします。

2018年3月11日
立教大学総長  吉岡知哉

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