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政談 「全般」

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汚い 危険 北朝鮮

与党・公明党の機関紙と広報公式ツイッターで
日本共産党ってどんな政党か?という質問に答えるという形で
日本共産党を「汚い KITANAI」 「危険 KIKEN」 「北朝鮮 KITACHOSEN」
の「三つのK」で分かる、として中傷し、物議を呼んでいる件で
公明党の議員からは、これらは昔ら言われていたことで、事実は事実、と反論しています。

しかし、それが事実かデマか、という議論に変わっていっていますが
多くの人が違和感を感じ、疑問視しているのは
その言葉の選び方ではないかと感じており、私も強い違和感と怒りを持ちました。
ここでいう、汚いは、他党の実績を自分たちの実績のように言う、“きたなさ”
公安から監視対象になっているという“きけん”
で、人の身なりや人間性への言葉ではないものの
この三つの言葉が日本共産党のキーワードに据え
これらの言葉を何の違和感を持たずに揚げるセンスは、社会との距離を感じます。

三つのK これはかつて、特定の職業に対して「汚い 危険 きつい」と表現し
職業に貴賤があるかのような悪しき風潮が、その三つのKの言葉の発想の根元にあるように思え
さらに、KKKとKが三つ並ぶと、白豪排他主義のクークラックスクランを想起します。

そして、なにより他者を「批判」する時に
「汚い」「危険」という言葉を選ぶ感覚
さらに、北朝鮮を並べて、憎悪を煽るという感覚
に、発したのが公党ということで、それこそ「危険性」や、強烈な違和感を多くの人が抱いたと思っています。

汚い、危険などの言葉は人が人を差別、侮蔑する時に使う言葉であり
言葉の暴力行為=いじめ、でも汚い、臭い、大人の世界でも、危険 などの言葉を浴びせられ、どれだけ多くの人が心に傷を負って生きているか
公明党の支持母体には多くの在日朝鮮人の方もいますが
そういう想像力の欠如にも嫌悪感を抱きます。
しかも、それらの批判の中身は、公明党へブーメランとして還ってくると思いつつ

なにが悲しいかって
公明党と日本共産党の支持層は、社会的に弱い立場の庶民層。
庶民の苦しみに顧みない権力者に対して辛辣な批判を突きつけるのならまだしも
庶民層がこうして、分断されて力を削がれていることに、この国の不幸さを感じています。
しかもそれを。自ら互いに分断の溝を深めているという現実。
だから、強者に都合のよい政策ばかり通っていくのではないかと憂いとります。









国連が主導するTOC条約締結のために「必要」だからと強行してる法案に、当の国連の人権機関が「行き過ぎである」と懸念を示す。

共謀罪:プライバシー制約の恐れ 国連報告者、政府に書簡 - 毎日新聞

引用

 プライバシーの権利に関するケナタッチ国連特別報告者は19日までに、衆院法務委員会で可決された「共謀罪」法案について、「プライバシーや表現の自由を不当に制約する恐れがある」と懸念を示す書簡を日本政府に送った。対象となる犯罪が幅広く、テロや組織犯罪と無関係なものも含まれる可能性があることなどを理由に挙げた。
 書簡は18日付で、安倍晋三首相宛て。法案にある「計画」や「準備行為」の定義があいまいで、恣意(しい)的に適用される可能性があると指摘。いかなる行為が処罰の対象となるかも明記されておらず問題があるとしている。

原文 ⇩
http://www.ohchr.org/Documents/Issues/Privacy/OL_JPN.pdf



上記リンクの内容の一部を下記に転載
まず、大多数の日本人は、自分たちが「共謀罪」によってひどい目に遭うことはあり得ないと考えている。

 なぜ彼らがそう思うのかというと、その根拠は、彼らが、自分たちを多数派だと信じ込んでいるからだ。

 このことはつまり、多数派の日本人が、「共謀罪」を、少数派の日本人(←たとえ表向き「一般国民」であっても)を網にかける法律だと思っていることを意味している。

 では、どうして、大多数の日本人が自分を多数派であると考えているのというと、彼らの自己意識は、そもそも自分が多数派であるという決して動かない大前提から出発しているものだからだ。

 ここの理屈はおかしい。循環論法に陥っている。

 「犬が犬なのは犬が犬を犬だと思っているからだ」みたいな話に聞こえる。が、実際にその通りなのだから仕方がない。大多数の日本人が多数派なのは、われわれが多数派であることを何よりも大切に考えている国民だからで、このことはほぼ全員の日本人が認めなければならない大前提なのだ。

 私の思うに、大多数の日本人は、なにごとにつけて常に多数派であるようにふるまうべく自らを規定している人々なのであって、それゆえ、少数派である瞬間が、仮に生じたのだとしても、その時点で即座に彼は、自分の考えなりライフスタイルなりを捨てて多数派に鞍替えするのであるからして、結局のところ、われわれは、永遠に多数派なのである。

 「彼ら」という主語と「われわれ」という主語が、野放図に使われていることに違和感を覚えるムキもあるかもしれないが、われわれ日本人が自分たち自身を客観視しようとする時、主語は集合無意識の中に溶解するのであって、彼らはわれわれなのであるからして、問題はない。混乱している読者は、まだまだ日本人として修行が足りないと、そう考えるべきだ。われわれは、主語を必要としない。なぜなら、諸君は私であり、私たちはすべてであり、われわれは無だからだ。

 たとえば、われわれは、卒業式で君が代を歌う。
 なぜか?
 国を愛しているからだろうか?
 心から歌いたいからだろうか?
 まあ、そういう人もいるだろう。

 が、大多数の日本人が式典やセレモニーに際して君が代を斉唱するのは、
「ほかのみんなも歌っているから」
 だ。

 振り返ってみるに、ほんの30年ほど前までは、君が代の斉唱が求められる場面で、多くの中高生は、君が代を歌わなかった。

 なぜだろうか。
 彼らは国を愛していなかったのだろうか。
 自分の声を恥じていたのだろうか。
 まあ、そういう生徒もいたはずだ。
 が、多くの中高生たちは、
 「ほかのみんなが歌っていないから」
 という理由で、君が代を歌わなかった。それだけの話なのだ。

いつの頃か、「批判だけでなくて、代案を」というようなことが言われるようになった。
誰がどう言い出したのかわからないけれども、おかしな話だと思う。
批判と代案は独立であり、批判は批判で大切にきまっているからである。

諸国の議会の様子を見ていると、与党に対する野党の役割は、何よりも「批判」である。
しかも、容赦ない、過酷なまでの批判である。
英国でも、アメリカでも、その他の国でも、野党は与党の政策を徹底的に批判する。それが野党の存在意義だからだ。

批判は、カトリック教会における「悪魔の代理人」に似ている。提案されたある政策に、どのような欠陥があるのか、矛盾があるのか、岡目八目で検討し、批判する。そのために野党があるのであって、批判のない野党はない。

そもそも、野党に相当する英語は、oppositionである。最初から、与党に対立するものとしてそれが前提とされ、期待されているのである。そうでなければ、野党の存在意義がないと言えるだろう。
野党に対して、「批判よりも代案を」というのは、議会制民主主義の本質を知らない人だ。

「批判だけでなくて、代案を」という一見もっともらしいスローガンの矛盾は、野党の代案が通る確率がそもそも低い、ということからもわかる。むろん、与党との話し合いで代案の一部が反映されることはあるかもしれない。
その場合も、十分な批判がなければ、そもそも議会が機能しない。

諸外国に比べて、日本の野党による与党の批判は、むしろ、まだまだ生ぬるい方だと私は感じる。これは、日本人気質によるところが大きいのかもしれない。日本の政治に必要なのは、代案よりも、むしろ、より本質をとらえた、容赦ない批判の方だろう。

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